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@佐和山城―彦根市古沢町【MAP】
永禄6年から浅井氏の六角氏に対する前線基地である佐和山城を守っていた磯野員昌は忠実に浅井家に仕えた。織田軍に包囲された時、この付近の有力国人の今井氏、島氏、河口氏も城内にいて員昌と七か条の定書を交わして、一致団結してこの難局を乗り切ろうと誓い合った。しかし8ヶ月も織田軍に包囲されては城の食料も矢玉も底を尽きかけ、ついに員昌は長政に援軍の要請をした。しかし長政単独では救援に向かえる余裕はなかった。員昌はそれでは佐和山城を捨て小谷城へ入りたいと申し出た。しかし長政はこれを認めるどころか員昌に謀反の恐れありと人質だった員昌の母親を磔にして殺してしまった。もはや員昌の心は浅井家から離れた。隠居も考えた。このとき信長はその剛勇を惜しみ織田家のために働いて欲しいと員昌を誘った。一旦は固辞した員昌だったがかつて家臣が誤って射殺したため親代わりに養育している国人今井高清の子供達の将来を考え、この申し出を受け入れた。
【探索のヒント】国道8号線佐和山トンネルの東側と小野川との間にある舗装された道から佐和山へ向かう大手道@がありました。今も用水路に沿って土塁Aがあります。ここから近江鉄道を横切り佐和山城へ向かうのですが途中で道が途絶えてしまうので注意してください。一般的には佐和山の西にある龍潭寺から登ります。こちらには駐車場があります。
【駐車場】龍潭寺駐車場
【最寄り駅】JR琵琶湖線「彦根駅」 【最寄りのバス停】近江鉄道バス「龍潭寺」
 
A大溝城―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】 
【最寄り駅】  【最寄りのバス停】
 
@A
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B宮部城―東浅井郡虎姫町宮部【MAP】
通説だと宮部の北東にある湯次神社の善祥坊清潤の養子になった坂田郡醒ケ井の国人土肥真舜の子孫八は9歳から比叡山で修行し20歳になって継潤と名を改め湯次に戻ってきた。その後宮部を押領して西暦200年前後からある井守保利社(宮部神社)を改修、城砦化して土豪化し宮部氏を名乗り湖北の他の土豪と同じく戦国大名となった浅井氏に従った。

湖北の国人、土豪衆は元は独立しており、京極氏の一被官だった浅井氏が抜きん出た存在になったのでそれを中心に取りあえずまとまったのが浅井家臣団である。だから浅井氏が信長に押され気味になると保身のため浅井氏を見限るものが出るのは当然といえる。秀吉の懐柔策に姉川合戦後最初に寝返ったのが継潤だったがある意味先見の明があったともいえる。
秀吉は継潤を信任していた証拠に長浜城主になると4番目に多い知行を与えた。また甥秀次を人質として継潤の養子とした。継潤もその期待に応え、因幡鳥取城主にまで登りつめた。
継潤は小谷城に人質で居る妻を救おうと家臣の友田近右ェ門に暗号を持たせ小谷城へ遣わした。その暗号が分かった妻は城から無事脱出した。また継順の妻と共に城内にいた友田の父も暗号に気づいて城から逃げる事が出来た。
【探索のヒント】北陸自動車道と平行に走る県道510号伊部近江線を北へ向かいます。姉川を越えた左側の田園の中に神社らしき木々が見えます。ここが宮部城跡である宮部神社@です。神社北側から見ると堀跡と思われる水路や城館の様子Aがわかります。駐車はここに出来ます。宮部城の碑はあるのですが柵に阻まれ写真は撮れませんでした。代わりに宮部継潤4百年法要記念碑Bの写真を。
【駐車場】境内
【最寄り駅】JR北陸本線「虎姫駅」 【最寄りのバス停】湖国バス高山線「宮部」
 
@A
B
C
C国友村―長浜市国友町【MAP】
大坂堺と並んで鉄砲の産地として有名な国友村は優れた鍛冶技術や刀剣技術を持っていた。その村に種子島に漂着したポルトガル船から譲られた鉄砲が種子島時堯→島津貴久→足利義晴→足利義輝→細川晴元→京極氏の手を経てもたらされた。鉄砲に欠かせない火薬も薬品のエキスパートの伊賀忍者や甲賀忍者の手によって簡単に製造できた。信長も国友の鉄砲製造技術を高く評価していて天分18年7月19日に六匁玉筒5百丁、元亀2年1月17日大筒(に百匁玉筒)を2丁注文している。
妻を奪還できた宮部継潤は信長に恭順の姿勢を見せるために国友城の野村兵庫守を兵3百で攻めようとした。野村氏は佐々木六角氏の流れ汲む一族で浅井郡野村に済んでいたので野村姓を名乗った。その後いくつかに分かれるが全て浅井氏に従った。
兵庫守は継潤が攻めて来るのを予期していてすぐに3百の兵で応戦した。姉川を舞台に両軍が激突、大将同士の一騎打ちになった。宮部軍が優勢になり野村軍が後退を始めた時、一発の銃声が轟き継潤が落馬した。見ると継潤の右腿(左とも言われる)から血が吹き出していた。狙撃したのは兵庫守の娘婿富岡藤太郎という鉄砲名人だった。元亀2年5月琵琶湖上から秀吉を狙撃したこともあった。継順の首を取ろうと近づいた藤太郎を友田近右ェ門が突き倒し、継潤に肩を貸して辛うじて戦線を離脱する事が出来た。
【探索のヒント】北陸自動車道「長浜インター」西のジャスコの前を走る県道510号伊部近江線を北へ向かうと「国友鉄砲の里資料館」の案内板が出ています。空いている時は資料館前の駐車場が利用できます。国友城のことを聞きましたが明確な遺構というより城の存在自体が不明だそうです。資料館の西、今は共同農園になっている場所が「殿屋敷」という名前で国友城の推定地@になっています。地図Aを見るとそこを囲む水路が堀を想像させます。まず資料館で予備知識を入れて村内を散策しましょう。鉄砲は分業で完成させるのでそれぞれの職人の住居跡Bを示す碑がいたる所で見ることが出来ます。村の外れ日吉神社に並んで鉄砲鍛冶の守護神を祀る「伊都伎島神社」があるのでお見逃しなく。
【駐車場】国友鉄砲の里資料館駐車場 【最寄り駅】JR北陸本線「虎姫駅」
【最寄りのバス停】湖国バス養護学校線「国友鉄砲の里」
 
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A

B

C〜FI
G

H
D湖北十ヶ寺
湖北における一向一揆の中心となる真宗寺院を湖北十ヶ寺と呼び、さらにその中心となったのが
@福田寺(米原市長沢)である。福田寺は771年に建てられた坊舎布施山息長寺が起源である。蓮如と親交があったことから福田寺は本願寺の湖北の中心となり、福田寺j俊は蓮如共に越前吉崎へ布教に向かっている。
顕如が本願寺法主となると全国の門徒衆は武装化して領主と対立するようになった。それに伴い寺は城塞化し福田寺も「長浜御坊」と呼ばれ一揆の拠点となった。
姉川の合戦後、湖北へ信長の勢力が伸びてくると寺院への矢銭の要求があり、これに不満を持った門徒は照光房という僧のもと一揆が出来た。元亀2年正月信長は横山城の秀吉に北陸から大坂へ向かう通行人への取締りを強化し逆らえば成敗せよと命じた。これは越前・湖北の本願寺門徒と大坂本願寺とを分断するためであった。この動きに福田寺覚世は福勝寺覚乗、
B順慶寺珍乗(長浜市西上坂町)、金光寺教通、D淨願寺勝理(長浜市榎町)E箕浦誓願寺超宗(米原市箕浦)F眞宗寺裕乗(長浜市益田)G稱名寺性慶H内保誓願寺了乗I中道場(授法寺?長浜市下上坂町願心猶宗らに呼びかけ浅井氏と同盟して信長と戦う事を決定した。
A福勝寺(長浜市大戌亥町)【MAP】
【探索のヒント】724年開基。浄土真宗本願寺派。国道8号線長浜新川の南「大戌亥町交差点」を西へ入ります。最初の信号を左折、すぐに右折して児童公園の向こうにある雑木林が福勝寺です。この付近に路駐してお寺へ向かいましたが堀跡を連想させる水路がお寺を囲んでいます。本堂裏には土塁が残っています。
【駐車場】境内 【最寄りのバス停】湖国バス木ノ本線「戌亥東」
C金光寺(長浜市十里町) 【MAP】
【探索のヒント】835年開基の浄土真宗大谷派のお寺です。元は天台宗。北陸自動車道「長浜インター」を降りて県道37号線を西へ向かいます。そのまま県道251号線へ入り「八幡中山町交差点」を過ぎて右手「滋賀銀行」の手前の道を北へ向かいます。道が急に細くなりますがそのまま進むと金光寺の裏に出ます。もう少し進むと右折して境内に駐車できます。
【駐車場】境内 【最寄りのバス停】湖国バス木ノ本線「北中前」
G稱名寺(東浅井郡虎姫町尊勝寺)【MAP】
【探索のヒント】もとは美濃にあった天台宗の寺だったが天文年間には真宗の寺として近江に移っています。信長との戦いに敗れ湖北を去りましたが秀吉に許され再び湖北へ戻ってきました。秀吉の養女(荒木村重の娘)が五代住職性慶の妻になったり、本能寺の変後秀吉一家の逃避行を助けたり、賤ヶ岳合戦で秀吉軍に加わったりと秀吉との関係が深くなったおかげで、真宗として湖北で唯一秀吉から朱印地を与えられ、直轄地の代官に任じられました。国道365号線「田川交差点」を西へ向かいすぐの草野川まで一直線に延びている比較的広い農道を南へ入ります。田園地帯にこんもりと木が茂っているのが称名寺と平野神社です。今でも土塁が残っているので往時を偲ぶことができます。
【駐車場】境内 【最寄りのバス停】浅井町循環バス「尊勝寺口」
H誓願寺(東浅井郡虎姫町内保)【MAP】
【探索のヒント】内保城ともいわれ一向一揆の拠点だった誓願寺が城郭化しました。現在も寺の北側以外には土塁が残っています。この誓願寺と北の称名寺が門徒支配で争いになり、この首謀者として下間頼秀が殺害されているがこの人物、大坂で本願寺が幕府軍と戦いになった時(天文の錯乱)、本願寺から詰め腹を切らされた人物です。誓願寺へは国道365号線「内保東交差点」を西へ入り、「長浜市役所浅井支所」の前を通り過ぎ、湯田小学校前の信号から2つ目の辻を右折したすぐ左です。北側に駐車場があるのですが丁度工事中だったのでもう少しいった「内保草の根広場」に車を停めました。
【駐車場】境内 【最寄りのバス停】湖国バス高山線「内保」
 
A
E箕浦城【MAP】
堀秀村は中山道と北国街道を監視するために今井氏の居館箕浦城にり重臣樋口直房はそれを見下ろす顔戸山砦を守っていた。兵の数は4百程。一方の浅井・本願寺軍は各寺院から信者が結集、箕浦城に近い箕浦誓願寺に到着した時には5千にも膨れ上がっていた。浅井・本願寺勢の動きを知った秀吉は横山城を竹中半兵衛に任せ、夜明け前わずか百人の手勢を引き連れ山東街道を通り箕浦城へ向かった。
今井氏は湖北京極氏と湖南六角氏に挟まれた地域の土豪で、佐々木信綱の四男氏信が京極氏を名乗った時から従っていた。浅井亮政が湖北に覇をとなえ六角氏と対立すると今井秀信は六角氏につくと怒った亮政は神照寺で秀信を暗殺し、その首を小谷城に晒した。亮政の跡を継いだ久政が再起した京極氏に屈すると今井定清は六角氏から離れて再び京極氏についた。以降、京極氏が再度没落しても定清は浅井家と連携しつづけた。
【探索のヒント】今井秀信の首を晒したという岩A「首据石」(東浅井郡湖北町郡上)は小谷城「馬洗い池」の次にある史跡です。林道の終点から十数分でいけます。
●首据石【MAP】
【駐車場】小谷城駐車場 【最寄りのバス停】湖国バス小谷山線「小谷城跡」
 
F本格的な戦闘【MAP】
押し寄せる浅井軍・一揆勢は5千余りだがそのほとんどは農民で鋤や鍬を持っての参加だったのでその十分の一とはいえ武装した堀・羽柴軍の前には余りにも非力すぎた。白兵戦を挑む前に矢や鉄砲の餌食となった。それでも勇猛に羽柴軍・堀軍に挑んだ一揆軍だったが形勢は悪くなり北へ押し返されていった。退却に転じた一揆軍を羽柴・堀軍が追撃する。一揆軍は逃げ場を失い琵琶湖岸のさいかち浜へ追い詰められた。それでも羽柴・堀軍は降伏を許さず一揆勢を湖中へ追い立て多くの人々を溺死させた。
このように一方的な結果となった戦いで終わったが方々で一揆軍の奮闘があった。緒戦では広福寺覚裕は敵渡り合って、順慶寺珍乗は果敢にも討ってでて戦死した。顔戸山砦を守っていた秀村の家老樋口直房の家臣で浅井軍の騎馬武者を数十人討取った多羅尾相模守、土川平左衛門が戦死している。湖北町八日市にあった眞福寺の西空法師もこの戦いに加わり奮戦したが討取られた。法師に従っていた近藤久兵衛は憤然と敵陣へ飛び込みその首を取り返した。門徒衆はその首を首桶に入れ寺へ持ち帰った。しかし寺は天明の頃焼失し首桶もその時失われた。
【探索のヒント】【駐車場】  【最寄りのバス停】 
 

 

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