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@長比城―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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A苅安尾城―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
B鎌刃城―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
@A
C雲雀山―長浜市山ノ前町と湖北町伊部【MAP】
森可成・坂井政尚・斎藤新五・市橋長利・佐藤秀方・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照が雲雀山に登り、小谷城の動向を見ながら城下の伊部を焼き払った。
伊部は北国脇往還に沿った小谷城の城下町として賑わったが小谷城落城後、秀吉が長浜城を作った時に住民・寺院は移転を強いられた。しかし江戸時代になると伊部出身の人々はここへ戻り町を再建し宿場町として生まれ変わった。
雲雀山は独立した丘陵の虎御前山と違い小谷山から派生した丘陵である。太平洋戦争終戦直後の昭和25年からここにある16基ある古墳のうち3基の調査が始まった。その結果、銅鏡・武器・武具・農工具・装身具・土器類などが出土された。
【探索のヒント】国道365号線「田川交差点」の北西にある山が雲雀山@です。国道をそのまま行くと「小谷城跡入口」の看板があるのでそこを左折します。ここから伊部の町Aに入ります。この道の突き当たりが「北国脇往還」です。突き当りを左折、道は右に曲がって少し行った左側に駐車スペースのある「伊部公会堂」があります。すぐ目の前に雲雀山がありますが現在明確な登山ルートがあるわけではありません。2007年夏頃から木の伐採を始め登りやすくする予定になっています。尚、そうしても今登ろうとするなら雲雀山の北にある墓地から登る事ができるそうですが天辺に行っても視界は全く利かないそうです。
【駐車場】伊部公会堂
【バス】近江鉄道バス小谷山線「伊部」
C虎御前山―東浅井郡虎姫町中野と湖北町河毛【MAP】
雲雀山へ陣取った以外の武将―柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀および江州衆は雲雀山の真西1.3キロの虎御前山へ向かった。信長は224mの虎御前山天辺に立ち目の前に立ちはだかる小谷山を改めて見て城攻めは無理と考えた。またここで長居して横山城の兵に退路を断たれ、朝倉の援軍が現れてはまずいと判断、早々と次の作戦に移った。
小谷山の尾根とは最も近い距離で380mしか離れていない独立丘陵のに北側を虎御前山(長尾山)という。もとより砦が構築されていて赤尾清綱が守っていたともいわれる。
【探索のヒント】虎御前山へ登るルートは虎姫駅側と河毛駅側にあります。一般的なのは虎姫側です。ここには駐車場・トイレも完備しています。車で虎御前山教育教育キャンプ場までいけますが途中の史跡が見れないのでここは山の下で駐車しましょう。
【駐車場】中野に25台分の駐車場
【鉄道】JR北陸本線「虎姫駅」
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E尊野・八島【MAP】
信長としては朝倉の援軍が来るまでに長政を野戦へ引きずり出し大打撃を与えたかった。そこで信長は小谷城から南へ3キロの周りに遮る物が何もない田園地帯である尊野と八島に布陣した。
前日小谷城内では長政が決戦すべきと主張したのに対し、久政は朝倉軍の援軍を待つべきだと譲らなかった。そんな久政に遠藤直経は「朝倉殿は臆病で戦いの仕方がわかっていない。そんな役立たずの援軍を待って、戦いを仕掛ける好機を失うのは合点がいかない」と言った。これに久政は激怒して直経を館から追い出してしまった。翌朝、信長が虎御前山から兵を引くのみた直経は無断で追撃を開始、織田の兵を3百討取ったが自軍も2百の兵を失った。
尊野には土豪である伊藤氏の城があった。現在は民家だが最近の発掘でも井戸跡や溝跡、磁器、瓦、腐っていない柱などが発掘されている。尊野村の周辺は田圃で湖北の土地支配の形態がここでも見ることができる。八島には白鳳時代にこの地の豪族が造営した寺があった。八島廃寺跡として遺物は発掘されているが詳しい事は分かっていない。
【探索のヒント】どこで信長が陣を張ったのかは分かりませんがどこからでも小谷城が見ることが出来ます。それぐらい周りは田圃です。尊野の方はまだ路駐できそうな場所がありましたが八島は中心部に駐車スペースがないのでさっと車を停めて写真を撮ってという感じでした。
【駐車場】路駐
【バス】お市ちゃんタクシー「八島」
@A
B
F矢合神社―虎姫町中野【MAP】
信長は虎御前山から陣を引き上げる時、浅井軍の追撃に備え馬廻衆の佐々成政、簗田広正、中条家忠を鉄砲五百挺と弓衆三十余りを与え殿軍とした。信長の読み通り浅井軍は虎御前山を奪回し更に引き上げる織田軍に肉薄した。
追撃軍は浅井家の中でも武勇に優れた「聞間敷組(きくまいぐみ)」―浅井新五・新六・孫八郎・半兵衛、戸田半之丞、毛屋七之丞、大橋善太夫、伊部籐七―らが率いる6百人である。簗田隊2百人は殿軍の左翼にいて最初に追撃軍と戦闘になった。簗田隊は敵からの弓鉄砲の攻撃をかわし佐々隊と入れ替わった。
佐々隊は虎御前山から1.5キロ南へ降った矢合神社裏で迎撃した。伊部籐七の鉄砲攻撃に押され気味になった佐々隊だったが織田信元、生駒八左衛門、戸田勝成、平野甚右衛門、高木左吉、野々村主水正、土肥原助次郎、山中半兵衛、塙安弘、太田孫太夫(牛一?)ら信長馬廻衆が加勢すると形勢が逆転、聞間敷組のうち浅井新五・新六・半兵衛、毛屋七之丞、大橋善太夫が討ち死にした。
佐々隊を引き継いだ中条家忠は八相山下に流れる川にかかった橋の上で敵と切り合い負傷したが、中条又兵衛は橋から転落しながら敵の首を取った。劣勢になった追撃軍だったがその執念は凄まじく草野川まで殿軍に攻撃を加えた。
八相山とは虎御前山を含む独立丘陵の南側ことであり中野山とも言われる。八相は「やわい」と読めること、昔からこの付近の村では弓矢を使った神事があったことから「矢合」の字が当てられたとの説がある。矢合神社に祀られているのは水辺を司る葦那陀迦(あしなだか)の神。この地は水利が良くなかったのでこの神を祀ったと言われる。
【探索のヒント】中野側の駐車場から登ります。舗装道路と石段@を使って登る方法がありますがそう大差は無いと思います。石段を登りきった所の奥に矢合神社本殿Aがあります。中条又兵衛が戦った「中野橋」がどこか分かりませんが信長が本陣を移した尊野・八島へ退却する時に渡る川としたら現在「田川」ぐらいしかないのでそこから八相山Bを撮影しました。
【駐車場】中野に25台分の駐車場
【鉄道】JR北陸本線「虎姫駅」
G姉川【MAP】
伊吹山系を源とする姉川は決して緩やかな流れの川ではなかった。度々流域は洪水に見舞われたため両岸の水田地帯を守るため土手が高く築かれていた。そのため全軍挙げて渡河するのではなく河原に降りられそうな所から川に入っていった。また水深も通常よりは浅いとは言っても1mあったということなので敵軍へ颯爽と切り込んでいくような情景ではなかったと思う。
姉川の水は流域の北にある野村・三田村・大路村、南にある東上坂・西上坂・垣籠・保多の村々の田畑に利用されていた。干ばつに備え村の上流の北側に「大井(おおゆ)」南側に「郷里井(ごうさとのゆ)」という貯水池があった。しかしいざ干ばつになるとその「井」の奪い合いになった。その中で1479年の争いは多くの死傷者を出す大惨事となり、京都にまでその話が伝えられたほどである。この争いの後、上流の村は渇水状況に応じて「井」の堰を年に三度切らなければならいという「三度水の制」を定めた。
【探索のヒント】安全に河原に出たいのであればずっと下流の「姉川緑地公園」へ行ったほうがいいでしょう。でも合戦跡ではありません。写真のかかっている橋が野村橋でその向こうにある小高い丘が家康本陣の岡山です。
【駐車場】なし
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