箕浦戦い
経過
姉川の戦いの後横山城に入って湖北を監視する役目を担った羽柴秀吉(この頃改姓)は一方で浅井氏の家臣の切り崩しを始めた。まず織田軍に包囲されていた@佐和山城磯野員昌元亀2(1571)年2月24日内応してきた。織田信長はこれを喜び員昌に高島郡を与えA大溝城主に任じ、佐和山城には丹羽長秀を入れ守らせた。こうして岐阜城から横山城へ通じるルートが完全に信長に掌握された事になった。10月になると小谷城に近いB宮部城宮部継潤が内応。翌元亀3年継潤信長への忠誠を示すべく野村兵庫守C国友城を攻めたがこれは失敗に終わった。
こうした
信長の攻勢に危機感を抱いたのは浅井長政だけではなかった。本願寺系の寺院―D湖北十ヶ寺大坂への通行を遮断されたうえ、巨額の矢銭を求められ信長憎しの機運が高まった。ここに浅井氏湖北十ヶ寺の利害が一致して5月6日浅井長政浅井七郎井規を大将に大坂との往来を妨害しているうえ、信長に逸早く寝返った堀秀村E箕浦城鎌刃城攻撃に向かわせた。これを知った横山城木下秀吉は百騎あまりを率いて秀村救援に向かった。
箕浦城方
は5、6百程度で対する
浅井・一揆軍は5千に及んだ。緒戦は秀吉軍の精鋭数十騎で戦っていたが互いに本隊が加わりF本格的な戦闘となった。
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