@田上山【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
A地蔵山【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
B刀根坂峠【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
C疋壇城【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
@A
B
D朝倉街道―南条郡南越前町鯖波〜福井市城戸ノ内町【MAP】
木ノ芽峠でいとこの朝倉景綱に離反され失意のうちに、やっと府中に着いたがゆっくりとはできず翌朝夜明けとともに出発した。北陸道から東へ向かい、橋立山・文殊山の山裾を通って榎坂を越え、東大味、鹿俣を過ぎると一乗谷の大手道になる。距離にして約22キロ。しかし義景が乗馬する馬は二日間餌を与えられていなかったので歩く事すらままならなかった。仕方なく義景は下馬して鞭を打ちながら歩みを進め、館に着いた時は日が暮れていた。
朝倉街道というのは朝倉氏がその拠点を北陸道から離れた一乗谷に置いたことで必然的に作られた。朝倉氏は守護斯波氏と守護代甲斐氏と敵対したため守護所のある府中を通らず北陸道と一乗谷を結ぶルートが必要になった。それが朝倉街道である。北陸道の東に街道とほぼ平行に走るこの街道のおかげで物資の輸送も容易になり、また戦が始まればこの街道を利用して素早く軍の移動ができた。
当時街道は京都ヘ向かう方を上りとしていたので一乗谷の南にある朝倉街道が大手道という事になる。その大手道から一乗谷へ入る谷間が最も狭くなった所に設けられたのが上城戸である。長さ105m幅20m高さ5mの土塁はその外側に設けられた深さ3m幅12mの堀を作った際出た土砂を利用している。
【探索のヒント】朝倉街道沿いに明智光秀の館跡といわれる明智神社があると知ったので一乗谷へ行くのに鯖江から朝倉街道を使う事にしました。本当の朝倉街道はもっと南の鯖波からスタートしています。
北陸自動車道「鯖江I.C」を下りて左折、県道105号鯖江今立線に入ります。最初の信号を左折、県道191号から208号徳光鯖江線に入り東へ向かいます。山際の道をしばらく走ると左に比較的広い側道があるので入ります。道なりに進んだ突き当りに妙真寺があり、その左側に文殊山ハイキング入口@があります。ここから山へ入り榎坂を越えて西袋町へ行くのが朝倉街道です。この道は榎坂トンネルの福井市側出口の少し先に合流します。ここで右折、道なりにひたすら直進すると県道238号一乗谷朝倉氏遺跡東大味線に入ります。やがて山道に入りヘヤピンカーブの直前、左手に"朝倉街道の立札と道Aがあります。カーブの所に待避所があるのでここに駐車しました。県道をこのまま進むと三峰城と一乗谷を結ぶ道に突き当ります。左が一乗谷行きです。ここから1キロ弱先、一乗谷へ入る入口にでかい土塁があります。上城戸跡Bです。駐車は待避線があるのでそこでも構いませんが「一乗ふるさと交流館」の駐車場をおすすめします。
●榎坂入口【MAP】
【駐車場】路駐
●朝倉街道【MAP】
【駐車場】路駐
●上城戸【MAP】
【駐車場】一乗ふるさと交流館
【バス】京福バス東郷線「一条小学校前」
@A
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E一乗谷―福井市城戸ノ内町【MAP】
義景が一乗谷で見たものは出陣時、1万人が生活していたというのが信じられないような無人の町並みだった。朝倉軍敗退を聞いた住人は織田軍の来襲を恐れ、一斉に一乗谷を去っていったのであった。その数6千人と推測される。義景がたどり着いた館には現状と行く末を悲観し涙に暮れる上臈達だけだった。間もなく従兄の景鏡、近習の鳥居景近・高橋景業が駆けつけた。彼らを見て義景は「最早武運は尽きた。こうなれば信長がここへ攻め込んできたら、本陣へ切り込んで見事果てて見せよう」と言った。更に上臈たちには家宝を集め全て焼き払ってしまえと命じた。愛息愛王丸には「わしが死んでまだ4歳のお前が織田方に捕らえられ、悲惨な目に合わされるのは忍びない。明日父はひと合戦してからお前を追ってあの世へ行くから先に逝って待っていなさい」と自害を求めた。すると鳥居景近が「今ここで全員自決するのは容易だが死ぬ覚悟ができているのなら家宝をもって、愛王丸様と一緒に戦いやすい所へ逃げ、敗残兵を集め一戦交えてた方が良いではありませんか」と説得した。これを義景はすぐに受け入れた。翌日午前10時ごろ朝倉家が但馬時代より崇拝する赤淵神社に義景が参ったあと、義景一行は大野へ向けて出発した。
【探索のヒント】福井県の観光地の一つなので駐車場は完備していますが遺跡の端から端まで見て回るには駐車場のはしごをしないといけません。遊歩道は朝倉史跡資料館から一条ふるさと交流館までありますが大体見て回るのに3時間は悠にかかります。じっくり回るには半日仕事のつもりで。一般的には国道158号線から県道31号篠尾勝山線から一乗谷を南北に走る県道18号鯖江美山線に入ります。一乗谷川に沿った県道18号線は史跡のオンパレードです。
県道18号線に入ってすぐ右に城下入り口は下城戸跡@があります。上城戸が巨大な土塁で城下への進入口を狭くしているのに対し下城戸は食い違いの土塁と内側には枡形を備えて敵の侵入を妨害します。ここから家臣の屋敷跡や寺院跡が続きます。下城戸を過ぎると一乗谷川に沿って家臣団の屋敷跡や寺院跡が続きます。一乗谷には禅宗・天台宗・日蓮宗の寺院が40数寺ありました。「一乗谷史跡公園センター」を過ぎた右側は赤淵・奥間野地区で寺院と町屋Aがありました。寺院は山を背に建てられており石垣を持つものもありました。寺院と街道の間が町屋です。背後の山に中に朝倉氏の氏神「赤淵神社」がありましたが現在は遺構すら残っていません。義景が最後に参った神社なのでしょうか。さらに南へ行った平井地区は武家屋敷群Bです。土塁により区画された場所に屋敷のほか蔵が建てられていました。
一乗谷川の西側が一般家臣の居住区という性格が見られるのに対し東側すなわち朝倉氏館DEがある方はどちらかといえば一族や重臣の居住区になっています。ここの史跡としては室町時代から現在に至っても枯れることなく湧き出している瓜割清水Cがあります。義景の生活用水としても使われていました。そして朝倉館です。南北と西に門があり西側が正門となります。周囲は堀と土塁で囲まれ北西と南西隅には櫓があったと推測されています。復元模型をみると館の北東側に建物が集中していました。義昭が越前に逃れてきた時に建て増しされた物もあり館には10数棟の建物がありました。
最後に朝倉館の背後にある一乗谷城です。2004年7月の福井豪雨で英林塚Fからのルートが閉鎖になり八幡神社G・安波賀Hからしか行けなくなりました。約1時間の行程です。あと林道美山線を利用すると駐車場Iから30分で千畳敷Jの方形区画群と一の丸Kの連続曲輪群面へ行く分岐点へ到着です。南北600m東西200mに及ぶ城跡を堪能するにはたっぷり時間を取って下さい。
●一乗谷朝倉氏遺跡
【駐車場】無料駐車場
【鉄道】JR越美線「一乗谷駅」
【バス】京福バス東郷線「朝倉館前」
●林道美山線遊歩道入口【MAP】
【駐車場】あり

BC
F大野市
一乗谷で義景が豊原寺へ逃げると言い出したので景鏡は平泉寺に近い我が領地大野へ来た方が良いと提案した。景鏡は義景の従兄で朝倉一族筆頭格だったので安心して義景は大野行きを決めた。
1380年越中守護斯波義将が越前守護畠山基国と守護職の交換をしてようやく越前守護に戻ると弟義種に大野郡を任せた。義種は戌山城(大野市犬山)を築城、ここを拠点に大野を治めた。1414年義種の嫡子で加賀守護だった満種が将軍義持の怒りに触れ高野山へへ流されたため、満種の子持種は大野へ移った。1464年斯波家家人で大野郡司の二宮信濃守が大野郡を横領したため、持種は幕府へ訴え出た。1466年幕府は持種の子義敏を斯波家総領職に就ける。同時に大野郡は義敏に安堵された。
府中を制圧した朝倉孝景が1475年2月大野郡平定のために戌山城を夜襲する。ところが中立だったはずの義敏が4月二宮氏が立て篭もる亥山(土橋)城(大野市日吉町16-5)に入ってしまった。前年朝倉氏と反目する甲斐氏と二宮氏、義敏が手を結んでいたのである。
孝景は幕府から義敏の保護を命じられていたが義敏が応じないため、7月二宮将監、駿河守を城外に誘き出して城兵150人と共に討取った。その後幕府は義敏に城からの退去を命じたが一向に応じなかったので11月孝景は総攻撃を仕掛けた。さすがに身の危険を感じたのか義敏は降伏してきた。こうして大野郡は朝倉氏の手に落ちたのである。
1527年頃から4代孝景は弟景高を大野郡代としたが遺領を巡って対立、景高を解任して以後一乗谷朝倉氏が直接支配する事になった。1566年孝景の子景鏡が足利義秋から式部大輔に任じられたのを機に大野郡代に復帰した。居城は戌山城で亥山城へ移ったのは義景を迎え入れる少し前だった。その後加賀一向宗によって越前が支配されると亥山城には杉浦壱岐法橋が入った。杉浦壱岐は亥山城の堀に水を引き込むため城から南へ1キロ弱の湧水に注目、ここを掘って池にした。これが本願清水である。
加賀一向一揆を壊滅させた後、大野の支配を任された金森長近と原政茂は城下の住民の生活用水に利用できるよう本願清水の治水工事行った。
【探索のヒント】亥山城を景鏡の居城とする事が多いのですが義景がここへ逃げてくる直前から一向一揆に敗れるまでの間しか利用していなかったそうで相変わらず戌山城が拠点となる城でした。
亥山城は1339年南朝方の堀口氏政により築かれました。現在日吉神社Bがあり城の守護神大山咋命(おおやまくのみこと)を祀っています。境内の南にある池が堀跡Cと言われています。JR越美線越前大野駅から西へ3百mほどの所にあります。駐車場の案内はなかったのですが神社の前の民家の横に何台が停めるスペースがあったのでここを利用しました。
●戌山城
●亥山城【MAP】
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】JR越美線「越前大野駅」
本願清水
G美濃街道【MAP】
義景の逃亡ルートは美濃街道、現在の国道158号線である。朝倉始末記にはそのルート上の地名を織り込んだ文章が載っている。
「何(イズク)ヲサシテ行(ゆく)水ミズノ、ホウキノ川ノ憂キ流レ、カヘラヌ人ノ打ツゞキ、急グバカリヤ市波(いちなみ)ノ里打過テコハ清水(しょうず)、落ヌル意(こころ)ハ浅谷ノ、今ゾ命ノ堺寺(さかいでら)、大宮スギテスゴスゴト、ウキ目ニ懸ルハカリ石、坂ノ峠モ打越テ、余所(よそ)ニ見ンモ今ハ只、イヤ恥敷鏡山、クモリテ見ヘヌ戌山ヤ、ヨウロノ村ヲ近ク見テ、心静ニ居山ノ東雲寺ニ夜ノ戌刻計ニゾ着玉ヒケル。」
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
H木ノ芽峠―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
@A
I龍門寺城―越前市本町【MAP】
龍門寺城のあった旧武生市は北陸道が通る交通の要衝で律令時代には国府が室町時代に斯波氏の守護所が置かれた。守護代の甲斐氏は遠江の守護も兼務する足利将軍家直属の御家人であった。1452年越前守護斯波家の後継者問題で守護代の甲斐常治(将久)は支流の斯波義敏を推した。この経緯があったにも関わらず甲斐常治の後継者に義敏は常治の弟を選んだ。これが斯波氏と甲斐氏の争いの元になり、さらに幕府の介入、越前国人の参加で「長禄合戦」と呼ばれる三年に及ぶ抗争に発展した。この頃朝倉家の家督を継いで力をつけてきた初代孝景は甲斐敏光に協力して斯波氏とそれに同調する堀江氏などの国人に勝利して、甲斐氏は府中を中心に朝倉氏は一乗谷を中心に勢力を持つ事になった。
やがて応仁の大乱が起こり孝景は甲斐氏と同じ西軍についた。当初から東軍は孝景を味方に引き込もうと様々な画策をした。しかし義敏がいる東軍に孝景を翻意させるのは困難だった。1471年将軍義政から越前守護職補任の御内緒が発せられた。これにより孝景は東軍に寝返り、越前平定に乗り出した。一方義政は越前大野にいた義敏に対して孝景が軍事行動を起こしても手出し無用と命じた。孝景は翌年府中の甲斐氏に勝利して越前の中心を手に入れた。
龍門寺は1299年悦巌崇善により創建された曹洞宗の寺である。朝倉攻めで信長がここに本陣を置いた後、富田長繁が改修した。
【探索のヒント】JR北陸本線「武生駅」の南西8百mほどの所にあります。昔の北陸道である国道365号線と県道19号武生米ノ線の交差点の西の細い道を北へ入ってすぐ右にあります。駐車場はあります。山門をくぐって左に堀跡を利用した墓地があります。土塁らしき物も確認できます。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】JR北陸本線・福井鉄道武生線「武生駅」
【バス】福井鉄道バス池田線・白山線「桜町」
J洞雲寺―大野市清滝【MAP】
戌山城の麓にある曹洞宗の洞雲寺に義景一行が到着したのが午後10時ごろであった。翌日早速義景は平泉寺宛てに助力を求める手紙をしたためた。しかし平泉寺ではこれを拒否したばかりか洞雲寺の義景たちを襲おうとした。
永平寺系曹洞禅は越前では朝倉氏、若狭では武田氏などの武家の保護を受け寺院が創建された。大野洞雲寺は郡代だった二宮左近将監の保護のもと1455年太源・了堂派で薩摩国日置郡の元勅が開いた。現在も永平寺末寺として重要な法要の時は永平寺の住職が導師としてやってくる。「朝倉系図」を所蔵している。
【探索のヒント】大野市歴史博物館に車を停め自転車で要所を回った途中で寄りました。大野市役所西側の道を西へ向かい、赤根川の橋を渡った目の前にあります。この境内裏が戌山城で昔はここから城跡へ登って行ったそうです。
【駐車場】あり
@A
BC
DEF
K六坊賢松寺
洞雲寺に居る義景のもとへ景鏡と義景の妹婿大野三河守の使者がやってきた。「どうやら平泉寺も織田方についたようだからここでは無防備なので我が本陣に近い六坊賢松寺に移ってください」と言う事だった。夕方の6時頃、小川六郎左衛門・三郎左衛門父子、加藤新三郎、高橋新助景業、鳥居兵庫守景親が義景に、斎藤兵部少輔、今藤源三郎、九津見溝右衛門、陣僧眞勝が広徳院・小少将・愛王丸に付従って六坊へ移った。景鏡の言った通り平泉寺の僧兵が義景らを捕らえに城下へなだれ込んできた。母小少将、祖母高徳院は明日をも知れない幼少の愛王丸が不憫で涙を流し、義景の近習は絶望的な状況にまんじりともできず夜を明かした。
一方翌早朝、亥山城で景鏡は家臣を集め「すでに織田軍は一乗谷に入った。事ここに至れば義景の命運は尽きたと言わなければならない。この際義景を討取って信長公のもとへ出仕しようと思う」と言った。すると家臣の平野中道寺が「昔より主殺しをして栄えた例はありません。最近でも松永と三好が義輝様を討取ったため信長に誅されようとしています。まして約束を反故にしてしまう信長に味方するなど危険すぎます」と申し出た。これに対し景鏡は「言っていることは分かる。しかし多くの戦死者を出した先の刀根坂以降、景健も景胤もさらに一乗谷四奉行の一人魚住景固、朝倉一族の溝江長逸(景家)も信長に降っている。更に平泉寺も信長についた。そなたが忠義立てしても手遅れだ。それにわし個人の恨みもあるのでこれ以上の諫言は無用にいたせ」と言い放ち、兵2百騎を引き連れ賢松寺に押し寄せた。賢松寺では丁度朝食の支度の最中だった。突然の鬨の声と鉄砲の音で驚いた近習が外を見ると景鏡の幟が寺を包囲していた。その時「義景殿!最早命運尽きもうした。朝倉家の行く末はこの景鏡に任せ、ここは潔く腹を召されよ」との声がした。義景は「おのれ裏切り者め!ここでわが身は果てようとも三年の内に貴様ら父子を取り殺してやる」と叫んだ。攻め込んできた景鏡の兵を近習が防いでいる間に義景は硯を持ってこさせ心穏やかに辞世の句を書いた。
「七顛八倒、四十年中、無他無自、四大本空」
午前八時義景は脇差を腹に突き立て、十文字に切り裂いた。「高橋は居らぬか。我が首を落せ!加藤!屋敷に火を懸けよ!」しかし両人とも敵を防ぐのに手一杯だった。義景は蝋燭の火をあちこちに着けようとするが瀕死の状態なので思うように体が動かなかった。その時高橋がやってきた。涙を流しながら義景の介錯を済ませると義景が自決した脇差で腹を斬った。続いて鳥居も自決しようとしたが憎き景鏡に一太刀浴びせてやろうと思ったが乱入してくる敵があまりに多すぎて見つけることはできなかった。諦めて鳥居も義景に殉じた。その直後、景鏡の兵が義景の首を発見、持ち出した。
朝倉家で義景に次ぐ序列の景鏡がなぜ義景を裏切ったのか。非常に分かりやすいのが義景は六角義久(又は義政)の子で朝倉孝景の養子だったとする説である。朝倉同門衆筆頭の景鏡が養子(義景)の失策で滅亡寸前の朝倉家を救うために義景を切り捨てたとする。義昭を一乗谷へ迎える時、信長を浅井氏と挟撃する時、小谷城への援軍など景鏡は義景の名代として出陣しているが最後の織田軍との戦いでは「兵の疲弊のため」と出陣を断っている。そのためめったに戦に出ない義景が出陣する事になった。
【探索のヒント】六坊賢松寺がどこにあったのか不明です。大野市役所の北にある曹源寺@という説もありますがこの土地に何も無い時に義景の墓が建てられ、その後曹源寺がここを買い取ってお寺を建てたので曹源寺とは何の関係もないそうです。
同じく大野市役所の西にある義景の墓所が該当するとの話も聞きました。義景墓所にある義景の五輪塔Bは旧朝倉氏家臣の子孫の松田氏が建てられ、義景に殉じた鳥居景近・高橋景業の墓C、母高徳院D、側室小少将E、嫡男愛王丸Fの墓も朝倉氏旧臣の子孫瀧池しにより建てられました。夕方に近所の方が一つ一つの墓にお参りしているのを見かけ、義景がこの土地では大切にされているのだなと実感しました。なお一乗谷にも義景の墓所Aがあります。
大野市役所のすぐ近くに義景墓所・曹源寺・洞雲寺があるので、車なら歴史博物館か市役所の駐車場に停めて一度に回った方が効率的です。
●曹源寺【MAP】
●朝倉義景墓所【MAP】
【駐車場】大野市役所または大野市歴史博物館駐車場
【バス】京福バス「六間」
L帰りの里―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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