| 経過 |
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| 天正元年(1573)8月12日朝倉軍の篭る大嶽城・丁野城が織田軍によって陥落するのを@田神山の本陣で見ていた朝倉義景は最早浅井長政の命運は尽きたと判断、13日未明撤退を開始した。これを予想していた織田信長は全軍に追撃命令を下し、先頭に立って朝倉軍を追いかけたので諸将が信長に追いつけたのはA地蔵山であった。義景撤退に伴いB国吉城を包囲していた越前軍も本国へ引き上げだした。 2万の朝倉軍のうち義景ら本隊はC刀根坂を越えてD疋壇城ヘ向かうと読んだ信長は主力をそこへ向けた。信長の予測どおり、大将義景を逃すために名立たる武将が織田軍の前に立ちはだかったがあっという間に蹴散らされ越前軍3千が命を落とした。この間に義景は府中からE朝倉街道を駆け抜け、15日無事F一乗谷へ辿り着いた。しかしのんびりしている暇はなく16日には朝倉景鏡のすすめで景鏡の本拠G大野に向けH美濃街道を敗走していた。 疋壇城を落とした信長は14日〜16日まで敦賀で過ごすと17日I木の芽峠を越えて18日J龍門寺に着陣した。この日柴田勝家を大将とする織田軍先陣は無人の一乗谷城下町に火を放ち、朝倉氏が築き上げた栄華の町は滅んだ。 K大野東雲寺に身を隠す義景は最後の望みをL平泉寺に託した。黄金と絵画を添えた書状が平泉寺に届けられたが合議の結果、平泉寺は信長につくことにした。これも18日の事である。 こうして完全に孤立無援となった義景に景鏡は本陣に近いM六坊賢松寺へ移るよう伝えた。19日夕刻義景は母・広徳院、室・小少将、愛王丸に側近を連れて賢松寺に入った。20日早朝、織田方に寝返った景鏡軍に包囲された義景たちは自刃した。義景の首は24日景鏡により龍門寺の信長のもとへもたらされ、広徳院、小少将、愛王丸はN南条郡帰の里で処刑された。 25日信長は浅井長政を討つために小谷城へ向け出発した。 |
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