安土問答(宗論) |
経過 |
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浄厳院―安土町慈恩寺 天正7年5月27日浄土宗と法華宗の僧の間で宗論が浄厳院で行なわれた。この宗論を画策したのは織田信長だった。事の起こりは関東から全国を周っている浄土宗の霊誉玉念が安土城下で説法をしていたのをみた法華宗との建部紹智・大脇伝介が問答をしかけたことから始まる。霊誉玉念は二人に「あなた達では仏法を説いても理解できないだろうから法華の僧を連れてきなさい」と言った。それならばと法華宗では京都から高僧をつれてくることにした。 法華宗は京都での勢力が大きくなりすぎ将軍や他の宗教勢力から焼き討ちに遭い(天文法華の乱)、京都から追放され一時衰退した。しかし京都へ戻ることを許されると再び勢いを盛り返したが武力で他の宗教勢力を弾圧することは辞め、折伏(しゃくぶく:仏教思想の異なる相手に対話によって自分が正しいと信じる仏法を伝えること)主義を推し進めた。安土城下でも広く法華宗は浸透浸透していったが、1つの宗教が勢力を持つことを嫌う信長は武力弾圧しようとした。しかし天文法華の乱で懲りた法華宗は信長の挑発に乗らず一揆的な動きを見せなかった。そこで信長は今回の浄土宗と法華宗の争いを利用して法華宗の勢力を抑え込もうとした。 当日の参加者は 浄土宗側―霊誉玉念・聖誉定(貞)安(西光寺)・信誉洞庫(正福寺)・京都知恩院助念(記録者) 法華宗側―常光院日諦・頂妙寺日b・久遠院日淵・久遠院大蔵坊(記録者) 判定者―正明寺の鉄叟景秀・華渓正稷・因果居士・法隆寺仙覚坊 名代―織田信澄 奉行―菅谷長頼・堀秀政・長谷川秀一 目付役―矢部家定・森乱丸 結果は定安の問いの答えに窮した法華宗側に因果居師は浄土宗側の勝利を宣言、その場にいた人々は法華宗の僧に嘲笑を浴びせ、さらにその袈裟を剥ぎ取った。信長は法華宗側に宗論で破れたこと、今後折伏を辞めること、法華宗に一分の面目を保たせた信長に感謝すること、法華宗の僧は一旦浪人となり改めて召抱えてもらうことなどを法華宗側に命じた。さらに今回の騒動の張本人大脇伝介の首をはね、堺へ逃げた建部紹智も見つけ出し処刑した。 |
【探索のヒント】浄厳院は六角氏の菩提所だった慈恩寺跡に織田信長が開基させました。本堂Aは近江八幡市の興隆寺の弥勒堂を移築しましたが移築時に密教系本堂から浄土系のものへ内部が改変されました。楼門@は慈恩寺の物を遺したものです。JR「安土駅」から南西へ600メートル程の所にあります。駐車場は境内の南北にありますが南側の方をお勧めします。またここには和田惟政の墓Bもあります。 |
【駐車場】専用駐車場 【最寄の駅】JR「安土駅」 【MAP】 |
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