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@小谷城清水谷―東浅井郡湖北町郡上【MAP】
北は山田川を挟んで山田山、東は伊吹山がそびえる小谷城の唯一の開口部が清水谷(きよみずだに)である。清水谷へ入る手前で北国脇往還が折れ曲がりそれに沿って城下町が形成されていた。城下町と言ってもほとんどが田で伊部の街道沿いや小谷山に沿った麓に職人町や寺社、市場があった程度である。そこへ織田軍が攻め込みあっという間に清水谷の武家屋敷を制圧、谷の奥、水の手までを占領した。清水谷ヘ向かう途中に大手門があり、清水谷を登っていくと搦手である。数十人が討取られ、清水谷を織田軍に占領された浅井軍は完全に城に押し込められた事になる。
【探索のヒント】日本五大山城という括りで湖北町も力を入れてます。07.10に児童館が「小谷城戦国歴史資料館」として生まれ変わり、小谷城といえばこの人教育委員会の山崎さんが館長です。国道365号線「郡上南交差点」から@山の方へ入って行きます。やがて左に広がる芝生地帯がA武家屋敷群跡です。その先の右側にB大手道の案内があり通常の登山ルートへ繋がります。車は資料館に停めてそこから先は徒歩です。大手道ルートと違いどんどんC山の中へ入っていく感じですが見所も多く、そう疲れずに登れます。この道の終点まで約50分でした。今回思ったのは清水谷から本丸を回ったほうが地形が分かりやすいということでした。
【駐車場】小谷城戦国歴史資料館駐車場(無料)
【最寄りのバス停】湖国バス小谷線「児童館前」
 
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A山本山城―湖北町山本【MAP】
浅井氏の琵琶湖と北国街道の監視と支配の役割を担ったのが山本山城である。信長は挑発するように要衝であるこの城の城下に火を放ったが城主阿閉貞征は出てはこなかった。
築城は平安末期で近江源氏山本義経の城だった。源平合戦で木曽義仲と入洛するが義仲没落後、その消息は分からなくなった。時代が下り京極氏が守護で浅井氏・上坂氏・三田村氏・浅見氏など国人衆がそれに従っていた頃、京極氏の内紛に絡んで上坂信光と浅見貞則・浅井亮政らが対立した。上坂信光が敗れると今度は浅見貞則の横暴ぶりが目立つようになり浅井亮政と対立するようになった。そのとき貞則が立て篭もったのが山本山城である。
【探索のヒント】賤ヶ岳から琵琶湖に沿って南へ延びる@西野丘陵の南端標高324メートルの山頂が山本山城です。県道258号速水片山線を「山本交差点」で北へ向かい少し行くと「山本山城跡」の小さな案内柱が左手にあります。それに従って行くと右側に朝日山神社の鳥居があるのでそこから駐車場へ入ります。朝日小学校の駐車場も一緒です。朝日山神社の横に登り口があります。ここから約40分でC本丸へ到着します。途中休憩所を兼ねたA見晴台がありB虎御前山も一望できます。
【駐車場】朝日山神社駐車場(無料)
【最寄りのバス停】湖国バスびわ循環線「山本」
 
B地蔵坊【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【最寄りのバス停】
 
C大吉寺【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【最寄りのバス停】
 
D打下城【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【最寄りのバス停】
 
E海津浦・塩津浦・余呉の入海・竹生島【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【最寄りのバス停】
 
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F虎御前山砦―東浅井郡虎姫町中野と湖北町河毛【MAP】
磯野員昌、宮部継潤の寝返りや湖北の一揆を制圧したことで姉川の北まで信長の威勢が及ぶようになった。こうなると横山城では小谷城から離れすぎているので秀吉の働きで占拠した虎御前山に横山城の機能を移そうと信長は秀吉に本格的な築城工事を命じた。まず虎御前山の最高所で小谷城を正面に見る地点に秀吉を置いた。北国脇往還に近い山の北端は勝家の陣地となった。秀吉の陣地の南130メートルの尾根筋に5つの曲輪からなるこの砦の本丸がある。本丸の背後を守るのが堀秀政と滝川一益、丹羽長秀であった。
約ひと月で完成したこの砦は工期が短かったにも関わらず堅牢な作りで、本丸には立派な館が建てられ信長は非常に気に入ったという。また小谷城はもちろん琵琶湖を挟んで焼討した比叡山、石山寺まで一望でき、砦と呼ぶにはかなり手の込んだものだった。砦が完成した直後の8月28日夜、朝倉出雲守家臣竹内三助・上村内蔵助が風雨に紛れて敵陣へ紛れこみ、風上から放火して勝家の陣地の小屋70戸余りを焼き、さらに他の砦に類焼、大騒動になったという出来事があった。それだけの小屋があったとは現況からは想像ができない。ところがこの混乱に乗じた虎御前山攻めは行われていない。また夜襲を成功させた両人にも褒美は出なかったという。8月に入り朝倉方の前波吉継と富田長繁の織田方への寝返りが連日起こり、動揺する朝倉陣営にあって溜飲を下げる夜襲だったにもかかわらず、兵士の士気が上がることなくむしろ厭戦気分だけが高まってしまった。
【探索のヒント】@虎御前山への上り口は2箇所です。車でも電車でも便利なのは中野側からです。八相山(矢合神社)を経由して「県立虎御前山教育キャンプ場」へ向かいます。管理棟横にA丹羽長秀陣地跡があります。車が入れるのはここまでです。ハイキングコースへ入って電波塔付近には古墳を利用したB滝川一益の陣地跡、130メートル先には同じく古墳を利用したC堀秀政の陣跡があります。その先にD信長の本陣跡の碑があるのですが滋賀県中世城郭分布調査によるとその50メートル北の曲輪群が信長の本陣ではないかと推測しています。信長の本陣を更に北へ向かうとE秀吉の陣地ですが、ここまでがほぼ平坦な尾根道だったのに対し虎ロープを使っての上り下りが必要になってきます。秀吉の陣地跡から降っていくとF勝家の陣地になりそのまま進むと県道545号へ出ます。これがもう一つの登り口です。ただし数年前までは荒れ果てて入る事が出来ませんでした。今は木を伐採して虎ロープを張って整備していますが丸太の階段はそのままでした。私が足をかけたとたん崩れました。しかも2箇所。もしこちらのルートから登る人でこの折れた階段を見た方は私の仕業だと思ってください。それよりも試しに足を乗せてすこし揺すると腐っているのが分かる丸太が他にいくつかあったので注意してください。
【駐車場】中野に25台分の駐車場 【最寄りの駅】JR北陸本線「虎姫駅」
 
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G大嶽城―東浅井郡湖北町丁野【MAP】
前年から信長は長政を挑発するように小谷城下へ攻め寄せ、更に北の山本山城下、余呉、木ノ本で我が物顔で荒らし回った。しかし、戦力で劣る長政はそれを阻止する事が出来なかった。更に今回は目の前の虎御前山に本格的な城を築き、長政を小谷城に封じ込めようとしだした。最早、朝倉義景の援軍だけが信長に対抗できる唯一の手段だったが、義景は再三の援軍要請にすぐに応じてはくれなかった。ここで長政は何とか義景を引っ張り出そうと「今信長は湖北に来ているが長島で一向一揆が蜂起して信長の退路を断った。今こそ信長を討ち果たす好機」とウソの密書を送った。これに乗せられた義景は1万5千の兵を率いて自ら出陣してきた。小谷へ到着して義景は我が目を疑った。織田の大軍が小谷城満ちあふれ、意気盛んだった。ここで敵に後ろを見せては追撃に遭う危険性があるのでとりあえず大嶽城へ入る事にした。
これを見た信長は足軽を山へ入らせ朝倉軍に小当たりに攻撃を加えさせた。信長直々の命令に若武者は勇んで朝倉軍を攻め、毎日のように敵の首を挙げてきた。これに信長は恩賞を与えたので更に足軽は戦いに励んだ。8月8日になり前波九郎兵衛吉継(のち越前守護代桂田長俊)父子が内通してきた。これをきっかけに富田弥六長繁(後府中龍門寺城主)・戸田与次・毛屋猪介も織田軍に寝返った。
朝倉氏は信長との戦い野に際、度々大嶽城を利用し、その都度必要な曲輪を構築していった。小谷山山頂が本丸でそこから南へ下った二の丸、三の丸、松ヶ嶽、福寿丸、山崎丸などがそれである。ただ二の丸、三の丸は浅井亮政が小谷城に拠点を移すまで大嶽城を本拠としていた名残と考えられるが、福寿丸・山崎丸には屈曲を多用する土塁や発達した虎口構造をもつことから朝倉氏が関わっていると推測されている。また小谷城・大嶽城・搦手の分岐点である六坊から北へにある月所丸も小谷城には珍しい畦堀があるので元亀元年に朝倉氏によって作られたと推定されている。

六坊は久政が軍務政務を司る湖北の六寺院を集めた所である。各資料から久政が当主となってから設けられた曲輪で1542年より前には存在していなかった。
【探索のヒント】@大嶽城は小谷山最高所にあります。搦手に当たるA六坊から少し行くと右:月所丸、中:大嶽城、左:清水谷の案内板があります。小谷城の北側を守り越前へ抜ける道を監視する役目がB月所丸です。月所丸への道は細くて他のホームページには雨上がりで崩れている事もあったそうです。碑は建っていませんが尾根に沿って北東に曲輪が確認できます。大嶽城へは段を登っていくのですが一段一段が高くて非常に疲れます。C大嶽城の立札が見えたらもう少し。山頂にはD曲輪跡や堀などが残っています。清水谷を上りきった所から約20分です。
【駐車場】小谷城跡駐車場 【最寄りのバス停】湖国バス小谷山線「小谷城口」
 
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H八相山砦―東浅井郡虎姫町中野【MAP】
虎御前山砦と同じ丘陵の南側を中野山とも呼び多賀貞能と蜂屋頼隆が守りについた。これで虎御前山の西にある月ヶ瀬城に対する備えが出来た。信長は次に宮部城との兵員や物資の移動がスムーズに行えるよう軍用道路の普請を命じた。道幅が3間半(約6.3メートル)距離が50町(約5.5キロ)の道で敵からの攻撃を避けるために1丈(約3メートル)の築地が設けられた。
11月3日この軍用道路を破壊しようと大将朝倉景鏡が出陣してきた。同時に浅井井規が宮部城を包囲した。これを見て秀吉は虎御前山砦から浅井軍の背後を突こうと出撃した。秀吉軍の梶原勝兵衛、弓衆中野又兵衛一安、毛屋猪介、富田弥六、信長から譴責を受けて湖北に残された馬廻衆滝川彦右衛門らの猛攻をみて景鏡も戦いに加わり大乱戦となった。そこへ継潤が城から討って出てきたため、浅井・朝倉軍は2百人の戦死者を出して敗退した。
なお多賀氏であるが愛知大領成行なる人物から5代目信景が多賀へ移って多賀神社の神官を勤めたことから多賀姓を名乗った、平安時代中央官僚の中原氏が愛知郡の大領に任じられ長野郷に住したので長野姓を名乗り秀定の時多賀姓に変えたなどの説があるがもともとは多賀神社を氏神にする土豪だったらしい。その後侍所京極持清によって若宮氏と交替で京都所司代を勤めた。しかし多賀氏は豊後守系と出雲守系とに別れた。出雲守清直が失脚後、京極高数の次男が多賀家を継ぎ豊後守高忠となり持清を助け、六角氏の湖北侵略に対抗した。持清の存命中湖北は安定していたが、その死後失脚した清直が下坂家の内紛に介入して再び表舞台に出てきた。その子宗直は三田村定元の協力を得て高忠に勝利して湖北を支配した。これに対し持清の遺児秀綱が宗直に反発する勢力を集結、反撃に出て宗直・定元を破って湖北を奪回した。
高忠の子孫が貞能である。信長のもとで働くが本能寺の変で明智光秀についたため没落した。貞能には男子がなく、信長の側近だった堀秀政の弟を養子に迎えた。
【探索のヒント】虎御前山も含めたこの丘陵には古墳が点在していてそれを利用して砦が築かれた。矢合神社の手前の藤棚のそばに@多賀貞能の陣跡が置かれ、その北の北山古墳にA蜂屋頼隆が陣を構えました。こちらはすぐに分かると思います。現在でも宮部城からB虎御前山・八相山は周りに邪魔をするものがないのでハッキリ見えます。しかしながらこのとき信長が普請を命じた道らしきものは残っていません。
【駐車場】中野に25台分の駐車場 【最寄りの駅】JR北陸本線「虎姫駅」

 

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