@A
BC
@横山城―長浜市堀部町【MAP】
浅井四翼と謳われた大野木秀俊・三田村国定・野村定元が兵1千で守っていた。信長の目的は浅井・朝倉軍を野戦へ引きずり出すことだったので横山城を落とす必要は無かった。小谷城下へ放火されても動かなかった長政だったが横山城は別だった。佐和山城から小谷城へ通じる主要街道北国脇往還の途中にある横山城が織田の手に落ちては小谷城が孤立してしまう恐れがあったからだ。横山城からも救援を求める使者が長政のもとを訪れていた。本来なら後詰要請ができないように城を包囲すべきだが信長は城の窮状が長政に伝わるように城からの使者への備えをわざと甘くした。
横山城開城後、城主大野木秀俊は小谷城へ退去し、小谷城落城後は秀吉に降った。しかし中村一氏に裏切り者として殺害される。もう一人の守将三田村国定も小谷城へ逃げたが小谷城落城後投降するが許されず殺害された。
横山城は近江佐々木宗家六角氏を凌ぎ四職の一つに数えられるようになった京極氏が築いた。その京極氏が没落してその臣だった浅井氏が台頭してくると六角氏との間に争いが起こった。浅井氏の小谷城に近いこの城は六角氏と浅井氏の争奪戦の場となった。しかし横山城が歴史のターニング・ポイントとして登場するのは姉川の戦いである。
横山城は標高312mの通称臥竜山の地形を利用して築かれた。北の主曲輪を軸に北と北東に曲輪、南にもう一つの主曲輪がありY字型をしている。
【探索のヒント】横山城への簡単な上り口は2箇所です。北陸自動車道「長浜IC」の南を走る県道509号線を東へ向かいます。石田郵便局のすぐ先にある「日吉神社」が上り口の一つ目です。ここを更に進んで行くと左側に石田山公園駐車場があります。私はここを利用しました。ハイキングコースと言うだけあって息が切れるような登りはありませんがちゃんとした靴は必要です。鉄塔を過ぎると南の曲輪@です。鐘楼があり古い碑なども建っています。きつい登りはここまでであとは尾根伝いに多少のアップダウンで北の曲輪Aへ出ます。この先右側へを進むと小谷山が一望できる曲輪Bへ出ます。左の方は滋賀県内でも見かけない二重の空堀Cがある曲輪へ行きます。
【駐車場】専用駐車場
【バス】湖国バス「石田」「坂下」「観音寺前」
@A
BC
A龍ヶ鼻―長浜市東上坂町
容易に誘いに乗ってこない長政に信長は更に餌を撒いた。すなわち小谷城にとって重要な支城横山城を攻撃するにあたり、本陣を手薄にしてほとんどの兵を横山城攻めに向かわせることであった。信長の本陣には美濃衆を含めて数千しかいなかった。諸説あるが織田軍が2万に足りない兵数だとしてその6割近くを横山城攻めに向かわしていたことになる。ここに徳川家康の援軍が到着、それでも1万に足りないぐらいの兵の数であった
【探索のヒント】北陸自動車道「長浜IC」を降りると県道37号中山東上坂線に入ります。これを東(左折)へ進んだ右にある丘陵が湖北最大の茶臼山古墳でその先端が龍ヶ鼻です。この前方後円墳の頂上に織田軍は陣を張りました。古墳上り口@に車1〜2台の駐車スペースがあります。ここから横山城まで道はついているのですが、鉄塔のある辺りからは完全に草に覆われ断念しました。上り口から最初のピークに平坦な所がありそこから姉川・大依山・小谷山が一望できますA
龍ヶ鼻の前から県道37号中山東上坂線を西へ徒歩5分ほどの所に龍鼻之郷の石碑Bがありその横に陣杭の柳Cと言うものがあります。信長の本陣の杭跡から芽吹いた柳の子孫(4代目)だそうです。
●龍ヶ鼻(茶臼山古墳)【MAP】
●龍鼻之郷・陣杭柳【MAP】
【駐車場】なし
【バス】湖国バス「今荘橋」
B大依山―長浜市大依町【MAP】
『得よう浅井軍小谷山古城図』には大依山を遠藤直経と塩津和泉守が守っていたとある。直経は美濃との国境にある刈安城・長比城の改修を終えると大依山に駐屯していた。
信長の攻撃の矛先が横山城へ向けられるとさすがの長政も静観していられなくなった。長政は主力の磯野員昌・新庄直経・阿閉貞秀・浅井政澄らと共に横山城を包囲する織田軍を一望できる大依山へ移動した。しかし兵力に差があるためそこからは一歩も進めなかった。その間にも横山城から救援を求める使者が次々と長政のもとへやって来た。そんな時ようやく朝倉軍が到着した。しかし大将は朝倉義景でなく同属の景健だった。基本的に当主義景は幕命でないがぎり自ら出陣する事はしないのである。数の上ではまだ劣勢だがこれ以上横山城を放っておくわけには行かなかった。長政は織田・徳川軍との決戦を決断した。しかし美濃出身の浅井半助は信長の戦ぶりを知っていたので慎重論を唱えた。それに対し遠藤直経は地の利は我らにあるのでここは決戦を挑むべきだと反論、浅井家にその人ありといわれた直経の一言で決戦が決まった。
【探索のヒント】まず大依山に砦の遺構は見つかっていないそうです。そのため教育委員会でも発掘調査の対象となっていなくて砦としての実像は不明です。単に織田軍の動きを見るために高い所へ登っただけかもしれません。大依山は「お市の里」の背後にある山です。「お市の里」の北にある八幡宮から登って行けますが私は「浅井歴史民族資料館」の学芸員の方に教えられた草野川沿いの神社から登りました。頂上までは行けませんが木々の間から横山城方面は見ることができます。この「浅井歴史民族資料館」は小ぢんまりしていますが浅井氏の歴史がわかりやすく展示されています。姉川合戦の史跡地図も20円で入手できます。
【駐車場】浅井文化スポーツ公園駐車場
【バス】近江鉄道バス高山線「プラザ福良の森前」
@A
B
C岡山―長浜市東上坂町
徳川家康が本陣を置いた岡山は田園の中にぽつんとある唯一姉川の北を見下ろせる小山?である。家康軍は書物によって3千から6千とされる。その構成は酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・石川数正・小笠原長忠が率いる徳川最強部隊から成っていた。
信長から仕掛けた今回の戦いなので先陣は当然織田軍が受け持つはずだった。しかし家康が三河を出る時から自分が先陣を受け持つ決めていたのでどうしても自分に任せて欲しいと主張、これに信長も折れた。次に姉川を挟んで対岸に展開する浅井・朝倉軍のいずれに当たるかで家康は「長政憎し」の信長の気持ちを察し、朝倉軍を受け持つ事にした。家康としては来るべき武田との戦いを考え、ここで恩を売っておくことを忘れなかった。
岡山は姉川合戦で織田・徳川軍が勝った事から「勝山」とも呼ばれた。信長はここで戦勝祈願したそうである。しかしここに「流岡神社」があったのは江戸時代の事。信長が祈願しときは何があったのか。祠の脇に立つ巨大な杉の上部が枯れているのは戦いの時に飛び交った矢が当たって枝を追ったからだといわれている。
明治41年「流岡神社」は「上坂神社」と合祀された。上坂神社で信長は戦勝祈願し、勝利のお礼に金灯篭を寄進したといわれる。
【探索のヒント】北陸自動車道「長浜IC」東、県道37号線「東上坂町交差点」を北へ向かいます。この道は県道243号線です。北へ向かうと左前方にこんもりとした茂み@が見えます。これが岡山です。岡山に駐車場はありませんが路駐は可能です。岡山へは登れません。その麓に祠Aがあります。
上坂神社Bは岡山の真南にあります。ゲートボール場と駐車場が一緒になっています。2007年6月現在境内は工事中でした。
●岡山【MAP】
【駐車場】なし
【バス】近江鉄道バス伊吹登山口線「東上坂口」
●上坂神社【MAP】
【駐車場】専用駐車場
【バス】近江鉄道バス伊吹登山口線「東上坂口」
D三田村城―長浜市三田町【MAP】
朝倉景健が本陣を置いたのが三田村城であったといわれる。朝倉軍は第一陣に朝倉景紀、第二陣前波新八郎を配した。朝倉家の名将朝倉宗滴の養子だった景紀はこの時70歳である。三田村城主の三田村左衛門は横山城の守りについていた。横山城開城後は小谷城へ逃れるが今度は小谷城が落城。許しを乞うが秀吉よって一族もろとも処刑された。この後城は廃城となった。
三田にある伝正寺が城跡である。一辺60mの方形の平城だがこの北側に土塁が確認できた事から複郭構造であったと推定された。伝正寺にある土塁は高さ2〜3m基底部が平均5mある。現在鐘楼のある土塁は基底が9mあり櫓があったのではないかといわれている。
北陸から伊勢神宮へ向かう人々が通るこの村は昔から美味しい米が取れた。この米を伊勢神宮へ奉納したところあまりの美味しさに伊勢の神主から伊勢神宮に縁のある村の神社に「御田神社」の名前が与えられた。これより「御田村」になり「三田村」に変じた。鎌倉時代三田村宗右衛門が現れ、草野川沿いの土地を南へ開拓していった。宗右衛門は開拓した土地の中央に村を移し現在の三田村がスタートした。三田村城を築いたのは子の定元である。三田村氏はその祖が田原籐太秀郷説、三条公綱落胤説があるがいずれにしても浅井氏とは親戚である。そうした関係で定元が戦死後、遺児小法師丸は浅井亮政のもとで成人、その娘松市を娶り定頼と名乗った。定頼並びに三田村一族は浅井亮政・久政・長政と共に六角氏との争いを戦い抜いた。お市が浅井長政へ輿入れする時同行したが三田村光頼の妻である。
【探索のヒント】集落の中心部に位置します。境内に駐車できますが道が狭いのと城館を中心にした集落の様子がよく分かるので徒歩をお勧めします。駐車は姉川古戦場千種地区にある緑地公園駐車場を利用すれば城までは15分程度で行けます。県道271号佐野長浜線へ出て左へ向かいます。「三田南」のバス停辺りから集落へ入るのですが建設作業所の横の道から入ると天満神社へ出てそこを通り過ぎで左側、作業所より西の道を入れば伝正寺へ直接行けます。まず土塁に目を奪われます。素人の私でも城館のイメージが湧くぐらいです。
【駐車場】なし
@A
E野村―長浜市野村町
大依山を降りた長政は北国脇往還を南に下り信長の本陣の真正面の野村に本陣を置いた。数の上で不利な浅井軍は第一陣磯野員昌隊、第二陣浅井政澄(昌貞)隊、第三陣阿閉貞秀(貞征)隊、第四陣新庄直頼隊が魚鱗の構えで布陣した。一気に信長本陣に突入するつもりである。
のちこの4人は全て織田方に寝返った。磯野員昌は高島郡を与えられたが後逐電。浅井政澄は比叡山焼討に参加しているので早い時期に信長に降った模様。山本山城主だった阿閉貞征の寝返りが浅井家滅亡の決定打になった。本能寺の変で光秀に荷担したため一族皆殺しにあう。新庄政澄は秀吉に仕え関ヶ原合戦で西軍についたため改易、会津蒲生家に預けられていたが弟直忠とともに家康に家康に仕える事になる。
【探索のヒント】信長・家康・景健の本陣の情報はよく見かけるのにこの戦いの主人公である長政の本陣に関する情報がありませんでした。しかし「浅井歴史民族資料館」で推定地ですが地図で示されていました。一つ目が陣屋橋@。国道365号線野村橋を北へ渡り、ガソリンスタンドのある信号を右折、その次の信号を過ぎたすぐ右の農道に入る所です。もう一つは陣田A。国道365号線をガソリンスタンドで曲がらず直進、次の信号を右折。その次の信号を過ぎてしばらく行くと右側にこの道に沿って側道のある右折できる農道があります。その角の田圃が陣田です。農道と側道は車があまり通らないのでちょっとの駐車ならいけます。
【駐車場】なし
@A
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F三田村合戦―長浜市三田町
参戦人数に差があるのと同様、最初に仕掛けたのがどちらなのか書物によって違う。『信長公記』では織田・徳川軍が『武功夜話』では朝倉軍が先に川を渡ったとしている。いずれにしても野戦では数の多い方が優勢になるのでこの時もやはり朝倉軍の方が押し気味だった。しかし実際にここへ来て分かるのが河原を挟んで相手を目視できる地形ではないという事である。この地域は古来より米の生産地であったので姉川の氾濫に備え堤防を築いていた。従って河原へ降りるには一旦堤に登り、降りるという行動が必要になるので朝倉軍も戦場に全軍を投入しづらかった。
朝倉軍に苦戦した徳川軍だったが一陣の酒井忠次・小笠原長忠が必死に支え三河武士の強さを発揮した。さらに本多忠勝が一騎駆けで朝倉軍に突入するのを見て松平家忠・忠次、家康本隊も戦闘に参加、両軍入り乱れての戦いになった。再び押し気味になった朝倉軍は隊列が伸びきっていたが戦闘に夢中でそれに気づかなかった。これを見た榊原康政は家康に朝倉軍の右側を攻めることを進言、家康は康政と本多広孝に姉川を渡って朝倉軍の真横を攻めるよう命じた。無防備な側面から攻撃された朝倉軍は陣形を崩して混乱し、やがて小谷城目指しての敗走が始まった。
この三田村合戦で有名なのが朝倉家譜代の家臣真柄直隆である。直隆は弟直澄、子の隆基と参陣していた。真柄兄弟にその子供はいずれ劣らぬ豪傑で直隆は5尺3寸(約175p)もある「太郎太刀」を、隆基も4尺7寸(約150p)の「次郎太刀」を振り回し敵を恐れさせた。直隆は味方が敗走を始めるとその場に踏みとどまり徳川軍をを足止めにした。徳川軍の猛将本多忠勝でさえ討取れなかった直隆に挑んだのが匂坂兄弟である。兄の匂坂式部が名乗りを上げ槍を突き出したが叩き落され、逆に兜を叩き割られた。そこへ弟次郎五郎と家臣山田宗六が駆けつけ組み合いになった。さすがに疲れた直隆が深手を負うと「この首を取って男の本懐とせよ」と言って匂坂式部に討取られた―以上が小瀬甫庵の「信長記」である。「信長公記」では青木一重が討取ったとある。弟直澄も子の隆基もこのとき戦死している。なお、直隆と直澄は同一人物という説もある。
平清盛の弟頼盛の子保盛が真柄氏の祖といわれる。平家滅亡後、保盛はその乳母を頼って真柄荘に来て永住、南北時代には真柄性を名乗っていた。朝倉家には古くから仕えその信任も篤く六角氏と浅井氏が対立した時には朝倉宗滴の先鋒として真柄備中守が小谷城に陣を張っている。
【探索のヒント】国道356号線の野村橋を越えて最初の信号を左折すると左手奥に整備された公園があります。その奥の茂みにがあります。公園に三田村合戦跡の碑@は十数台分の駐車場があるのでこの付近の探索の拠点に便利です。古戦場の碑の横の石段を登ると川の様子は全く分か対岸に岡山Aが見えます。しかし雑草に覆われてりませんが河原は下の方にありそうです。土手の前にフェンスがありそこに真柄直隆奮戦の看板Bがかけられています。公園の道を挟んで西側の田圃全体が「千原・千人切りの岡」Cと呼ばれる徳川軍・朝倉軍激戦の跡です。
直隆の墓E興徳寺D(福井県越前市宮谷町29-20)にあります。北陸自動車道「武生IC」から県道262号武生インター東線を東へ向かいます。最初の信号の北に真柄直隆生誕の地の碑があります。更に東へ進んだ次の信号を右折、「東運動公園」の入口に興徳寺があります。私は運動公園の駐車場を利用しました。
小谷城間柄峠Fは大手道から登ること10分ほどで到着します。
●姉川の戦い<三田村古戦場>【MAP】
【駐車場】公園駐車場
●興徳寺<真柄直隆の墓>【MAP】
【駐車場】東運動公園駐車場
【バス】福井鉄道バス池田線「東運動公園口」
●小谷城真柄峠【MAP】
【駐車場】小谷城跡駐車場
【バス】湖国バス小谷山線「小谷城口」
@A
BC
F野村合戦―長浜市野村町【MAP】
有利に戦えるはずの織田軍が苦戦した原因に信長の誤認が挙げられる。信長は大依山を降りた敵軍が撤退する準備に入ったと判断したために、翌日敵軍が姉川対岸に布陣した時にまだ準備ができていなかった。徳川軍はすぐに龍ヶ鼻から1キロ先の岡山へ移動できたが、そのほとんどを横山城包囲に向かわせていた織田軍は信長からの連絡を受けてから戦場に向かうことになった。
浅井軍は自軍の倍はいた織田軍がほぼ同数なのに自信を深め、朝倉軍に合わせて織田軍攻撃に向かった。一般に織田軍は12段に構えていたといわれるがいくら尾張武士が弱くても浅井軍が死に物狂いだったとしてもそうは突破できるものでは無い。だからまだ織田軍の陣形が整わないうちに磯野員昌隊が突入してきたのであろう。一段目の坂井政尚隊は一蹴され政尚の嫡男久蔵が戦死、続く池田恒興隊も突破された。勢いづく浅井軍は大将長政も参戦して来た。その間にようやく横山城包囲隊の柴田勝家や佐久間信盛、木下秀吉らが到着して浅井軍の進撃を何とか食い止めつつあった。しかし信長本陣を目の前にした浅井軍は強引に敵陣を突破しようと前のめりになっていた。そこへ氏家卜全・安藤守就・丹羽長秀隊が東から徳川軍の援軍に行っていた稲葉一鉄隊が西から浅井軍を挟み込むように攻撃してきた。これに慌てた浅井軍は乱れた。折しも朝倉軍が榊原隊から側面攻撃を受て混乱しだした時だった。敵の中に取り残された磯野員昌は小谷城へ戻るのは不可能と判断、敵軍の中を駆け抜け佐和山城へ帰還した。
長政は撤退を決意した。しかし本陣にそれに従わない者がいた。遠藤直経である。浅井家きっての剛の者でありながら知略にも優れた武将であった。信長が上洛前交渉で佐和山城へ来た時、浅井家の将来のためと長政に暗殺を提案し、一方信長の越前侵攻に退路を断とうとした浅井久政に「今信長と事を構えては浅井家の滅亡に繋がる」と反対意見を述べたり時勢を見る目も正確であったが、その根底にあるものは浅井家への忠誠心である。姉川の一戦に賭けた直経の思いは並々ならぬものがあった。負ければ滅ぶしかないのである。信長の本陣が手薄になった今こそ信長を討取る絶好の機会と直経は戦死した同僚の三田村庄右衛門の首をとり信長本陣に向かった。「三田村庄右衛門の首を持参したのでお目通りを」すっかり様子の変わった直経に気づかない信長は目通りを許した。信長まで20m弱のところで予てより直経の首を狙っていた信長の馬廻衆竹中久作重矩が直経に気づいた。郎党16人と共に直経に組み付き、ようやくの事で不破矢足が首を取り重矩に渡した。他に富田才八、弓削六郎左衛門、今村掃部助なども直経に続いて本陣に切り込んで討ち死にした。
【探索のヒント】国道365号線「国道東上坂交差点」の北の信号を右の側道へ入ります。姉川を渡ったすぐ右に古戦場の碑@があります。車2台ぐらいなら停められそうです。この道の脇を流れていた川は戦死者の血で真っ赤に染まり血川Aといわれました。遠藤直経の墓へ行くには国道365号線を南へ戻り、「国道東上坂交差点」から県道37号へ入り茶臼山古墳の看板のある農道に入ります。この辺りの道幅が広そうな所で車を停め、この道から最初に右へ入る農道脇にある小さな墓石Bが直経の墓です。もとはこの後ろの田圃の中に「遠藤塚」というものがあったのを農地整備でここへ移しました。なお遠藤直経は須川城主でしたがほとんどは小谷城清水谷にあった屋敷Cに住んでいました。今、清水谷の史跡案内板が新設されていて「遠藤屋敷跡」案内板の左後ろに前の碑が残っています。
●姉川古戦場(野村):【MAP】
【駐車場】史跡横に2台分
【バス】近江鉄道バス「野村橋」
●遠藤直経の墓:【MAP】
【駐車場】なし
【バス】近江鉄道バス「今庄橋」
●遠藤屋敷:【MAP】
【駐車場】児童館駐車場
【バス】湖国バス「児童館口」
@A
G合戦のあと―長浜市野村町
織田・徳川連合軍大勝利は本当であろうか。多数の死傷者を出した一大合戦だったであろうが織田・徳川軍にとって完膚なきまで相手を打ちのめしたものではなかった。姉川の大合戦は江戸時代の軍記物で大げさに宣伝されただけである。浅井・朝倉軍にとって多くの城主クラスの武将を失ったわけでもなく、長篠で武田勝頼が被った大打撃とは比較にならない。ちなみに死傷者数は浅井軍1千、朝倉軍5千、織田軍8百らしい。
3月後浅井・朝倉軍は湖西を南下、宇佐山城を攻略して森可成を更に1月後堅田で坂井政尚を討取る大反撃をしてその健在振りを発揮した。また信玄の上洛に合わせた信長包囲網でも西の壁となっている。
【探索のヒント】三田町と野村町には戦没者を祀った史跡が残っています。三田町にあるのが七十士の墓@です。バラバラにあった地蔵を一箇所に集めて近所の方々が戦死者を供養しているそうです。国道365号線と交差している県道271号線を西へ向かいます。町の入り口にある「ここは三田」という看板の二つ目の所から町へ入ります。川を渡ってすぐ右に地蔵があります。
野村町の方は合戦の戦死者を葬った所として塚町Aがあります。残念ながら田圃だけで何もありません。今来た県道271号線を今度は東へ向かいます。姉川古戦場へ行く道を通り過ぎた二股の道の右へ進みます。すぐ右へ向かう農道があるのでその行き止まり辺りが塚町です。
●七十士の墓【MAP】
【駐車場】なし
●塚町【MAP】
【駐車場】なし
@A
H佐和山城包囲
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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