東美濃の戦い
―明知城落城―
経過
天正元年(1573)4月織田信長との決戦を目前に武田信玄が死去した。信玄の遺言によりその死は秘されていたが8月には苗木城の兵がともに武田旗下であった木曽氏の配下原平左衛門を攻めるという出来事があった。武田家臨時当主武田勝頼信長と戦うよりまず離反者を防ぎ内政に混乱が生じないようにするのが当面の課題となった。一方最強の敵信玄の死によって共同戦線が破綻した機に乗じた信長はその首謀者足利義昭京都から追放し、朝倉義景・浅井長政を滅ぼした。
最大の危機を乗り切った
信長の目が東の武田に向かないうちに東美濃を制圧しようとした勝頼翌天正2年1月27日甲斐・信濃・飛騨・上野の兵3万を率いて甲府を出発した。勝頼の進軍に合わせて木曽義昌木曽福島城を出陣した。義昌中山道を南下して進路にある織田方の砦・城@を次々に攻略、岩村城へ入城した。一方勝頼伊那口から侵攻して明知城Aを包囲した。この知らせを受けた信長2月1日救援のため尾張美濃の兵を出陣させ、5日には織田信忠を伴って自らも出発し御嵩城Bに入った。6日鶴ヶ城Cに着陣して7日明知城へ向け出発した。険峻な山岳地帯のためその行軍は難儀、ようやく明知城の西にあるD鶴岡山に布陣した。しかし武田軍山県昌景隊6千に背後を突かれそうになりやむなく撤退した。やがて明知城が落城、最後まで抵抗した飯羽間城Eも落城したため信長24日の全軍引き上げを決心した。なお東美濃監視のため鶴ヶ城河尻秀隆を小里城池田恒興を残している。
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