金ヶ崎の退き口

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経過
永禄13年1月23日織田信長は畿内の国人並びに諸国の大名に
「内裏の修理、将軍の用事、その他天下に平安をもたらせるため、2月中旬に上洛する。各位、それに合わせて上洛して天皇、将軍に拝謁してもらいたい。くれぐれも遅れることのないように」
と書状を送った。それに従って大名、国人、代理の者が指定された頃に上洛した。だが信長に入ったのは30日のことだった。しかも事前に要請されていた通り、公家・幕府奉行衆・町民の盛大な出迎えを受けてである。
3月1日義昭正親町天皇に会った後は、連日、政務や茶会、面会に追われた。
4月16日石山城主①武藤友益若狭武田家の和を乱すような振る舞いがあると判明。それを成敗するため4月20日織田・徳川家康軍3万、飛鳥井雅敦日野輝資ら武家昵近公家衆から構成される幕府軍が若狭へ向け出発した。この日和邇城②21日田中城③に泊る。22日水坂峠④>を越えて熊川城⑤へ。23日熊川城を出発した幕府軍は西の石山城へ向かわず、東の国吉城(佐柿城)⑥へ向かった。ちなみにこの日永禄から元亀へ元号が変わっている。
佐柿城で2日間過ごした25日朝織田・徳川軍関峠⑦を越えて敦賀に入った。信長は本陣を妙顕寺⑧に置いて、朝倉景恒手筒山城⑨金ヶ崎城⑩疋壇城を攻撃、二日で落城に追い込んだ。このまま越前に乱入しようと準備を始めた信長の元に、小谷城浅井長政の寝返りが知らされた。信長は退却を決断。殿軍は木下秀吉が受け持った。また、先陣として木ノ芽峠⑪に進んでいた徳川軍はこの知らせを受けて引き返し、秀吉共に越前から攻めのぼって来る朝倉軍に備えた。
退却する信長浅井軍を警戒して、難所である針畑峠⑫水坂峠説もある)を通り、同行する松永久秀の助言に従い、朽木谷⑬朽木元綱を頼った。元綱の協力を得た信長一行はその後、若狭街道を南下、花折峠⑭途中峠⑮を経て大原口からへ戻った。4月30日夕刻ことである。一方、家康秀吉敦賀朝倉軍を撃退して、信長より数日遅れてへ戻って来た。
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