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@小谷城本丸・大広間・桜馬場・馬洗池・番所【MAP】
信長は長政に何度も降服を勧告した。妹お市の夫だからではなく、その人となりに信長が好感を持ったからである。若年よりその武勇で強敵六角氏に対抗し、その実直な性格は領民からも家臣からも慕われた。ただその優等生ぶりが父久政の判断ミスを指摘できなかった。しかしこの愚直さは味方にすれば百人力だった。信長は目指す天下布武のために家康に並ぶ器が欲しかった。まさに長政はその器であった。
一方の長政は義景が信長の追撃を受けた時点で死を覚悟した。越前から信長が虎御前山戻った夜、長政は戒名を彫った石塔を位牌に見立て家臣に焼香させた。その石塔は木村久太郎により竹生島の東の琵琶湖に沈められた。また最後まで浅井家への忠誠を変えない者達に長政は感状を与えた。有名なのが寺村小八郎に与えたもので「ここ4、5年骨身惜しまぬお働き忠節これに勝るもの無く、ことに今度の籠城は誠に神妙に存じ候。愈々この上ともご奔走が大切、心底より望むところ確かりと申し付け候」がある。
東西25メートル南北40メートルの本丸には
A北と南に1メートルの段差があり、それぞれ発掘調査で礎石が発見されている。
広間は東西35メートル南北85メートルの小谷城内最大の面積をもつ遺構で三万余の出土品と礎石群から本丸御殿と呼べる儀礼的な施設があったと推定される。こちらも南北に建物があり、南が主殿と会所、
C石組桝のある北は常御殿として機能していたと推定されている。
馬洗池は本来は生活用水の溜池と考えられその水源は天吉寺山の元池と考えられています。
【探索のヒント】小谷城は尾根を利用した南北に三つの曲輪群から構成されているといわれます。その一番南が7メートルの石垣をもつ@本丸(鐘丸)のある曲輪群です。この曲輪群は大手道に面して曲輪や施設があります。本丸を最高所として南へ降ると顕彰碑やD小谷城の碑あるB大広間です。大広間の下に見える平坦地がE桜馬場で西側の低い曲輪と二段構成です。東側が大手道でF馬洗池からG番所跡へ続きます。通常ルートは大手道を使うのですが私個人としては清水谷からの方が地形が分かりやすいのでおすすめします。
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A小谷城小丸・山王丸・福寿丸【MAP】 小谷寺【MAP】
京極丸が味方の寝返りもあり秀吉隊に占拠されると長政からの援軍を期待できなと判断した久政はあっさりと死を選んだ。もともと武人ではなく領民を大切にする良き領主であった。そのため六角氏との戦いでは反撃できず、家臣から隠居を強いられた。
東野左馬介政之、千田采女正、西山旦右ェ門が敵を防いでいる間に久政は自室に入り、浅井福寿庵・鶴松太夫と別れの杯を交わした。福寿庵は清水谷に屋敷を持つ一族。鶴松太夫は森本村出身の久政お気に入りの幸若舞太夫。久政は鶴松太夫に「おまえは武士ではないからここから退去せよ」と命じたが「今まで私が受けたご恩返しに一緒に冥土に参ります」と鶴松太夫は答えた。久政は切腹、福寿庵が介錯した。久政49歳であった。その刀を福寿庵が自らの腹に突き立てると鶴松太夫がその首を討った。残った鶴松太夫は同じ座敷で腹を切る事は畏れおおいと縁先へ降り、腹を切ったあと喉に刀を突き刺して絶命した。
久政の隠居所だった小丸だが発掘調査ではほとんど遺物は見つからなかった。礎石らしい物はあったので建物の存在は間違いない。小谷城の絵図は色々あるが湖北町蔵本には「長政住」とある。
この曲輪群の最高地にあるのが小丸の北にある山王丸である。山王丸には天台宗の護法神である山王権現社が祭られていた。曲輪は四段で構成され三段目の遺物から礎石の発掘が行われたが何も見つからなかった。この山王丸が最高所にある曲輪群は京極氏の上平寺館と構造が似ているといわれる。上平寺館でも伊吹神社より低い場所に京極氏の館があったからである。当時の築城の慣わしとして身分の高い者は高い所に居を構えるという事であったから亮政もそれを意識したのではないかといわれる。
山王社は小谷城落城後、放置されていたがいつのまにか北谷へ移され現在では小谷寺に祀られている。小谷寺にはお市の方の持念仏・愛染明王、片桐且元の守護仏・十一面観音、菅原道真筆の両界曼茶羅双幅、雪舟の釈迦如来像などの宝物を所有している。また山門脇の松の切り株はお市が勝家へ嫁ぐ直前に植えた物と言われる。
【探索のヒント】京極丸から北にある東西に段差のある曲輪が@小丸です。比較的広い面積を占めています。小丸の背後の5メートルもある石垣はA山王丸のものす。山王丸の北に土塁が見えますが裏から見るとちゃんと石垣があります。B小谷寺は国道365号線にある「小谷城跡」のでっかい看板の南にあります。駐車場はありますが長時間の駐車の時は知らせておく必要があります。
久政を介錯した
C浅井福寿庵惟安の曲輪は大嶽城から「福寿丸・山崎丸」の案内に従って下りる事20分、山道に沿って碑が建っています。この道は正直、登るより下るべき道です。中へ入ってみるとこれがかなり広いし、空堀や土塁もしっかり残っています。朝倉義景が元亀3年救援に来た時に作られたといわれていますが中井均氏は賤ヶ岳合戦のものと推測されています。
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B小谷城大堀切・中之丸・京極丸・三田村屋敷・大野木屋敷【MAP】 
日付が変わった28日深夜1時ごろ秀吉隊3百は水の手から京極丸目指して山腹を登り始めた。秀吉や蜂須賀小六ら川並衆は泥だらけになりながら距離にして6百メートル強、
A最大斜度34度の急斜面を這い上がって行った。中(之)丸までたどり着くと小六はそこを守る兵に降参を呼びかけた。すると大野木土佐守茂俊がこれに応じた。中(之)丸には他に浅井井規、三田村左衛門尉国定も守っていたがいずれも降参し、中(之)丸は秀吉隊に占拠され長政の居る本丸と京極丸は分断された。軍備を整えると秀吉らは京極丸に迫った。
京極丸には浅井福寿庵と8百の兵が立て篭もり、降伏勧告に応じず徹底抗戦の姿勢を見せた。秀吉は鉄砲・弓で援護しながら自軍の兵を京極丸へ攻め込ませた。城兵の抵抗は激しく、正午ごろようやく京極丸が落ちた。
中之丸で秀吉隊に降参した三田村・大野木・浅井井規の三武将は落城後、信長の前に引き出され浅井家累代の家臣でありながら最後の最後に裏切った振る舞いは許せないとして、大野木と井規は中村一氏に三田村は浅見対馬守に斬らせた。
小谷城第二の曲輪群の中心が京極丸である。信長公記には「京極つぶら」と記されている。浅井亮政は北近江守護京極高清の子高広と高吉が争った時、高広側について高清・高吉を尾張へ追った事があった。やがて高広と亮政は対立、六角氏の援助を受けた高広に敗れ、亮政は一時越前へ逃れている。その後高清と高広は和睦して、亮政討伐を目指したが、天文3年高清・高広・高吉は亮政の招待に応じて小谷城を訪れ、亮政が京極氏に従うという事で和睦した。「浅井三代記」(遊山和尚)にはこの時亮政は高清らを捕らえ屋敷内に幽閉したとあるがそうした事実はない。この京極高清父子を招待するため書院造の屋敷を構えた曲輪が京極丸である。結局、この京極丸に京極氏が住む事はなかった。
【探索のヒント】本(鐘)丸の北に@大堀切があります。これを境にもう一つの曲輪群に入って行きます。最初は南北三段で構成されたB中之丸です。それぞれの曲輪に横矢と石垣が設けられ曲輪を防衛しています。京極丸へちなみに07年10月にここへ来た時、中丸の碑のすぐ横の切り株の中にスズメバチが巣を作っていました。ご注意下さい。京極丸へ行く時はD刀洗池の横を通ります。小谷城内にある井戸の一つで京極丸へ上がる前に身支度するために使ったといわれる所です。ここで三田村らが秀吉に誓紙を交わしたといわれています。こちらとは反対側へ行ってみたら中之丸の外側にC曲輪が確認できました。E京極丸は南北56メートル東西34メートルあり、F広間に次ぐ面積をもっています。礎石や山石、玉石敷遺構が発掘されているので御殿の存在が確実視されています。京極丸の東西には広い曲輪があり守りを固めています。
G三田村氏H大野木氏の屋敷跡は清水谷ルートの終盤にあります。碑の建っている所からでも立派な石垣が確認できます。
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C小谷城黒金門・赤尾屋敷【MAP】
お市と三人の娘、嫡男万福丸を城外に逃がすと長政は7百の兵とともに本丸で織田軍との最後の戦いに備えた。29日夜半信長が京極丸から中丸に進んだのを見た織田軍は本丸に攻めかかった。その時黒金御門が開き、長政率いる精鋭5百が織田軍に襲いかかった。狭い山上に溢れんばかりの織田軍は身動きが取れず、次々と浅井軍に討取られていった。そして頃合いを見計らってさっと城内に引き上げていった。これを見て信長は「敵がわざわざ城から出てきたのに討ち漏らすとは何事だ。今度出てきたら長政を生け捕りにしろ!」と命じた。これに応えた柴田隊は鉄砲を放ちつつ、本丸へ入ろうとした。しかし城方の抵抗が激しく、一晩経っても本丸へ入る事が出来なかった。明け方まで続いた攻防の後、織田軍は小休止に入った。長政も兵を休ませ酒を振舞い労った。
2時間後、織田軍の攻撃が再開された。長政は戦支度しながら小姓に「父上のご様子はどうじゃ」と聞いた。小姓は正直に久政が昨日自害したと伝えた。驚いた長政は「これは父上の弔合戦じゃ」と本丸から討って出た。柴田勝家、羽柴秀吉、前田利家、佐々成政らがこれを迎え撃ち、犠牲を払いながらついに本丸への突入に成功した。この戦いで浅井方は垣見助左ェ門、浅井玄蕃、阿閉直秀、三田村定頼・光頼父子、三田村国定の4人の息子たちを含めほとんどが戦死している。長政は本丸へ入ろうとしたが黒金御門は閉じられ本丸へ戻ることが出来なかった。仕方なく本丸の東にある赤尾美作守清綱の屋敷へ逃れた。これを追って織田の雑兵が赤尾屋敷を包囲した。赤尾清綱・新兵衛清冬父子、浅井石見守亮親がこれに応戦した。そのうち長政も薙刀をもって戦いに加わった。しかしそうは長くは持ち堪えられなかった。最早ここまでと決断した長政は屋敷の奥へ入り、浅井日向守の介錯で自害して果てた。介錯は常に長政のそばに控えていた木村太郎次郎とも言われる。長政と共に小姓の中島新兵衛・九郎次郎、浅井オキク、脇坂左介も切腹した。
赤尾清綱は浅井三将(海北綱親、雨森弥兵衛)の一人で浅井家三代に仕えた。亮政が越前へ逃げた時も同行している。本丸直下に屋敷を持つことからその信頼の程が分かる。久政が国主として相応しくないと考えた清綱は遠藤直経と長政を擁立、久政を隠居させた。長政時代は老齢という事で合戦に直接参加せず、軍目付けとして本陣に控えていた。捕らえられた清綱は生き延びる事を潔しとしなかったので信長の手により切り殺された。息子の清冬は助けられ秀吉の与力となった。
【探索のヒント】広間への入口が@黒金門跡です。その手前にA赤尾屋敷への案内があります。私が行ったのが7月で伸びた下草のせいで辛うじて分かる小道を進むとB碑が建っています。かなり広い曲輪でその奥にC長政自刃の地の碑があります。この戦いでの浅井氏側の戦死者のD慰霊塔は桜馬場にあります。
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D浅井氏三代の墓―長浜市平方町 徳昌寺跡―湖北町郡上
久政と長政の首は朝倉義景の首と一緒に京都で晒されたあと、薄濃にされ翌天正2年正月の酒宴のあと、馬廻衆だけに披露された。首は白木の膳に乗せられていた。永年の恨みを晴らせた喜びで信長も上機嫌で再び始まった酒宴は大盛り上がりだった。
ドラマなどではこのシーンに登場するのは髑髏の薄濃である。また頭頂部を杯に秀吉に酒を飲ませるシーンもあるが「信長公記」には髑髏とは書かれていない。髑髏ではないから当然頭で酒を飲む事が出来ない。これは信長は残虐であるというのを強調するために作られたフィクションである。敵将の首を肴に酒を飲むのは桶狭間で今川義元もやっている事なので何も信長だけが特別なのではない。また、この薄濃についてだが武田鏡村氏は真言密教(邪教)である真言立川流の「薄濃にした髑髏を本尊として念ずれば8年後その髑髏に偉大な力が宿る」という教えを実行したのではと推理している。
浅井氏三代の墓がある現「徳勝寺」は亮政が上山田にあった「医王寺」を小谷城清水谷に移して「徳昌寺」と名前を変え浅井家の菩提寺としたのが始まりとされる。秀吉が長浜城主となると城内に寺を移し亮政の法号に因んで今の名前に改めた。現在地に移されたのは1672年の事である。
【探索のヒント】国道8号線の西を並行して走る県道556号長浜近江線「地福寺町交差点」を西へ入ります。陸橋の直前を左折するとすぐ左に徳勝寺があり@浅井家三代の墓所のでっかい看板があります。墓地に入るとすぐ目の前にお墓があります。駐車場を探すのが面倒だったので路駐しましたが数分なので大丈夫でしょう。
小谷城の方は国道365号線「郡上南交差点」から小谷城へ向かう「清水谷ルート」へ入ります。山道に入って少し行った右側に
A碑が建っています。資料館前から約20分ほどです。
徳勝寺(長浜)【MAP】:【駐車場】  【最寄りの駅】JR北陸本線「長浜駅」
             【最寄りのバス停】湖北バス木の本米原線「国道平方」
徳昌寺跡(湖北)
【MAP】:【駐車場】小谷城戦国歴史資料館駐車場
              【最寄りのバス停】湖北バス小谷山線「児童館前」
 
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Eお市と子供達
信長が越前から戻った今、総攻撃は間近になったと悟った長政は覚悟を決めた。長政はお市に二人の息子と三人の娘と一緒に山を降りるように説得した。はじめは拒んでいたお市だったが幼子を道連れに死ぬのは偲び難いという長政の必死の説得についに折れた。28日朝、不破光治が最後の降伏勧告に長政のもとを訪れるとお市と子供達を連れて行って欲しいと頼まれた。お市と三人の娘―茶々・初・督は信長本陣へ送り届けられたが、嫡男万福丸は長政の配慮から密に越前へ逃がされ、生まれたばかりの次男万寿(菊)丸は城下の寺院へ預けられた。
信長は長政の嫡男が生きていては後々禍根を残すと考えた。そこでお市には我が甥である万福丸を長政に劣らぬ立派な武将に育てるからと騙して、越前敦賀の木村貞之介という者に預けているという事を聞き出した。さらにお市に万福丸を使者に預けて欲しいという内容の手紙を書かせた。9月3日万福丸は秀吉のもとへ送り届けられた。信長はすぐにその処刑を命じた。万福丸は関ヶ原で磔になり10歳の生涯を閉じた。また19日久政の妻阿子御料が捕まった。信長は日に2本ずつ指を切断するよう命じ、指が全て無くなった5日目にやはり磔にしている。
万寿(菊)丸は浅井家と縁のあった福田寺に匿われ成長、第12世住職「正芸」となり1616年(43歳)まで生きたという話がある。
お市らが一時身を寄せていたのが実宰院といわれる。実宰院は鎌倉時代より前に天台宗の実才庵として創建され、その後曹洞宗の小谷山実宰院と名前を変えた。久政の長女阿久姫は仏道を志し出家、昌安見久尼と称した。久政は娘のため平塚村の庄屋平野左近助に頼んでその時無住だった実宰院を1542年3月5日再興させた。本尊は宇多天皇の持ち物だった観世音菩薩で安置されている尼の像は淀殿の寄進だと言う。
【探索のヒント】長政とお市、その子供達に関する史跡を捜しました。まず小谷城にある@御屋敷跡A御局屋敷跡です。清水谷にある御屋敷跡のことは亮政が京極氏を接待した時の記録に出ています。御局屋敷跡は大堀切の下にあります。御屋敷跡と比べると狭く堀の真下というのも悲しい感じです。B広間での長政お市一家お市の里(浅井町大依)の浅井図書館2階に飾られています。C小谷城を指差すお市と長政一家長浜市役所浅井支所(長浜市内保)駐車場前にあります。
D実宰院(長浜市平塚)は国道365号線「田川交差点」の少し南の斜めの道をそのまま進み、大きく左へ曲がった次の次の細い道を左折した右側にあります。山門に前に駐車スペースがあります。
小谷城【MAP】【駐車場】小谷城跡駐車場
          【最寄りのバス停】湖国バス小谷山線「小谷城口」「児童館前」
浅井図書館
【MAP】:【駐車場】専用駐車場
              【最寄りのバス停】湖国バス高山線「プラザ福良の森前」
長浜市役所浅井支所
【MAP】:【駐車場】専用駐車場
            【最寄りのバス停】湖北バス小谷山線「長浜市役所浅井支所」
実宰院
【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】お市ちゃんバス「尊野」
 
【寄り道】浅井長政像―愛知県春日井市牛山【MAP】
長政には八重の方という側室がおり、彼女との間には七郎と言う1歳の男子があった。小谷城落城のどさくさに紛れ、彼女は七郎を連れ美濃へ逃れた。1592年八重と二十歳になった七郎は尾張牛山へ移った。ここで平穏な日々を過ごせたらしく1650年78歳で死去した。七郎の子孫は9代新七が神奈川県藤沢市へ移った1913年までこの地の庄屋であった。
【探索のヒント】名鉄小牧線「間内駅」の東側に長政像と屋敷跡の碑があります。駅の東側は道が狭く路駐できないので駅の西側のロータリーに止めました。また同じく西側の用水路沿いに車を止めるスペースはあります。ちなみに屋敷の敷地は1447坪あったということなので測ってみると駅の南北にある踏切から川際までぐらいまでが該当します。
【駐車場】なし 路上駐車
【最寄りの駅】名鉄小牧線「間内駅」

 

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