@A
B
C
D
E
@山本山城―湖北町山本【MAP】
湖北の国人だった阿閉貞征は姉川合戦でも本陣近くにいて活躍した浅井家の重臣である。琵琶湖と北国街道を監視する重要拠点の山下山城を任されたのが何よりの証拠である。虎御前山城を与えられ湖北を任された秀吉はこの阿閉貞征に諜略の手を伸ばした。最も頼りとした武田信玄が死に、反信長同盟の要足利義昭も追放され、湖北の一揆も勢いを失い、しかも小谷城下も織田軍であふれている状況では最早浅井家に勝ち目はないのである。貞征は決心した。秀吉のもとを訪れ降伏と山本山城の明渡しを伝えた。これにより越前から湖北へのルートに一大拠点が出来たわけである。
早速秀吉は岐阜の信長にこれを伝えた。長政が城に篭ってしまい信長としても決め手を欠いて長期戦を覚悟していただけにこの知らせを非常に喜んですぐに軍備を整え岐阜を出発、湖北へ向かった。
貞征はこの後山本山城と旧領を安堵され長浜城主となった秀吉の指揮下に入った。しかし竹生島の年貢を秀吉に奪われそれを菅屋長頼に訴え出た事から信長の旗本となり秀吉の播磨出兵には帯同していない。越前一向一揆戦では木の芽城を守っていたが一揆勢に敗れた。そして本能寺の変が起こると嫡男貞大と光秀側についたため、山崎合戦後、父子揃って処刑された。ちなみに主君が次々変わったことで有名な藤堂高虎と渡辺了はともに貞征の家臣だった。
【探索のヒント】2007年10月に山本山城へ行きましたが熊がよく目撃されているようでハイカーも花を摘みに来ていた老人も熊鈴をつけていました。
@山本山城の登り口には朝日小学校があるので心配でした。二つ目の休憩所まで石段がありますがそれ以降山頂まで山道です。休憩所の小学生の手による「山頂まであと15分」の看板が勇気付けてくれます。山頂付近にA三の丸がありますがブルドーザーで道を拡張したため曲輪がかなり破壊されたということです。山道を登りきったら草ぼうぼうの中にB二の丸の立札があります。これを北へ向かうとC本丸があり帯曲輪を確認できます。更に北へ進むと空堀、馬場があり、賤ヶ岳までのハイキングコースとなっています。
【駐車場】朝日山神社駐車場(無料)
【最寄りのバス停】湖国バスびわ循環線「山本」
 
@A
B
A月ヶ瀬城―東浅井郡虎姫町月ヶ瀬【MAP】
小谷城間近の虎御前山に砦を築いた信長だったが虎御前山のすぐ西に月瀬丹後守頼次(若狭守忠清の名もある)の月ヶ瀬城があり、一つ間違うと挟撃される恐れがあった。ただ山本山城阿閉貞征が織田に寝返った事で月ヶ瀬城内で進退について議論があった。月ヶ瀬城は応永年間(1394〜1428)にはすでにあった城でこの地の豪族月瀬氏の本拠であった。浅井久政の妻女の妹が月瀬播磨守に嫁いでいたことから浅井家とは深いつながりがあった。阿閉が降参した後、頼次は長政に援軍を依頼したがもはや浅井家にはそのようなゆとりはなかった。「奮戦してのち小谷城へ合流せよ」それが命令だった。阿閉軍、織田軍に包囲された城は瞬く間に落城、命令通り頼次は城兵と小谷城へ向かった。
【探索のヒント】JR北陸本線「虎姫駅」前の県道274号線を北へ向かい、突き当たりを左折、踏み切り・田川を越えたところが月ヶ瀬です。少し走ると道幅が広くなっているのでここで車を停めました。ここから右前方にあるのが月ヶ瀬神社@で滋賀県教育委員会発行の「淡海の城」にはここが城跡としています。しかし町内の案内図Aによると北陸本線のすぐ脇の田園地帯Bになっています。虎姫町教育委員会で聞くと遺構は残っていないが田圃の字名が城館に関連している、月ヶ瀬神社が月瀬氏と縁があるということで月ヶ瀬城を含めた一帯を月ヶ瀬城としたとのことです。
【駐車場】なし 【最寄駅】JR北陸本線「虎姫駅」
 
B山田山―東浅井郡湖北町上山田
小谷城下に到着した信長は越前から援軍にやってくる朝倉義景軍を阻止するために北国街道を見下ろす山田山に柴田勝家、佐久間信盛、浅井新八を派遣、あっという間に占拠した。また麓にも軍を配置して北国街道を完全に遮断、義景は木ノ本から南下できなくなった。
【探索のヒント】
 
C木ノ本―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】浅井文化スポーツ公園駐車場
【最寄りのバス停】近江鉄道バス高山線「プラザ福良の森前」
 
D焼尾砦―
【探索のヒント】
岡山【MAP】
【駐車場】なし 【最寄りのバス停】近江鉄道バス伊吹登山口線「東上坂口」
上坂神社
【MAP】
【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】近江鉄道バス伊吹登山口線「東上坂口
 
@A
B
C
D
E丁野城・中島城―湖北町丁野【MAP】
元亀3年の信長来襲の直後、朝倉軍の防衛拠点として丁野山城を改修して、朝倉家の家老魚住景固が守りについた。その後平泉寺の波多野玉泉坊・飛鳥井宝光院の僧兵、堀江甚助、久保田勘十郎ら5百人が交替している。
この丁野山にはもう一つの砦があった。それが中島宗左衛門直親が7百の兵と守る中島城である。両城を合わせても大した兵力にはならなかったが、このあとの戦いを考え出来るだけ兵の消耗を抑えたい信長は退去を勧告した。はじめは抵抗する姿勢を見せていたが間もなく降参して、越前衆は義景の本陣へ退いた。このあと信長は再びこの城が使えないように火を放った。その黒煙は7キロ離れた義景の本陣のある田上山で確認された。
丁野は浅井氏発祥の地と言われ岡本神社は浅井氏の祈願所であった。1518年亮政は丁野村を見下ろす岡山に城を築き、この地を治める第一歩とした。岡山は西が高時川が天然の堀となり三つの尾根の間には湿地が広がって攻めにくい構造になっていた。
【探索のヒント】岡山とも呼ばれる北陸自動車に分断された標高169メートルの丘陵に城がありました。県道263号丁野虎姫長浜線が北陸自動車道と交わる北側の側道を山へ向かって進みます。正面に谷田神社があるのでその前に駐車しました。「丁野城660メートル」の案内に沿って山に入ります。緩やかな坂を登ると左:丁野山城、右:中島城の案内があります。’06大河ドラマ「功名が辻」のおかげで登山?ルートがしっかりつけられたそうでその前は薮こぎで這い上がらなければならなかったそうです。写真@の中央の最も高い所が丁野山城で左下へ延びる尾根の中ほどに中島城がありました。
丁野山城は方形の主郭には土塁が無く帯曲輪に設けているのが特徴です。一方の中島城は土塁ふんだんに使った主郭になっています。丁野村から登ってくる道を監視するのが目的ではなかったのでしょうか。
【駐車場】なし 【最寄駅】JR北陸本線「河毛駅」
【最寄りのバス停】湖国バス小谷山線「河毛駅」「丁野南」

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送