| 経過 |
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| 天正元(1572)年4月の武田信玄の死をきっかけに足利義昭を京都から追放して反信長同盟の勢いを一時的に止めることができた織田信長のもとに更に朗報が届けられた。8月8日@山本山城の阿閉貞征が内通してきたのである。その日の深夜信長は岐阜を出てA月ヶ瀬城を包囲、翌日開城させた。10日小谷城と大嶽城を見下ろすB山田山に織田軍は布陣した。これにより救援に来た朝倉義景軍2万は小谷城へ近づくことができなくなり、C余呉から田部山に布陣するしかなかった。 織田軍と朝倉軍が睨み合っている時、大嶽山城の麓にあるD焼尾砦の浅見対馬が織田方に寝返って砦を明渡した。ここを足がかりに織田軍は大嶽山城を占拠、更にE丁野山城も落とした。完全に孤立した小谷城に見切りをつけた義景は越前へ引き上げ始めた。義景の動きを予測していた信長は13日自ら先頭に立って朝倉軍を追撃、越前へ乱入した。 |
| 湖北蹂躙ヘ 義景自刃ヘ行く 小谷城落城ヘ |