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@石山城―おおい町石山・久保【MAP】
石山城は別名亀山城と言う。大飯町と名田庄村の境にある標高599.4メートルの主峰から北東の佐分利川へ続く山の先端にあり、佐分利谷と高浜から名田庄への街道を眼下に見る。城の北東の麓には町が形成されているが武藤氏の居館跡は発見されておらず、城跡の方に屋敷の跡があった。
武藤氏の出自は不明であるが「丹歌府志」から丹後国の人ではなかったかと推測される(大森宏氏)。また安芸守護武田信武の根本被官との説もある(河村昭一氏)。
若狭の記録で武藤氏が初めて現れるのが左衛門尉元家で1531年武田元光の奉行人として書状にその名がみられる。元家の後、六郎左衛門尉光家と上野介友益の名が現れるがやがて光家の名は出なくなる。
1538年武田元光・信豊父子の争いを切欠に小浜代官粟屋元隆と高浜の逸見氏が挙兵した。友益はこれを見て小浜と高浜の間にある幕府奉公衆本郷氏の本拠本郷の奪取を目論んだ。山間の石山を本拠とする友益にとって小浜湾に面した本郷は交通物流両面で手に入れたい地であった。
手始めに一族の彦右衛門尉友賢をして上加斗の国人伊崎民部丞堯為を稲葉館に攻めさせた。伊崎氏は降伏、友賢は堯為を蟄居させ次男義誠を執事職として配下にした。長男光義は武藤氏の配下になることを嫌い武田信豊に仕えた。1540年友賢は稲葉館の背後に山に稲葉山城、さらに岡津に海坂城を築いて加戸を支配下に置いた。そして1541年からは本格的な本郷氏攻めに移る。また友益は本郷以外の領地にまで手を出したため、1558年以降逸見氏とは戦闘となっている。
1568年に武田元明を越前に迎えた朝倉義景は元明の叔父信方に若狭の安定を託すと友益は信方に従い反武田派を攻めた。だが守護が去った若狭は幕府へ返還されたと考えると友益の行為は幕府領での狼藉である。
将軍に代わり友益を討伐するのを大義名分に出陣した信長だったが浅井長政の寝返りのため退却を余儀なくされた。信長は若狭の国人の離反を防ぐため、すぐに明智光秀と丹羽長秀を石山城攻略に向かわせた。結果は友益は母親を人質に差し出して降伏、石山城は破却、石山は逸見昌経に与えられた。この年の秋、朝倉義景が湖西へ軍を動かすと、友益は信方、和田の粟屋右京亮と共に信長方の国人山県源三郎秀政の賀羅岳城(ガラガラ城)と逸見昌経の高浜城を攻めて信長に反旗を翻した。この後、若狭の国人衆は織田方と朝倉方に分かれる。
1573年信玄が死に、義昭が京を追われ、義景も死ぬと信方は抵抗を止めたが、友益は右京亮と抵抗を続けた。1580年、加斗城・海坂城の武藤友賢・友慶父子が本郷氏に攻められ敗れた後、武藤氏の記録はなくなる。本能寺の変に際して佐和山城を奪取したが光秀が敗北すると丹羽長秀配下になった説、すでに死亡していた説などがある。
石山城落城での秘話が残っている。本能寺の変で光秀に味方した友益は秀吉の母なかと妻於禰の居る長浜城を攻め落とした。怒った秀吉は石山城を包囲し水源を断った。すると友益は城外の秀吉軍に見えるように馬の背中に米を流した。遠目には馬を水で洗っているように見えるので、友益は城内には水が潤沢にあるふりをしたのである(これは他の籠城戦でも聞かれる)。半年の包囲に耐えた友益だが、結局、城は落城。友益はこの時、二人の姫に黄金を持たせ密かに城を脱出させた。ところが共に付けた仲氏が姫の持った黄金に目がくらみ、佐分利川の河原で二人を殺害してしまった。その後、地元の人は石山橋あたりを胴欲(貪欲から転じた)河原と呼び、お盆になると「ドンドコ、ドンドコ」太鼓の音が聞こえるという。
【探索のヒント】県道1号小浜綾部線と県道16号坂本高浜線の交差点を西へ行くと舞鶴自動車道が正面に見えてきます。それをくぐって左にある石山霊園の背後の山が城跡@です。標高190メートルの山頂が主郭で北東と東、北西の尾根上に曲輪が配されていました。このうち北東の尾根は高速道路のため半分近くが消失、北西は完全消失しています。他のサイトでもこの城が紹介されているとおり、主郭への明確なルートはありません。それでも楽したい私は地元の人に聞いてみました。すると高速道路ができる前は山の東側に山道が2本あって1本は高速道路のため無くなったがもう1本は残っているはずということでした。場所は名田庄へ行く県道16号線が高速の高架を抜けた右側とのこと。ところが教えられた方向はバイパスの工事で立ち入れない状態でした。とりあえず車をトンネルから出たすぐ右のスペースに止め、谷筋から登って行くことにしました。掴めたり足をかけられる木を捜し試行錯誤しながらようやく堀切Aを見つけました。GPSで確認すると東の曲輪Bでした。東の曲輪には三本の堀切があり、先ほどのは一番東側のものです。この曲輪の東端Cからは県道16号かつての周山道を見下ろせます。曲輪を西へ行くと主郭の北東にある曲輪へ行けるのですが、もう西の斜面を登る気力は残っていなかったので下山しました。
石山城の東は城下町Dで現在もその名残が残っています。山上では居館の礎石らしきものが発見されましたが、城下の発掘調査では居館の遺構が見つかっていないので武藤氏は城下には住んでいなかったのではと推定されています。町の中ほどにある曹洞宗西方寺の前に通り堂Eと呼ばれるものがあります。戦国時代には周山道を跨ぐ様に建っており、門番が人馬の往来を監視していました。またこのお堂の壁には地蔵が安置され、旅の無事を人々は願ったということです。
【駐車場】西側)石山霊園駐車場利用 東側)路上駐車
【バス】にこにこバスさぶり川公園線または福鉄バス(川上→本郷)「石山」
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【寄り道】海元寺―おおい町父子29−2【MAP】
父子にある海元寺は文献上で武藤友益の菩提寺とされるが住職のお話では友益でない武藤氏という。
海元寺は曹洞宗天真派の快翁派竹王明三が1533年(1559年説あり)海元寺谷に開いた。慈眼寺天真派は開祖天真自性の門弟希明清了が竜興寺を開いて以来、朝倉一族の保護のもと越前だけでなる北陸にいくつか寺院を創建して発展した。そして他の宗派同様、若狭へも進出し友益が外護者となった。
七堂伽藍を構えていたが太閤検地により縮小、さらに江戸末期二度の火災により諸堂、伽藍が灰燼に帰すという歴史がある。
【探索のヒント】県道1号小浜綾部線で「さぶり川温泉やまびこ会館」の東側にある「父子バス停」を南へ入ります。道なりに進み、二叉路の左の道を行くと左側に赤い欄干の橋があります。その正面が海元寺@です。右の坂道を登ると墓地があり駐車できますが狭いので橋を渡ったすぐ左のスペースに駐車した方がいいでしょう。
【駐車場】駐車スペースあり
【バス】にこにこバスさぶり川公園線または福鉄バス(川上→本郷)「父子」
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A和邇城―滋賀県大津市和邇高城【MAP】
和邇城のあった高城村は現在の和邇高城に和邇春・和邇中・和邇今宿・和邇中浜・和邇南濱を加えた地域で足利尊氏により園城寺に寄進された。「近江國滋賀郡高村村誌」には足利将軍の威勢が衰えた頃、和邇越中守信方、和邇豊後守秀成、和邇豊五郎實勝の三人で分割支配したとある。元亀3年3月信長により平定され徳川時代を迎える。幕府領となった高城村は小堀新助が初代代官となる。その後幕府代官領(代官の変遷:小野宗左衛門→石川荘次郎→小野半之助→石原清左衛門→都築金三郎→石原清一郎)と小坂蔵之助領とに分割される。小坂氏は明治維新まで代々この地を治めた。
【探索のヒント】郷土史家の方、図書館の方、城跡のすぐ近くにお住まいの方、誰も城跡のことを知りませんでした。教育委員会の方でも遺構も縄張り図もなく、文献で確認できる程度と言われました。和邇文化センターの西にある里山@が遺跡分布図では城跡です。和邇郵便局前は西近江路で信長もこの道を北上しました。二叉路で左の道を行くと常夜灯Aがあり、ここを左に曲がって山の方へ行きます。報恩寺Bとその背後の山が城跡で、山は手入れはされておらず所々に平坦地Cあっても遺構とは思えません。近所の方に教えてもらったのが観音堂跡Dです。民家裏の竹藪が平らにならされていました。結局、遺構は分かりませんでしたが和邇城があった高台は西近江路を見下ろせるE絶好の場所なのは確かです。
【【駐車場】和邇図書館駐車場利用
【電車】JR湖西線「和邇駅」
【バス】江若バス和邇栗原線「和邇小学校前」
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B田中城(上寺城)―滋賀県高島市安曇川田中【MAP】
1221年の承久の変で近江守護佐々木氏は後鳥羽上皇方と執権北条泰時方とに分かれた。北条方の勝利で上皇方だった佐々木広綱が処刑され次男の信綱が惣領となる。
信綱には4人の子がおり隠居に際し近江を四分割して与えた。子供たちはその領地や京屋敷の所在を姓として独立した。すなわち守護職を継ぎ惣領となった三男泰綱は六角氏、長男重綱は大原氏、次男孝信は高島氏、四男氏信が京極氏である。
高島氏は高島郡田中郷の地頭となる。その子孫は鎌倉時代から戦国時代末にかけて後世「高島七頭」と呼ばれる高島・平井・朽木・永田・横山・田中・山崎に分かれた。高島一族の惣領家は「高嶋」「佐々木越中」を称し「高島」はその庶流と考えられている。朽木氏の庶流である田中氏は安曇川の南側の泰山寺台地の東端からその麓を領有した。その詰めの城というべきものが田中城(上寺城)である。
【探索のヒント】JR湖西線「安曇川駅」の北を東西に走る県道297号安曇川高島線を西へ向かいます。山の麓に沿って道なりに行くと田中城の看板が右側に出ています。その前にあるのが公民館です。車は公民館前かその左前方の空き地に止めることができます。公民館前と空き地の間の道をそのまま進むと城の入口@です。野生動物の被害防止のため電気フェンスが設けられていますが閂を外せば入れます。
思った以上に規模の大きな城なので順路表示があるのは大助かりです。簡易トイレが一か所あり遺構の表示ABCDや整備もされ非常に楽に回ることができます。この日は朽木村公民館で人と会う約束をしていたので簡単にしか回れなくて天守跡へは行っていません。再度ゆっくり行く予定です。
田中城がいつ築かれたのか不明で、かつてあった松蓋寺Eの寺坊の跡地を再利用したと考えられています。
【駐車場】公民館前と空き地に駐車スペース
【バス】高島市コミュニティバス「上寺」
C水坂峠―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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D熊川城―三方上中郡若狭町熊川【MAP】
信長が若狭へ出陣する5日前の4月16日、若狭の国人「三十六人之衆」に対して所領安堵はこの信長が請合うので武田元明への忠勤を疎かにしてはならないと伝えた。過去の経緯はどうであれ若狭は朝倉ではなく武田元明を以て一枚岩にならねばならない、その為に出陣すると信長は宣言した。信長=将軍の後ろ盾があれば国内は安定すると喜んだ武田家臣―
高浜城・逸見昌経、箱ヶ岳城・内藤筑前守、麻生野堡・香川右衛門大夫、大倉見城・熊谷大膳、南前川城・山県下野守秀政、加茂堡・白井民部丞勝胤、谷小屋城・寺井源左衛門、能登野城・畑田修理亮、粟屋勝家、山本豊後、鳥羽某などが信長一行を出迎えるために我先にと熊川へ集結した。熊川では松宮玄蕃の館に泊るが、「国吉籠城記」では三泊、「信長公記」では一泊となっている。
40戸ほどしかない熊川村が若狭街道の要衝とされ、熊川城が築かれたのは室町時代になってからである。上野国出身で瓜生荘の領主だった幕府奉公衆沼田氏の手による。奉公衆として康正2年(1456)に弥三郎、文明8年(1476)に弥太郎光延、明応年間(1492-1501)に上野介光兼の名が残っているが誰が築城したかは不明である。なお光兼は足利義輝暗殺事件で討死している。
光兼の四男勘解由左衛門清延が城主だった1569年膳部山城の松宮玄蕃允清長に攻められ近江へ逃れる。清長は嫡男左馬亮に城を預ける。松宮氏は沼田氏の遠敷郡新道・河内・熊川を手に入れた。
天正12年丹羽長秀によって城は破却されたが、小浜城主となった浅野長政は熊川の重要性を考え、諸役免除の触れを出して村を宿場として発展させた。現在も町を流れる前川(用水路)この時作られたものである。
探索のヒント】国道303号線を滋賀方面から来ると「道の駅熊川宿」で小浜方面からだと公番の所から脇道に入ります。そこが熊川宿@です。観光地なので駐車場はあちこちにあります。
白石神社Aの本殿の左側に登り口があります。山道のすぐ横が斜面なので安全のためロープが張られています。10分ほどで連郭式縄張Bの中へ出てきます。右へ行くと熊川宿を見下ろせる尾根上にある曲輪Cです。この先には3本の竪堀があるらしいのですが見えませんでした。左へ行くと主郭Dです。主郭の西にある櫓台から下を見ると堀切Eが確認できます。主曲輪から3つ下の曲輪から帯曲輪Fを通ると南東の尾根上にある三段の出丸Gで行けます。
白石神社を出て左にある得法寺Hは越前攻めに同行した家康が宿泊したお寺です。今はもうありませんが家康腰掛の松Iがありました。
【駐車場】観光駐車場
【バス】JRバス若江線「若狭熊川」
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【寄り道】松木庄左衛門長操の史跡【MAP】
関ヶ原合戦後、小浜藩主となった京極高次は小浜城築城のため年貢を増額したうえ労役を熊川村に課した。特に大豆年貢は5割増しとされた。三代目城主酒井忠勝もこれを継承し、城完成後も課役は同じままだった。
これを改めるよう庄屋達は松木家3代目庄左衛門を中心に13年間訴え続けた。このしつこさに忠勝は庄屋達の捕縛を命じた。庄屋達が次々捕まり投獄されるのをみて庄左衛門は覚悟を決めてた。ある日、庄左衛門が母に謡をうたって聞かせていると捕手がやって来た。ただちに連行しようとするのに対し庄左衛門は、この曲が終わるまで待って欲しいと頼んだ。父を早くに亡くした庄左衛門は母をとても大事にしていた。うたい終ると庄左衛門は捕らわれ牢に入れられた。庄屋達は牢での過酷な仕打ちに屈して願いを取り下げたが、庄左衛門は抵抗し続けた。1652年5月16日、当時大老になっていた忠勝は直訴を禁じるため、見せしめに庄左衛門を日笠の北川河原で磔刑に処した。享年28歳だった。だがその死と引き換えに大豆年貢の引き下げを認めた。自らの命と引き換えに民の負担を軽減させた庄左衛門は義民として称えられ、その生誕地新道から処刑された日笠北川にかけて史跡がある。
探索のヒント】若狭街道沿いにその史跡があります。熊川宿の得法寺を北へ行く嘆願書を差し出す庄左衛門の像@、石段を登り切った右に庄左衛門を祀った松木神社Aがあります。生まれた新道には生家Bが残され、川沿いに生誕地の碑Cが建っています。「三宅交差点」で国道303号線から小浜へ行く国道27号線へ入ります。7キロちょっと行った左側に日笠公民館があります。北川河川で処刑Dされた長操の遺体は近くの正明寺(三方上中郡若狭町日笠26−1)の住職により同寺に葬られました。現在残る五輪塔Eは村人が1749年に建てられたものです。
●松木神社―三方上中郡若狭町熊川【MAP】
【駐車場】熊川宿観光駐車場
【バス】JRバス若線「若狭熊川」
●松木長操の墓(正明寺)【MAP】
【駐車場】熊川宿観光駐車場
【バス】JRバス若江線「日笠」
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【寄り道】若狭街道から丹後街道
熊川城を出発して若狭街道を進む石山城攻撃軍は、日笠で敦賀へ向かう丹後街道へ進路を変えた。既に若狭衆には今回の信長の軍事行動は武田元明を朝倉氏のもとから連れ戻す為と伝えられていた。その拠点となる国吉城では織田軍を迎えるための準備で忙しく熊川へは行けなかった粟屋勝久は、遠敷郡と三方郡の国境倉見峠まで村人を引き連れ出迎えに行った。
湖西から敦賀へ向かうには西近江路(湖岸沿いに坂本から海津へ向かう)と七里半越え(海津から山中、疋田経由)を利用する方法があるが、信長は今津から九里半越え(今津から小浜へ向かう)ルートを選択した。若狭の国人衆の出迎えを受けそれを従える信長の威光を見せつけるのが狙いだった。ちょうど信長が今回の上洛で京の町衆に出迎えを要求したのと同じである。
【探索のヒント】古代より敦賀から小浜へは主要街道がありました。国道27号線がこれに当たります。現在の国道303号線を若狭街道と呼んでいますが、「熊川浄化センター」の南側の側道が旧街道です。この道は天徳寺交差点@で丹後街道と合流します。この交差点を11キロ半東へ行くと倉見峠Aです。何も表示はありません。天徳寺交差点も倉見峠も路駐しかできません。
【駐車場】なし 路駐
●天徳寺交差点【MAP】:【電車】JR小浜線「上中駅」
【バス】JRバス若江線「三宅小学校前」
●倉見峠【MAP】
@A
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G国吉城(佐柿城)―三方郡美浜町佐柿【MAP】
若狭と越前の境にあるのが国吉城で越前と丹後を結ぶ丹後街道の東を監視していた。
1538年6月、若狭武田氏家中最強と謳われた粟屋党の惣領家で小浜代官の粟屋元隆が挙兵した。これに呼応して同じく重臣で若狭の西を守る逸見氏も挙兵。さらにこの機に乗じて元光の弟・信孝は身を寄せていた朝倉氏を動かし若狭へ復帰を図ろうとした。だが、小浜は若狭の中心地で朝廷・幕府・寺社が所領を持っていたため、武田氏に対する反乱だけでは済まなくなった。幕府は細川晴元を派遣して武田家臣にこの反乱に同心しないよう説得、武田氏の依頼を受けた本願寺証如は加賀一向宗門徒を動かし朝倉氏の背後をけん制した。こうした動きによりこの年の暮れ、反乱は鎮圧された。
反乱を起こしたとはいえ粟屋党は武田氏にとっては必要不可欠の勢力であった。そこで武田信豊は元隆の所領の名田荘を没収、惣領家を廃して庶流の光若を奏者として重用する一方、粟屋党を小浜のある遠敷郡から三方郡へと遠ざけた。この三方郡の粟屋党からその後、国吉城主となる粟屋勝久が出る。1556年、勝久は常国国吉が築城したと言われる古城を改修して居城とした。これが国吉城である。
その2年後、武田信豊の近習とその子義統を推す武田家の譜代家臣の対立は父子の対立へと発展。信豊は妻の父六角定頼を頼り近江へ脱出した。この事態に武田家臣団は完全に分裂、若狭は武田氏の遠敷郡、逸見氏の大飯郡、粟屋氏の三方郡というように三つの勢力に分割された。1561年、義統は朝倉義景の援助で逸見氏を降し大飯郡の失地回復に成功。次なる標的は粟屋氏となった。
1563年9月2日、朝倉太郎左衛門により国吉城攻めが開始された。その後1567年まで毎年8月から9月にかけ朝倉氏は国吉城を攻めたり、その周辺を荒らし回ったが粟屋氏に勝利することは一度もなかった。1568年4月8日(以説あり)、義統が死去した。家督は12歳の元明が継いだ。すると朝倉氏は粟屋氏を力で抑え込むのを止め、元明を活用する方法に切り替えた。8月下旬、3千の朝倉軍は若狭へ進入したが国吉城には見向きもせず小浜に進んだ。途中、熊谷氏との戦闘はあったが朝倉軍は小浜に到着した。そして野坂数馬・瀬尾大覚を元明の所へ遣わし、「未だ若狭は混乱しており元明公の身に何かあったら取り返しのつかないことになります。とりあえず越前に避難なさいませ」と申し出た。元明はこれを受け入れ、朝倉氏と共に越前へ向かった。引き揚げる朝倉氏を粟屋氏は追撃しようとしたが国主武田氏の御旗がその軍列に翻っており、元明が越前へ向かうのをただ黙って見過ごすしかなかった。
興味深いのはこの出来事を越前では「元明を脱出させた」とし若狭では「国主を奪われた」と解釈していることである。それは『福井県史』(福井市<越前>で編纂)と『小浜市史』(小浜市<若狭>で編纂)でもみられる。ただ近年、双方の同意の上、一時的に越前へ向かったとするのが主流になっている。
1583年、秀吉から佐柿を与えられ国吉城主となった木村常陸介定光は秀吉の指示を受け、椿峠を越え西へ向かっていた丹後街道を城下を通るように南に付け替え、街道を中心に町割を実施、近隣の住人を移住させ、地子・諸役の免除で商人を集め、寺社を整備して3年がかりで現在に繋がる佐柿の町を形成した。一時、堀尾吉晴が城主となったが1586年まで木村定光がここを治めた。1587年浅野長政が若狭国主となると江口三郎右衛門、翌年には浅野平右衛門を城代とした。1600年徳川家康より若狭を与えられた京極高次は多賀越中を城代とした。
1584年秀吉は若狭入りした丹羽長秀にこの地方のほとんどの城を破却させが、国境を守る国吉城は一国一城令が出た1615年まで存続した可能性はある。だが佐柿の町は1634年若狭を与えられた酒井忠勝により翌年、町奉行所、御茶屋屋敷(藩主の領内巡見の際の休憩所)が設けられ、宿場として発展していた。また明治になっても郡役所、郡内最初の小学校も建てられ三方郡の中心であった。
【探索のヒント】若狭国吉城歴史資料館の裏山が城跡です。資料館裏手の谷筋が城主城居館跡@で城主と家臣団の住居跡です。平成13年から14年の調査で石垣や礎石建物遺構が発見されています。居館跡から山上へ登る九十九折れの道は整備されて階段はあるのですが、結構急な所もあり正直きついです。最初にある城の遺構が出丸Aです。二の丸とも云われ奥行き50メートルある平削地です。ここで注目されるのが分厚く高い土塁と喰違虎口BCです。大手道は居館跡の西側谷筋からここへ入ったのではないかと推測されています。本丸へ行くまでに何箇所か野面積みの石垣Dがあります。また対朝倉籠城戦で使ったのではないかと思われる人頭大の石があちらこちらで見られます。登り始めて約25分で本丸北の堀切へ到着。でも堀切とわかるのは北の連郭式曲輪から本丸方向を見た時Eでした。堀切を右へ向かい虎口を抜けると北を底辺にした三角の本丸Fです。南の土塁の下には堀切Gが確認できます。整備はされていませんがこの堀切方面にも道はあります。最初の堀切を左へ行くと5つの曲輪が階段状に作られている仮称北西曲輪群です。この曲輪群に関する記録がないので便宜上、一番南からU郭・V郭・・・と呼んでいます。堀切を見下ろすU郭Hからは若狭湾が一望Iできます。U郭からV郭Jへ行くには張られたロープを伝って下ります。下りてU郭の切岸を見ると3メートルKはありそうです。V郭とW曲輪KもU・Vほどではないですが高さに差があります。W郭の中を進み少し低い下草だらけの所がX郭で切岸の右側に虎口Lがあります。その先、土塁の上を歩いて降りると最後のY郭Mです。この下に搦手道があり椿峠へ抜けています。
講演会で中井均氏がこの城にある大きな土塁や喰違虎口は朝倉氏の影響が見られ、粟屋氏時代の遺構であるとは断言できないと述べられています。
駐車場は資料館前とその手前の2か所あります。手前の駐車場横に准藩士屋敷跡Nがあります。幕末、尊王攘夷の水戸天狗党が京を目指しながら敦賀で投降。その内で敦賀藩預かりとなった110人を収容するために建てられたものです。
【駐車場】専用駐車場 
【電車】JR小浜線「美浜駅」
【バス】福鉄バス若狭線「佐柿、佐柿口」
美浜町コミュニティバス丹生線「佐柿」
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【寄り道】徳賞寺―三方郡美浜町佐柿【MAP】
粟屋勝久の菩提寺である徳賞寺は天文年間(1532〜55)に旭渓の麓に祐和尚の開いた徳賞庵が前身である。1563年勝久は国吉城籠城戦の死者を弔うため徳賞庵に寺領を寄進し機山祖全を招いて寺を創建した。
安芸国高田郡粟屋郷出身の粟屋氏は安芸守護武田氏の家臣である。若狭守護となった武田信栄だが在京が基本だったので、奉行となった粟屋氏も京に居て若狭本国の守護代へ指図していた。
武田氏で初めて若狭へ赴いたのは2代目の信賢と言われる。この時に粟屋氏も若狭へ向かっている。だが必要以外武田氏も在京なので粟屋氏も京に居たと考えられる。武田氏が本格的に若狭に腰を据えたのは5代元信で、1510年代始めと推測されるので粟屋氏もそれに従って京を去った可能性がある。
惣領家庶子家問わず粟屋一族は政治に戦いに武田家随一の働きを見せた。武田氏が連歌など文芸に秀で、文化人を支援した関係から粟屋氏も文化人として有名であった。とくに親栄は若狭歌壇のリーダーで三条西実隆とも頻繁に自作の和歌に関して意見を乞うている。文武に優れた粟屋氏は武田家中で重きをなし、元隆の小浜代官就任となる。だが謀反により元隆の系統は没落してしまう。それでも粟屋氏の武田家中における地位に揺るぎはなかった。その中から勝久が登場する。勝久も先祖同様、連歌をたしなむ風流人であり、武人でもあった。
勝久は第一次越前攻めに失敗した信長から離れず、3年後の1573年8月越前へ退却する朝倉義景を追う信長を刀禰坂で出迎え、一乗谷へ同行し宿敵義景の討伐を成し遂げた。その後丹羽長秀の騎下で若狭衆として各地を転戦する。本能寺の変で若狭衆の中で勝久と熊谷大膳だけは光秀に与しなかった。天正12年、病のため死去。その信長への忠誠心を称え、秀吉は子の勝家、孫の助太夫を馬廻衆として取り立てた。秀頼側近となった助太夫は大坂の陣を生き残り藤堂高虎に仕えた。また助太夫の弟五右衛門勝長は臼杵藩稲葉家に仕えている。
【探索のヒント】若狭国吉城歴史資料館の右側の坂を登って行くと徳賞寺の山門@があります。本堂の左側から裏へ回ると墓地になっています。勝久公墓所の案内がありますが五輪塔が三つあります。水輪が割れているものAが以前の勝久のものです。この状態を憐れんで有志の方が新しく建てましたB。出身地安芸の方を向いているとのことです。下の方にあるのが勝久のあと城主になった木村定光のものCです。城主館跡の西は青蓮寺谷といい青蓮寺Dがありました。酒井忠勝の陣屋を建てるため現在の場所に移されました。725年創建の古刹です。勝久が一乗谷を攻めた時に持ち帰った「五百体愛染明王図」「高麗焼浮牡丹皿」が寄進されています。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】JR小浜線「美浜駅」
【バス】福鉄バス若狭線「佐柿、佐柿口」
    美浜町コミュニティバス丹生線「佐柿」
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H関峠―敦賀市関・三方郡美浜町佐田【MAP】
丹後街道の越前と若狭の国境が関峠である。かつては関所があったという。1563年、朝倉氏が粟屋氏を攻めた際、ここで両軍の攻防があった。この年の8月中旬、朝倉義景は粟屋氏攻めを命じた。9月1日、朝倉太郎左衛門、半田又八、野坂某の1千は金ヶ崎城を出発、金山村に着陣した。これを知った粟屋勝久は領内の非戦闘員を山へ避難させ、兵糧を城内へ運び込み、籠城の準備をすすめた。だが籠城準備が整う前に朝倉軍は動きそうなので、勝久は関峠で朝倉軍を迎え撃って時間稼ぎしようと考えた。これに志願したのが力自慢の山本豊後守であった。勝久は豊後守に田邊半太夫と兵3百を与え関峠へ向かわせた。粟屋軍は大急ぎで城戸・堀切を設け、街道脇に身を隠して朝倉軍を待った。2日払暁、朝倉軍は金山村を出発した。まだ薄暗い街道を登ってくる朝倉軍を発見した粟屋軍は弓、鉄砲の一斉射撃を加えた。この時弓4〜50人、鉄砲30人という。突然のことに驚く朝倉軍めがけ、豊後守は飛び込んで行った。これを合図に粟屋軍も朝倉軍へ攻撃を開始した。数の上で劣勢だった粟屋軍だったが奇襲攻撃が成功、敵の首を36上げて城戸の前に並べたという。大混乱に陥った朝倉軍は一旦兵を引き揚げることになった。
【探索のヒント】元国道27号、現在は県道225号敦賀美浜線上にあります。峠@の表記はないので地図で確認。路側帯はないので本尊二体地蔵尊A横のスペースに車を止めました。昔、押し寄せてきた津波をこの地蔵が喰い止めたという伝説があり、「力の地蔵さん」とも呼ばれています。月に一度、地元の人たちが清掃に訪れています。
【駐車場】なし 路上駐車
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I妙顕寺―敦賀市元町9−18【MAP】
本陣を手筒山から6百mほど離れた妙顕寺に置いた信長は自ら馬に乗り、城の状況を把握しようとした。その結果、本城手筒山城と支城金ヶ崎城を同時に攻めては損害が大きくなるので、金ヶ崎城には監視の軍を残し主力を手筒山城攻撃へ投入することを決めた。
織田軍は損害を出しながらも一日で手筒山城・金ヶ崎城を攻略、一両日中に一乗谷へ攻め込める状況になり、信長は上機嫌であった。
信長もいよいよ出発という27日になり湖北方面の部隊から浅井長政が裏切ったという情報が入った。長政に全幅の信頼を置く信長は「虚報」と取り合わなかったが同様の知らせが続々と届くと信じざるを得なくなった。このまま越前へ攻め入り義景と刺し違えても朝倉を倒すと言ったとも伝わる。結局、殿を受け持つ秀吉に鉄砲隊数十人を残し信長は京を目指し退却を開始した。
長政がなぜ信長に反旗を翻したかは諸説あり確定はされていない。「もし信長が朝倉を攻めるなら浅井に一報いただきたいと言っていたのにそれがなかったので不信感を抱き信長を裏切った」というのは江戸時代の創作で最も信憑性がない。最も有名な朝倉・浅井同盟説だが近年では否定的な意見が主である。
朝倉氏は美濃・加賀・若狭など周辺国に紛争が起こると当事者の依頼で介入、和議の斡旋を度々行っている。1517年京極氏・六角氏、1525年六角氏に攻められた浅井氏が朝倉氏に援軍を要請したのはこうした実績があったからである。朝倉宗滴の派遣が同盟の存在の裏付けにはならないのである。
ではどうして長政が信長を裏切ったのか。「朝倉家伝記」から1525年の宗滴派遣は六角氏に協力してのものだったという佐藤圭氏の研究結果から朝倉・浅井友好説は否定された。これを踏まえ長浜城歴史博物館の太田浩司氏は対等同盟だったはずの信長と長政の関係が義昭上洛後、長政は織田家の一武将という位置づけに変わった。長政は北近江の独立した大名という地位を守るため反信長連合に加わったとする。前一乗谷朝倉遺跡資料館長の水野和雄氏は朝倉氏と浅井氏では同盟するにはあまりにも格差がありすぎるという立場から浅井氏は朝倉氏の家臣と考える。朝倉氏は北近江支配のため京極氏の再起を警戒、京極氏監視を浅井氏に担わせたとする。
信長が本陣を置いた妙顕寺は気比神社の学問所気比神宮寺として藤原武智麻呂により創建された。1294年佐渡から都へ布教の途中立ち寄った日蓮上人の孫弟子日像上人に帰依した覚円は現在の具足山妙顕寺に改めた。7世三智院日森上人の時、敦賀での日蓮宗布教に大いに寄与したことから四箇の聖跡寺院となる。この時「最初具足山最初妙顕寺」と号する。
【探索のヒント】国道8号線「元町交差点」から県道36号敦賀港線へ入り次の信号までの左側に妙顕寺墓地の駐車場@があります。振り返ると目の前に手筒山。墓地の横が信長が陣を張った庭Aです。信長が見たであろう三門は空襲により焼失し、現在は再建されたものBです。ここに陣を張った信長のもとに妹お市から小豆袋Cが届けられ長政の裏切りを知ったとか。この小豆袋のレプリカは金ヶ崎宮で購入できます。1千円でした。
【駐車場】専用駐車場
【バス】敦賀市コミュニティバス市街地循環線「市民文化センター前」
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J手筒山(天筒山)城―敦賀市天筒町・泉【MAP】
朝倉氏に対する積年の恨みを晴らす機会到来と粟屋勝久は信長に先陣を願い出た。だが信長は「毎年繰り返される朝倉の攻撃を耐え抜く天晴な働きでその方も疲れておろう」と今回の戦いは我が軍に任せてのんびり構えておればよいと言った。それでも信長の役立ちたいと勝久は「間もなく信長公が諸侯を率いて朝倉退治のため敦賀へ入られる。手始めに手筒山城・金ヶ崎城を攻撃されるが、これに協力する者には誰にでも褒美が下されるであろう。だが朝倉に味方する者は悉く首をはねる」と敦賀の町に触れを出した。
手筒山城攻めの大将を命じられた丹羽長秀は5千の兵で手筒山を包囲した。長秀が気比神社に差し掛かったところ、敦賀の町人百姓が城への登り口を案内すると大勢集まって来た。その中から案内者を選び、大手・搦手から一斉に城へ攻めかかった。堀をも逆茂木も乗り越え城内へ突入を図る部隊を援護して鉄砲隊が間断なく射撃を行った。そして弓隊の放った火矢が櫓に命中、燃え上がると織田軍の一斉攻撃が始まった。
城を守る寺田采女と疋田右近は数千の兵でこれを迎え撃った。この抵抗が激しく織田軍の死傷者は増えて行った。だが信長は数を頼みに力攻めを命じた。結局、織田軍は損害を出しながらも城兵を全滅させた。
この戦いで初陣だった森可成の嫡男可隆は城へ一番乗りを果たしたが功を焦ったため乳母子の勝三郎と共に討死した。これについては勝三郎は池田勝三郎恒興、可隆は長可のことで、後の小牧長久手の戦いのことではないかと指摘する見解もある。
【探索のヒント】天筒山山頂を主郭とし南と東へ伸びる尾根上に曲輪が設けられていました。金ヶ崎宮にある敦賀工業高校建築システム部が作ったジオラマ@が非常に参考になります。
東側は中池見湿地帯Aで信長時代も湿地であったため城の守りも緩やかでした。そこを突いて織田軍が攻め上がって来て落城が早まりました。中池見人と自然のふれあいの里Bから山頂へ登る道で曲輪C堀切Dが確認できます。この道の途中に舞崎遺跡の案内板があります。手筒山の南の尾根の先端EFで南の曲輪がありました。北陸道を見下ろすこの丘陵には古代より見張り台、古墳、お堂、経塚が作られています。山頂からの急斜面には二つの曲輪、南の曲輪までの尾根上には堀切・竪堀がありました。国道476号線天筒山トンネルと国道8号線敦賀バイパスに挟まれた丘陵上にも曲輪がありました。しかし山が崩されるなど開発が進んで遺構の確認はしづらくなっています。
天筒山山頂の公園へは手筒口Gが一般的です。国道8号線「曙交差点」で余座方面へ曲がり、信号を過ぎて国道476号線へ入らず左の側道へ入ります。入口横の「敦賀市管工事協同組合事務所」の駐車場は自販機を利用すればいつでも止められます。クマが目撃されたということでクマ鈴は忘れないようにして下さい。
登り始めて10分で「右・中池見」「左・山の神神社H・永巖寺」の案内板があります。永巖寺の方へ行かない限り展望台へ行きます。神社を抜けて遊歩道へ出てまた登り始めると小屋風のトイレIがあります。ここも曲輪跡です。左へ行くと山頂で右へ行くとこの山唯一の城の遺構群Jがあり中池見へ行きます。中池見へ行く途中に舞崎遺跡を確認できます。現在展望台Kのある広場が主郭で南に向かって切岸で段々に曲輪を配していました。
●天筒口:【MAP】
【駐車場】敦賀市管工事協同組合事務所駐車場利用
【バス】栄新町―敦賀市コミュニティバス市街地循環線、海岸線
●中見池口:【MAP】
駐車場はAM9:30〜PM5:00
【駐車場】中池見人と自然のふれあいの里駐車場
【バス】敦賀市コミュニティバス東郷線「中池見口」
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K金ヶ崎城―敦賀市金ヶ崎町・泉【MAP】
25日の手筒山城の戦いが過酷なものだったので、金ヶ崎城攻めは翌日となった。その夜、信長の本陣に朝倉一族の者一人と僧侶二人が訪ねてきて「城兵の命を助けてもらえるなら城は明け渡し、一乗谷へ案内いたします」と伝えた。信長はこれを受け入れ、滝川彦右衛門と山田三右衛門を城へ送り込んだ。これとは別に手筒山城から落延びた兵が関に居るという情報を得た粟屋勝久はこれを探し出し越前への案内としている。
信長の援助があったればこそ15代将軍になれた義昭だったが、軍事力・財力の豊かな信長を天皇が高く信頼しているのに不満を感じた。だが永禄12年正月の本圀寺襲撃事件は義昭が無くてはならないことを実感させた。この期に乗じて信長は同年1月14日殿中御掟を義昭に承認させた。これにより信長は京都において室町幕府より優位な立場となった。この年の信長は伊勢攻めにより国主北畠氏を降している。これがさらなる野望へ繋がった。10月12日これを報告に信長は上洛したが16日義昭と仲違いして岐阜へ帰国してしまった。その後岐阜から動かない信長にまず朝廷が接触を図る。それは幕府との間で起きている問題の仲裁をしてもらうためだった。その後、義昭の女房衆のトップ大蔵卿も岐阜へ下向して信長と会っている。恐らく義昭が歩み寄る形で両者の関係が修復されたのであろう、翌年1月23日信長から出された追加殿中御掟5ヶ条を義昭が承認している。ただこれは内密とされていたため、信長の行う施策も軍事行動も義昭の意向とみなされ、信長に逆らうことは義昭に逆らうことを意味した。結局、義昭に許されたのは宮中関係の用事だけとなった。
信長は義昭がこのまま大人しくしている人間でないのは分かっていた。信長に反抗する時、その後ろ盾になるとしたら縁があり京に近い朝倉義景となる。信長は義景排除のための大義名分を得るため、義昭の名で諸侯へ上洛を求めた。朝倉氏には上洛命令が届かなかったとする説、書状は届いたが一族の朝倉景行の反対で上洛しなかった説がある。いずれにしてもここに逆賊朝倉氏を討つ口実ができた。当初若狭侵攻を掲げていた信長が進路を越前へ向けても、若狭の国人のほとんどがそれに従ったところをみると、すでに今回の軍事行動の目的は伝えられていたということである。知らなかったのは朝倉陣営だけでそれは浅井長政と義景の連携の悪さに表れる。もう少し織田軍を越前へ引き込んでから長政が挙兵すれば信長は抜き差しならない状況に置かれていたはずである。義景が鯖江の北・浅水から一乗谷に引き返したがこれはこの挟撃作戦失敗の大きな原因とはならないと思う。
【探索のヒント】車の場合は手筒山の麓の金前寺前にある観光駐車場@を利用すると便利です。金ヶ崎城の史跡は新田義貞が立て篭もって足利軍高師泰を迎え撃った戦いに関連するものが主ですが信長関連も二つあります。一つは古城跡の碑が建っている主郭Aから遊歩道を手筒山へ行った織田軍の攻撃で焼け落ちた朝倉方の兵糧庫跡である焼米出土地B。案内してくださった中道さんが子供の時、学校の授業で焼米探しをしたそうですが、子供たちのために事前に焼米は蒔かれていたそうです。もう一つは金崎宮内にある朝倉神社Cで手筒山合戦で戦死した朝倉の兵を祀っています。手筒山城に比べまだ遺構は分かりやすいですがジオラマDで予習した方がより楽しめると思います。
【駐車場】観光駐車場
【鉄道】JR北陸本線・小浜線「敦賀駅」
【バス】敦賀市コミュニティバス市街地循環線「金崎宮前」
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【寄り道】敦賀城跡
朝倉義景が滅び敦賀郡を任されたのは越前三奉行の木下祐久である。祐久は秀吉正室御禰の父といわれる。越前一向一揆を滅ぼした信長は武藤舜秀を敦賀郡代とした。
1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅びると敦賀は岸和田城主だった蜂屋頼隆に与えられた。頼隆は古代より国内のみならず大陸との交易で発展していた敦賀湊の近くに新たに城を築き、国際都市敦賀の町づくりを開始した。6年後、秀吉の九州平定戦に参加していた頼隆が陣中で没すると大谷吉継が頼隆の遺業を引き継いだ。建築途中だった敦賀城は吉継の時に完成する。また都市の開発も続けられ、湊周辺にはコメを扱う豪商の邸宅や蔵屋敷が建ちさらに発展した。
関ヶ原合戦で吉継が戦死し敦賀は加賀前田藩の監視のため、家康の子結城秀康に与えられた。秀康が34歳で死ぬと13歳で息子の松平忠直が跡を継いだ。叔父である徳川秀忠の娘勝姫を娶り、大坂の陣でも華々しい活躍をした忠直だったが、江戸参勤を怠り、常軌を逸するほどの我儘・無行儀のため1623年29歳の時隠居させられてしまった。
この時10歳だった嫡子光長がその跡を継ぐも翌年には越後へ転封。敦賀は一旦幕府直轄領となった。だがすぐに小浜藩主京極忠高に与えられ、以降、敦賀は小浜藩領となる。
忠高が毛利氏監視のため出雲松江へ転封の後も、次藩主酒井忠勝が敦賀を領有する。その後、忠勝の嫡孫忠隆が小浜藩主を継ぎ、次男忠稠は分家して敦賀藩主となる。
【探索のヒント】敦賀城は1615年の一国一城令により破却されました。遺構も縄張り図も残っておらず、越前国絵図や四戦場図屏風「簗瀬・姉川合戦図」に描かれている姿でその存在を確認できる程度です。城域は北は赤川@、南は霊山院の南側の道、西は敦賀病院前の道、東は八幡神社から敦賀西小学校の道に囲まれた長方形の場所です。歩き回ると現在の道や用水路がほぼ城の外周に沿っているのがわかります。
小浜藩の支藩となりましたがここには陣屋は設けられませんでした。その代わり敦賀西小学校(敦賀市結城町)Aには町奉行、八幡神社との間には藩主の休憩所であるお茶屋が作られました。西小学校のグラウンドからは平成21年の発掘調査で江戸時代の地層の下から敦賀城時代の遺構が発見されています。
城の乾門があった北西隅にある真願寺Bには敦賀城の礎石Cが残されています。
私は敦賀市立博物館の駐車場に車を止めてこの付近を歩きまわりましたが交通量も少ないので写真程度なら路駐できそうです。
来迎寺には破却の際移築されたと言われる中門Dが残されています。中門のある方は狭い道なので寺の西側にある駐車場を利用することをお勧めします。他に木製加飾腰高障子13枚も移されました。
●赤川:【MAP】
【駐車場】なし 路上駐車
●敦賀西小学校:【MAP】
【駐車場】なし 路上駐車
【バス】敦賀市コミュニティバス山・公文名線、金山線、若狭線「神楽2丁目」
●真願寺:【MAP】
【駐車場】なし 路上駐車
【バス】敦賀市コミュニティバス海岸線「松栄町」
●来迎寺:【MAP】
【駐車場】専用駐車場
【バス】敦賀市コミュニティバス常宮線、松原線「松島口」
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【寄り道】慈眼寺―南条郡南越前町小倉谷7−1【MAP】
景恒は50騎を率いて手筒山救援に向かい果敢に戦ったが、多勢に無勢、手筒山城を占拠されると金ヶ崎城へ引き上げた。
1564年加賀出陣中、景鏡と諍いを起こして自決した兄景垙の跡を継ぎ還俗して敦賀郡司となった景恒は住民の多くが信長に味方する現実に、ここで働いた6年が非常に空虚なものに映った。景恒は信長に降伏を申し出た時にはすでに刀を捨てる決心をしていた。間もなく長政の裏切りで織田軍は撤退したが景恒は越前ではなく山間の普門山慈眼寺へ向かい仏門に戻った。手筒山城で戦死した朝倉の兵を弔い年月を過ごす景恒のもとに義景の死が伝えられたのは3年後のことだった。
慈眼寺は1387年天真自性禅師により開かれた曹洞宗の寺院である。七堂伽藍を備え寺内に塔頭十七ヶ寺を有していた時代もある。府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)署名の霊供米21石を保証する安堵状が残されている。
【探索のヒント】国道365号線「燧交差点」で国道476号線に入り道なりに15キロ進むと左側にお寺はあります。道を挟んだ反対側に公衆トイレと駐車場があります。残念ながら景恒に関するものはありませんでした。
【駐車場】慈眼寺前に駐車場
【バス】今城地区住民利用バス「慈眼寺前」
L木ノ芽峠―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
M針畑峠―小浜市上根来【MAP】
若狭と京を結ぶ道を鯖街道と呼ぶ。最も利用されたのは熊川を通る九里半街道である。最短距離だと上根来(かみねごり)から針畑峠を越えて小入谷、そして鞍馬街道を使って京へ入る「針畑越え」である。針畑峠を越える場合はこれが一般的である。小入谷から朽木氏館まで直線で10キロ、北川沿いに行くと32キロもある。それなら針畑川を下って途中から朽木街道へ出た方がロスがない。だから信長の針畑越えはなかったと思う。
【探索のヒント】国道27号線「東小浜駅口交差点」で県道35号久坂中ノ畑小浜線へ入ります。あとは道なりに進みますが途中で大型車進入禁止の一車線の山道@に入ります。上根来畜産団地の先から林道が始まります。徒歩の場合もここからスタートで途中で山道に入り車道とは別れます(途中3回合流しますが)。
ところが2011年9月27日現在この林道は通行止めです。5月の豪雨で山が崩れたということです。ここ以外にも若狭では何箇所か通行止めの所があります。事前に小浜市役所に確認してください。というのも通行止めの看板は林道入口に来るまで全く無いのです。私のように無駄足を踏んだ方が看板に落書きしていました。「ここへ来るまでに看板出しとけ!」と
【駐車場】不明
@A
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N朽木城―滋賀県高島市朽木野尻【MAP】
近江守護佐々木信綱の次男高信は高島郡を与えられ、その子孫が高島郡内に分かれ、それぞれの本拠地を姓とした。朽木氏は高信の孫義綱(次男頼綱の三男)が1287年朽木荘の地頭(他に常陸国本木郷)となったことから始まる。だが朽木を名乗るのは3代後の経氏からである。
朽木氏は若狭(朽木)街道のおかげで京へ頻繁に行くことができ、その中で室町幕府と公家の実力者と姻戚関係を結ぶことに成功した。その後も幕府・公家関係者との婚姻が続く。こうした経緯から都を追われた将軍たち(11代義澄、朽木生まれの12代義晴、13代義輝)は朽木氏を頼ったのである。朽木へ逃れていた義晴・義輝を助けた8代殖綱は将軍近習に採り立てられ京に定住、その子晴綱が朽木を治めた。また、晴綱の弟たちも将軍近習となり京に住んだ。この弟たちは晴綱の跡を継いだ甥の元綱を軽んじることが多かった。そこで元綱は新将軍となった義昭にこれを戒めるように依頼、これに応じた義昭は伯父達に元綱に忠誠を誓わせた。そのまま義昭近習となった伯父達だが、信長と義昭が対立すると誓約どおり信長方の元綱に従うため義昭の元を去ることになった。
関ヶ原合戦で西軍から東軍へ寝返りの見返りとして本領9595石を安堵された元綱は交代寄合となり、朽木に陣屋を持つことを許されたので朽木城を改築することにした。周囲を土居と堀とで囲まれた台形の敷地に政務関係の建物、御殿、西御殿、侍部屋、馬場、剣術道場が建てられ明治維新まで存続した。
【探索のヒント】朽木城は朽木資料館@のある場所です。平成12年の発掘調査で陣屋跡が城跡であると分かったそうです。県道23号小浜朽木高島線沿いのガードレール内側の土盛している所が堀跡Aでその時に発見されました。西側の山神神社と村民グラウンドの間の道は空堀跡Bです。資料館にある井戸や背後の石垣Cは江戸時代からの遺構です。
【駐車場】朽木資料館駐車場(休館日でも駐車可)
【バス】江若バス朽木線「朽木グランド前」
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【寄り道】圓満堂跡―滋賀県高島市朽木市場【MAP】
退却する信長一行に先行して松永久秀が朽木元綱の城へ入った。浅井氏の高島郡国人に対する新地宛行により朽木氏は形式上浅井家配下となっていたのでその動向を探る目的があった。過去に京を追われた将軍を匿った朽木氏の立場は明確だあった。「幕府軍の大将である信長に味方する」。こう決めた元綱は警固兵を連れ慕谷(しとだに)で信長一行を待つことにした。この時、信長を討つつもりだった元綱を翻意させたり、甲冑姿で出迎える元綱に信長が誤解すると忠告し道着に着換えさせ信長と元綱が円満に会えるよう骨を折ったとされる久秀からは、のちに2度までも信長を裏切った戦国一の梟雄の姿はない。
朽木谷へ信長一行を迎えた元綱は下市場にある圓満堂へ案内した。ここで隣家の長谷川惣兵衛茂元がお茶とお菓子で信長らをもてなした。信長は礼に履いていたたちつけと銀の箸を茂元に与えている。翌日、信長は京を目指して朽木を後にした。
翌年、元綱は信長に従うことを決意、使者を上洛させた。これを喜んだ信長は須戸庄の請米と新知行地を約束する。これにより高島郡ではこの年2月に寝返った磯野員昌と元綱が浅井方の高島・田中・永田・能登・横山・山崎と睨みあうこととなった。
【探索のヒント】国道367号線「山神橋交差点」の北約360mのところで側道に入ります。間もなく左側の空き地前に圓満堂跡の看板@が建ち、たちつけAも載っています。この道は旧若狭街道ですが江戸時代以前は今のような「鍵曲り」はなく直線で南へ向かっていました。
【駐車場】路上駐車 朽木資料館駐車場利用
【バス】高島市営バス上村能家線「下市」
江若バス朽木線「下市場」
【寄り道】信長の隠れ岩【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
【寄り道】旧興聖寺跡【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
【寄り道】旧秀隣寺庭園【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
O花折峠【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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P途中峠【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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