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@-1馬籠城―中津川市山口神坂馬籠荒町【MAP】
「甲陽軍鑑 品五十一」にある勝頼が攻め落とした18城の一つに「まこめ」城の名がある。丸山という地名から丸山城とも呼ばれる。築城時期は不明だが中仙道監視のために室町時代には砦として機能していた。この砦を信長は岩村城包囲の付城とした。そして「木曽並御坂越古道記」には勝頼の美濃攻めで木曽福島城を出た木曽義昌はまずこの砦を攻略したと書かれている。この功績により義昌の家臣島崎重通は勝頼から馬篭・坂下の内五貫文拝領している(南木曽町誌)。
武田家を見限った木曽義昌は信長にの後秀吉の配下となる。小牧長久手の戦いでは義昌は重通にこの砦を守らせたが中仙道を南下してきた菅沼定利・保科正直・諏訪頼忠らの大軍を前に戦う前に砦を捨て夜陰に紛れて妻籠城へ逃れた。
【探索のヒント】観光地なので車で来ても駐車場は何ヶ所かあり不便はないと思います。ただ有料の駐車場もあるので御注意を。私は県道7号中津川南木曽線と中山道が交差する所にある「馬籠館」の無料駐車場に車を停めました。ここから南西(落合宿方面)の田園地帯を見ると民家の後ろに木々が生い茂っている丘@があります。ここが馬籠城です。馬籠館の土産物店と食堂の間の道を下って道なりに進んで行くと右側に馬籠城の説明板Aがあります。背後の雑木林の丘Bが主郭です。説明板を少し過ぎると右に上っていく坂があるのでそこから主郭部分へ入れます。でも祠Cがあるだけで木や下草に覆われ地形はよく分かりません。民家がそばにあるのにほとんど人が入らないのか蜘蛛の巣だらけでした。戦国時代に規模は分かりませんが城と呼ぶには規模が小さく、砦と呼ぶのが相応しいかと思います。
【駐車場】何ヶ所かあり
【最寄りのバス停】北恵那交通馬籠線「なかのかや」
 
@A
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@-2丸山城―中津川市神坂 【MAP】
「甲陽軍鑑」には落城させた城としての記載はない。「木曽並御坂越古道記」は「丸山の霧原より云々」とあり霧原城と呼ぶ。「美濃国御阪越記」には丸山城は「霧原巽(南東)ノ方隅ナリ」と丸山城となっている。中津川落合と伊那阿智を結ぶ東山道鎌倉街道を監視する立地にあった。案内板によれば木曽路・伊那路・美濃路の抑えとして岩村城遠山氏は10の砦を築いた。その内、阿寺城と丸山城だけが城であったとする。しかし現状では祠のある部分を主曲輪としてその北側に平坦地があるのが確認できるぐらいで城と呼べるようなものではない。ただ丸山城のある恵那山から伸びる冷川と温川に挟まれた丘陵は周囲の丘陵より高く、周囲を見下ろせる好位置であったのは確かである。
【探索のヒント】国道19号線「沖田交差点」から馬籠方面へ向かう県道7号中津川南木曽線へ入ります。道なりにひたすら進み右に「湯船沢スポーツ公園」を見つけたら通り過ぎた右にある橋を渡ります。あとはどんどん進んでいきます。すると右手に「丸山城」「木曽義仲駒つなぎの松」の案内表示があるので右折します。再び道なりに進むと右にガードレールのある丁字路に来ます。そこを左折した左側の丘@が城跡です。駐車場はないので路駐になります。丘の上には祠Aがあるだけで視界は利きません。でも城跡の周囲は遮るものがないので北から西にかけての風景Bは中々の絶景です。
【駐車場】なし 【最寄りのバス停】中津川市福祉巡回バス神坂ルート「霧ヶ原旋回場」
 
@A
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@-3落合城―中津川市落合 【MAP】
旧中山道、東山道を見下ろす丘陵の先端に落合城は築かれた。「丹羽氏」聞書」では苗木遠山氏、「落合郷土誌」には秋山虎繁の砦とされるがこの北に落合五郎兼行の館跡があり「美濃古城史」ではその城と紹介している。落合五郎は木曽義仲四天王の一人で義仲に最期まで従った武将今井四郎兼平の弟と言う伝承がある。ちなみに巴御前は兼平の妹。義仲が滅んだ後、川中島に逃れたと言う。その子孫が信濃葛山城城主落合治吉で1557年真田幸隆(幸綱)の調略により一族に対立が生じた所を武田軍に攻められ滅んだ。
【探索のヒント】城跡は中央自動車道の落合川橋の橋脚工事により遺構はとどめていないと言う事です。国道19号「沖田交差点」から県道7号中津川南木曽線へ入り、左側に墓地が見えたらその反対側に丘陵へ登る一車線の道があります。切り返さないと入っていけないので不安でしたらそのまま中央道をくぐり道幅が広くなったところでUターンして戻って下さい。この坂を登り二つ目の左へ入る道を進みます。突き当りを左折したずっと先、民家を通り過ぎて山の中へ入っていくのですがそのまま行くと車を停める場所がないので早めに田圃の横に車を停めてください。山へ入って左の道を進めば橋脚の下へ行きます。橋脚の下@その途中の斜面Aに石積みが見られます。土塁や空堀Bのような地形もありますが不明です。もう一つの道は中央道の横へ出る道です。その途中の左側の様子Cも見ようによっては遺構に見えます。
【駐車場】なし 【最寄りのバス停】北恵那交通バス馬籠線「木曽路口」
 
@A
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@-4督の城−中津川市中津川【MAP】
「甲陽軍鑑」の中津川城が「木曽並御坂越古道記」の督(徳)の城のことであるかは不明である。そもそも中津川城という名称は「日本城郭全集」から始まったと言われ、正式名称は督(徳)の城であると言われる。
中山道から遠く離れたこの城は街道監視が役目ではなく、「狼煙山旗立場」であったと「御坂越記」に記されている。城跡にはそれを示すように北と北東の尾根上に平坦地がある。現在木々に覆われ視界は利かないが、登山途中に西側と東側に視界の開ける地点があり苗木城や馬籠城が確認できることから当時は中山道を一望できたと推測できる。
「岐阜県名誉図誌附録」には「中津川城」は阿照羅山にあり遠山左近直廉の居城だったが苗木城へ移ったので遠山久兵衛が城主になったと書かれている。この久兵衛が友忠ならこれは阿寺城のことではないのだろうか。遠藤左近(郡上八幡?)なる人物が城主だとも言われる。
【探索のヒント】前山登山と同じルートになります。前山で検索したら「崩落注意」とか「気をつければ大丈夫」などの言葉が並んでいたので行ける所まで行こうと決心して出発しました。中央自動車道中津川ICで下りて国道19号線へ入り木曽福島方面へ向かいます。4キロほど走った「松田交差点」を右折、山のほうへ向かいます。ここからは道なりに直進します。民家がなくなり道の両側に田圃が続きます。地図ではこの道の最後の方に道が左右に分かれていますが意識せずに右の道を進んでいました。そして終点がイノシシ除けのバリケードです。開けたら必ず閉めて下さいと書いてありますが鎖に鍵がしてあるのでこの前に車を停めます。ただしここを通る方もいるので端っこに駐車して下さい。
ゲートを越えて左の道を進みます。しばらく行くと右側に「前山登山道」の小さな看板があるのでそれに従い山へ入って行きます。熊笹が群集していますが道はしっかり付いているので迷う事はありません。途中かなり急な上りの所もありかなりな体力消耗になります。多少道幅が狭くなっている箇所もありますが素人の私でも無事通過、城跡直前に問題の地すべり跡がありましたが全く危険な感じはありませんでした。
ラジオを大音量で聞き熊鈴を鳴らすこと1時間15分、ようやく画像で見た
蛙石@に到着です。思った以上に広い場所でした。石積みAがあるのですがこれは戦国時代より後に番所があった時に置かれたと言われています。蛙岩の後Bが一段高くなっていてここが主郭というか建物があった場所になるのでしょう。苔むした岩が散乱Cしていました。ここからの視界は全くダメでしたが下っていると西側D東側Eに展望の利くところがあります。ぜひ撮影してください。
【駐車場】なし 路上駐車可能
【最寄りのバス停】北恵那交通松恵線「宮前」
 
@A
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@-5阿寺城―中津川市手賀野 【MAP】
木曽義昌が一日にして丸山城・落合城・得の城を落とせたのは落合の沖田淡路、中津川の丸山久右衛門、大井の中関大隅・勝野平六佐衛門など遠山領内にあって義昌に味方する勢力があったからである(「木曽考」)。ただこれらの人物は70年近く前の1504年木曽義元が飛騨の三木重頼に攻められた時、木曽方として戦っている(「木曽古今沿革史」)。ならば今回の戦いでは何歳なのであろうか。
阿寺城には苗木城主遠山友忠の二男友重(三男友政の実兄)が兵2千で守っていた。簡単に木曽軍の手に落ちた他の城と違い、友忠が実子友重を守りにつかせていたということでこの城の重要性がわかる。しかし岩村城の秋山勢が250騎というのに阿寺城の兵が2千ではちょっとおかしいということで「遠山友政の時代」という冊子ではその10分の1ではなかったかと推論している。義昌は阿寺城を包囲して三日三晩城を攻め立てた。しかし城兵の士気は高く中々城攻めははかどらなかった。そこで水の手を断つために木曽の杣人を集め水路である掛樋を次々と斧で断ち切っていった。水の手を断たれた城兵はさすがに不安になった。しかしそれを敵に見せては付け込まれる。そこで月明かりの夜を待ち、櫓に登った城兵は城内に残った白米を柄杓に掬い大声で敵に向かって叫んだ。「よぉく見ろ。城内にはまだまだこんなに水があるから簡単には城は落ちぬぞ!」そう言い終わると柄杓の白米を石垣から流し落した。これが月明かりに光りあたかも水のようであった。水の手を断って何日も経ってのことに木曽軍もあっけにとられたという。このエピソードがあったので阿寺城は白米城とも呼ばれるようになった、というが遠山氏の史跡では同じ話が「上村合戦−前田砦」「苗木城−馬洗い岩」を合わせて三つもある。大軍を前に堂々と渡り合った友重だが敵を追撃して引き揚げる途中に木陰から現れた敵6騎の放った矢が当たり落馬、首を取られてしまった。この緊急時に友忠・友政父子が城へ駆けつけ右往左往する城兵を一旦城へ収容した。その後、阿寺城には友政と遠山長兵衛が入り守りを固めた。
城の成立時期は不明である。苗木城主苗木直廉の死去を受け飯羽間城主遠山友勝が苗木城へ入るとその子友忠は嫡男友信に飯羽間城を与え、父の苗木城を正面に見る蘭丸山にある阿寺城へ入った。その2年後の1574年春、友勝が死去。これに代わって友忠が苗木城に移り二男友重が19歳で阿寺城主に据えられた。「丹羽氏聞集」には戸田甚左衛門(久須見村)と渡辺新右衛門(佐々良木村)が番頭として城を守ったとあると書いている。戸田甚左衛門は阿木城主としても同書に紹介されている。街道の監視が主目的であった阿寺城だが近世中山道とは2.6キロ離れている。「美濃国御阪越記」には山麓には手賀野村があったと記されているので当時の主要街道はもっと山寄りにあったのではないかと推定されている。
【探索のヒント】国道19号線「手賀野交差点」から南へ向かう県道413号東野中津川線へ入ります。県道は右へ曲がっていますが曲がらずぞのまま直進して住宅街の突き当りにある手賀野浄水場の前に車を停めるのが本来の行き方ですが2009年10月末現在、水道工事のため通行止めです。そこで県道をそのまま道なりに進み、右手に「カーサ手賀野」「フォレストハイツドクダミ」が見えたら道が右へカーブしていますがそれに従わず目の前の細い道へ入ります。突き当り(のように見えます)を左折、道なりに進みます。目的地近くで右へ入る道がありますが左へ進むと浄水場前に来ます。ここから本来通るべき道へ戻り最初にある右へ入る道を進みます。右に民家の裏から浄水場の横を抜けてダムへ行く道があるのでその道をひたすら進みます。ダム湖@横の鉄板の仮橋を恐る恐る渡りさらに山道へ。左に「←御岳神社」の古びた道標があるのでそれに従いせせらぎを渡ります。目の前には虎ロープ。これを伝って斜面を登ります。大変なのはここだけです。あとは城跡まで快適な山道です。城跡近くでふと右を見上げると石積みAが見られます。道を登り切ると尾根を利用した平坦地に出ます。この右側、南に向かって主要な曲輪が続きます最初の曲輪の虎口Bは明瞭に残っています。東側へ下る道にも石積みCがあります。次の曲輪はかなり高い位置Dにあり、一旦東側へ回り込んでから入るようになっています。上下2段構造Eこの曲輪Fは比較的広い面積を持っています。ここからさらに南の曲輪は堀切で分断され土橋Gで連絡しています。現在御嶽神社Hがあるこの城跡の最南端下には三重の堀で南側の尾根とは分断されていますI
【駐車場】手賀野浄水場前
 
@A
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@-6千旦林城―中津川市千旦林【MAP】
千旦林を領有する吉村氏勝(源斎)・氏為(源蔵)父子が城主であったと「武並神社縁起」にある。源蔵が上村合戦で戦死後、遠山友忠の三男友政が城主として守りについた。友重の戦死で友政が阿寺城に移り、代わりに遠山次郎左衛門・勘兵衛が千旦林城を守ることになった。
【探索のヒント】千旦林城のあった城ヶ峰へは国道19号線「深沢交差点」を南へ行った「中津川中核工業団地」の東の端にある「高齢者福祉施設ら・じょわ中津川」そばの林道から向かいます。立ち入り禁止ゲート@まで未舗装ですが車で行けます。ゲートを越えたらあとは平坦な轍のある山道を進みます。道が左へ大きく曲がった右に森林開発公社の看板があります。ここから登って行きます。登ると行っても決して急な坂がありわけではありません。途中までは踏みしろがあるのですがその先が分かりにくくなっています。見当をつけて真っすぐ進みます。数日前の雨で足もとに水が流れぐちゃぐちゃですがさらに進みます。もはや道はありませんが下手に曲がろうとせず進みます。すると左に登る道があります。そこを登ると丁字の尾根筋に出ます。この尾根を右へ行きますB。すると目の前に急な坂。その上に岩がありCここさえ上りきれば・・・。登れませんでした。足懸りになる木が細くて頼りなく、さらに地面がすぐに崩れて踏ん張りが利きません。この道以外も探そうとしましたが正直、山の素人が無理したところで碌なことはないと諦めました。頂上まで行かれた方のHPをご覧下さい。そうそう、クマが出ますのでそのような装備をお忘れなく。
【駐車場】立ち入り禁止ゲート前に駐車可 
 
@A
【寄り道】源済岩―中津川市千旦林 【MAP】
幼名太郎左衛門、成人して氏勝と言った吉村源済は、領民と共に野良仕事に精を出す信望厚い領主であり、侍としては智謀に優れた豪傑であったと言われる。東美濃へ侵攻した武田信玄は源済の噂を聞き、家臣に迎えようと何度も使者を送った。しかし源済はこれをことごとく拒否した。これに怒った信玄は源済を殺害を計画した。領民が戦いの巻き添えになるのを嫌った源済は、木曽川左岸の奇岩の一つに単身立て篭もって武田軍を迎え撃った。これが源済岩(砦)である。当然のことながら源済は戦死する。その子七郎左衛門氏爲(通称源蔵)は、反武田の旗頭苗木城主遠山友政の元で働くことになる。
【探索のヒント】付知川と木曽川の合流地点@の南側にある源済公園の西端Aにあります。公園駐車場から木の生い茂った遊歩道を通って行くのですが、鬱蒼としていて本当に公園かいなと思ってしまいました。
【駐車場】あり 【最寄りのバス停】北恵那交通バス恵那線「源済口」
 
@A
BC
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@-7大井城―恵那市大井町
「恵那市史」の大井城は現在の大井小学校にあった。東西約120メートル南北80メートルの大きさで中山道を見下ろす比高差15メートルの丘陵にあったとされる。城域と推定される東端には堀の跡がみつかっている。
また大井城より北西650メートルにあった鷹撃谷(たかちがや)城も大井城と呼ばれる。こちらも中山道を見下ろす丘陵の端に築かれている。
大井城が歴史に登場するのは1473年の信濃守護小笠原家長が木曽家豊と共に大井遠江守行秀を攻めた時である。この時大井城は落城、東美濃は小笠原氏の領地となった。そして60年以上後の天文年間に小笠原氏に代わり岩村遠山氏が東美濃に勢力を拡大した。その頃尾張守護土岐氏の元を離れ浪人していた尾張志那野出身の藤井常俊が遠山家に仕えるようになった。常俊は落城して放置されていた大井城の修復と中山道を挟んだ反対側の丘陵の端に築城することを命じられた。新城が鷹撃谷城である。そして大井城は長男の宗常を鷹撃谷城は次男宗守(常守)を城主として守らせた。その後宗常が病で死ぬとこの宗高がその跡を継いだ。
そして武田勝頼の東濃侵攻の別働隊木曽義昌軍の猛攻を受けた大井城と鷹撃谷城は共に焼け落ちてしまった。幸いに宗高は無事城から抜け出せる事ができた。
【探索のヒント】大井城へはJR中央本線「恵那駅」の南、「中央通1交差点」を東へ向かい道なりに進みます。大井宿本陣跡の先右へ曲がりながら登り始めた@右側に大井小学校Aがあります。正門を入ると小学校が大井城跡にできたことを記した解説板があります。横を流れる横町川に沿った学校の地形Bが城を連想させます。
ご存知の通り今来た道が中山道です。江戸時代大井宿は中山道にある宿場の中ではおなり大きなものなので史跡が多々あります。
さて車の場合この道は一部西向き一方通行なので南の「大井町交差点」から県道68号恵那白川線を東へ向かい、「恵那高北交差点」を左折して小学校前に出た方がいいでしょう。ただし朝の通勤時間帯は車の往来も多く道も狭いので路上駐車は無理です。中央公民館駐車場(かなり離れ増ます)かショッピングセンターバローを利用しましょう。
鷹撃谷城へは大井小学校の前の道を西へ向かい「ココストア」を過ぎて最初の十字路を右折し小さな橋を渡りJRと明智鉄道の高架をくぐって右、線路に沿って急な坂を登ります。そして最初の辻を左折、左に分譲住宅地がありその間に道があります。その突き当りが城跡です。2008年11月現在、車で入り込んでも方向転換できます。
現在家庭菜園となっている主曲輪Cと思われる部分の周りには土塁がありますが丸い石を積み上げているので当時のものではないようです。主曲輪と思われる西側に幅8メートル深さ1.5メートルの堀Dが確認でき、資料によると北へ向かって60メートルあるそうです。鉄道の高架をくぐって右へ行ってすぐに左へ曲がると城の南側の崖下Eへ行けます。こうしてみるとこの城は監視のためのものであって守るには弱い気がします。
◎大井城:【MAP】 ◎鷹撃谷城:【MAP】
【駐車場】なし 【最寄りの駅】JR中央本線・明知鉄道「恵那駅」
 
@A
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@-8東野陣屋跡―恵那市東野【MAP】
「恵那市史」では天正元年、勝頼の東美濃侵攻の前年に対武田戦用に築かれたとする。東野の御所前という所には遠山氏の国府があったと「巖邑府誌」にあるがここを指すのであろうか。天正年間には佐伯某がこの地にいたとも記されている。
【探索のヒント】国道19号線「正家交差点」から国道257線に入り「正家清水交差点」左折、阿木川を渡った右側が東野です。道が狭く路駐できないので川を渡る前にある「阿木川公園」に駐車して徒歩で散策しましょう。橋を渡って側道に入ります。しばらく歩くと左側の森へ入る舗装道路@があります。ここを入ると右側に3メートルはある土塁Aがあります。ここが陣所の北端でこの道はもとは堀であったと推測されます。元の道へ戻って森沿いに歩き、左へ大きく曲がった道へ入ります左に「貴船神社」の鳥居がありその向こうの森が陣所跡Bです。本殿の北側に堀と土塁Cが明瞭に残っています。この堀と土塁は東に続いています。東側の土塁の切れ目が虎口Dと考えられます。内部は周りの土地より1メートル低くなっています。現在、畑になっているようですがあまり手入れがされている様子はありません。ほぼ方形の内部を北へ進むとAの土塁上に来ます。もう少し手入れが行き届いていたら見ごたえのある遺跡だと思います。
【駐車場】阿木川公園駐車場 【最寄りの駅】明知鉄道「東野駅」
【最寄りのバス停】東濃鉄道自主運行バス小野川線「東野大門」
 
@A
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@-9久須見城―恵那市長島町久須見【MAP】
「多治見市史」は久須見城を18城の一つとしている。「甲陽軍鑑」の今見城とはここを指すと推定されている。この城の北を流れる木曽川の「滝坂の渡し」から大井方面へ行く旧街道が城のすぐ東を通っていた。これに接するように城がある。城主は松尾左京と「恵那市史」には書かれているがそれ以外のことは不明である。
【探索のヒント】中央自動車道「恵那IC」を下りて県道68号恵那白川線を左折します。このまま道なりに進み「ココストア」が右にあれば行き過ぎです。この手前の東へ斜め行く道へ入ります。公民館@があるのでそこに駐車します。その裏山が久須見城です。「峰の山」という丘陵の先端になります。民家の横から斜面を登ると帯曲輪と思しき地形Aになっています。ここからさらに登ると現在御嶽神社がある主郭Bです。ここから東へ約50メートル平坦地になっていますが最東端にある祠との間に大きな堀切Cがあります。堀切の手前は小高くなっていて土塁又は櫓跡と推測されています。祠のある曲輪は15メートル四方で東にさらに堀切・土塁を設け東からの敵の侵入に備えています。
【駐車場】公民館駐車場利用 【最寄りのバス停】東濃鉄道自主運行バス中野方・毛呂窪・笠置・飯地線「久須見」
 
@A
@-10瀬戸崎城―中津川市瀬戸【MAP】
「甲陽軍鑑」「多治見市史」に18城の一つとされる城である。苗木遠山資料館の千早様によると苗木城の狼煙台程度の存在でしかなかったのこと。西の苗木城まで2キロちょっと、木曽川に面した三角点のある丘陵@で現在飯盛神社がある所が推定地。現在木々が茂って視界は一部しか利かないが木曽川の南側、遠山氏の砦を一望できる絶好の地点である。巨石が見つかった以外城跡であった遺構は見つかっていない。
【探索のヒント】国道19号線「上金新田交差点」と「子野交差点」の間の「JOMO」のある交差点を左折、県道6号中津川山口線に入ります。木曽川を渡りそのまま道なりに進むと「瀬戸の里」のでっかい看板が左にあるのでそこを左折します。またまた道なりに進んでいくと右側に工場があり「まゆ整骨院→」の看板がある道を右折、そのまま進みます。このままいくと舗装道路が終わり右に溜池がある地道になります。そこに車止めがありここから徒歩で神社Aへ向かいます。ここまで行くのが不安だったので地元の人に許可をもらって路駐しました。
【駐車場】なし
 
@A
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@-11椋実城―恵那市三郷町椋実【MAP】
欒峰城ともいう。山上には「天正3年2月武田軍により落城」と書かれた杭が建てられている。また周辺にもそれに関連した史跡が残る。これは「三郷村史」に書かれていて1202年遠山右馬丞安守が築城したとする。「山岡町史」には椋実は手向村遠山二郎の所領でその婿串原村五郎が築城し斉藤妙椿の家臣成蔵院によって落城させられたとする。
【探索のヒント】国道418号線「殿畑交差点」で「椋実ダム」へ向かう脇道に入ります。道なりに進むと左側に大きく崩された山があります。この下に車を停めるスペースがあり「欒峰城入口」の看板があります。この崩れた山の後ろが城跡@です。でも道はありません。崩れた山の背後の山の斜面を這い上がって行きます。この城跡は尾根が5つありそれぞれに曲輪BCが作られています。斜面を登ると曲輪と思われる地形があり、そこを右へ進んでいくと堀切で分断された曲輪Aがあります。この左の斜面を登ると主郭Bです。下からは分かりませんでしたが南西へ50mある広い曲輪DEです。この山でニホンカモシカに出会いました。ブログに書いておきます。やはりこちらの山もそれなりの装備をお忘れなく。
【駐車場】駐車スペースあり
 
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@-12佐々良木城― 【MAP】
【探索のヒント】
 
 
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@-13野井城― 【MAP】
【探索のヒント】
 
 
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A明知城―恵那市明智町城山
別名白鷹城。遠山庄の地頭加藤景廉の子で遠山氏の祖景朝の子景重が1247年に築城したとする記録があるが不明である。「寛政重修諸家譜」に記載された上村合戦が遠山三家明知遠山氏の初見である。その上村合戦で戦死した遠山景行の子利景が勝頼の明知城攻撃の時城で指揮を執った。僧籍にあった利景が還俗して兄景玄の子一行を後見した経緯には上村合戦で父と兄が死んだためと兄は明智家へ養子に入って(明智秀満となる)いたので跡が継げなかったとの説がある。後者に関しては遠山景行=明智光安(明智光秀の叔父)説がある。
さらに明知城落城に関しても諸説ある。「信長公記」は城内で飯羽間右衛門(友信)が謀反を起こしたための落城。「甲陽軍鑑」は明知城は簡単に落城、右衛門は飯羽間城に篭っていたとする。「遠山御家譜」も最後は右衛門が飯羽間城で捕まったとする。
坂井越中守一族が信長から明知城へ派遣されていたが右衛門謀反で皆殺しにあったとしさらに詳しく派遣されていた16騎のうち9騎は討死、7騎は逃げたとする資料もある。城の東側の搦手曲輪が落とされ城には火を放たれた。たちまち火は城内から城下まで焼き尽くし死者は500人にのぼったという。その中一行と利景は無事城を脱出して三河へ向かった。
その後利景は明知城を奪回したが天正11年金山城主森長可と対立、再び三河へ逃れた。その翌年天正12年小牧・長久手の戦いの最中、利景は遠山佐渡守・与助・反左衛門らと明知城を再度奪回するも秀吉の命で森家に返還した。さらに関ヶ原合戦のときにも城を奪い取っている。この功により1603年なりようやく利景は恵那・土岐に6530石を与えられ旗本として明知城初代城主となる。
【探索のヒント】車での最も一般的な行き方は龍護寺の駐車場を利用する方法です。県道33号瑞浪上矢作線から龍護寺の看板に従って側道に入り龍護寺の駐車場に車を停めます。駐車場へ来る途中に明知城への登り口が表示されています。稲荷社の手前に再び看板がありここから山道へ入ります。休憩所を過ぎると遺構のオンパレードになります。龍護寺へ向かわず県道をそのまま進むと右側に駐車場の看板があります。ここからだと搦手砦から回ることになります。
丁度一月前(09年5月25日)に現地調査があり振興事務所でその時配布された資料をコピーしてもらっていたので非常に役立ちました。なおじっくり回るには数時間はかかるといわれました。
本丸@のある標高528メートルの山頂部に続く周囲の尾根に曲輪が配置され、各曲輪は切り岸・畝状空堀・堀切で防御されそれぞれ独立して存在していたと見られています。また現時点では虎口や連絡路も不明なので今ある道はあくまで調査のためできたものということです。訪ねた時期が初夏で下草が茂っていましたが道はハッキリと分かります。
二の丸Aの南5メートル下の尾根を切り開いて東の丸郭B、搦手砦Cを配置、二の丸を守っています。搦手砦から駐車場へ向かわず横堀についた道を進むと本丸の東側を通り大手門東砦Dへ戻ってきます。先に書いた通り切り岸等で曲輪を作っているのが明知城の特徴ですが2箇所だけ石垣があります。本丸へ入る直前の城門の石垣E出丸砦の石垣Fです。出丸砦Gはこの山の南側、急な山肌の天辺に作られています。さらに猿戻しHという猿でも登るのを諦めるという絶壁状の切り岸も備えています。
ところで東の丸には貯水池があるのですがこの水源はここから東へ1キロほどの所にある団子杉そばの古沼から引いていたといわれてます。実際貯水池の西側には溝の跡が残っていて、池の中には仕切りがあって余分な水は南側へ流される仕組みになっています。
この団子杉ですが樹齢が1千年、高さ18.2メートルで現在も成長している天然記念物です。四方に伸びた38本の横枝のせいで丸みのある木の形となりこの名が付けられたのですが、城を脱出した城主一行は愛臣の遺骸をここへ葬ったと現地の案内文にはあります。ところが初めに設置された案内文は
「上村合戦で敗れた景行が愛臣の遺骸をこの樹の下に埋めた」としてました。その後「元亀3年明知城落城で脱出した一行が愛臣の遺骸を埋めた。その墓碑が数基ある」となり現在のもの「天正2年の武田軍による明知城攻撃云々・・・」になったということです。
場所は明知城駐車場を通り過ぎて県道を走ると左に団子杉の看板があります。未舗装の道ですがそのまま車で行けます。杉の手前に駐車場があります。
◎明知城:【MAP】 【駐車場】龍護寺駐車場 専用駐車場
       【最寄りの駅】明智鉄道「明智駅」
◎団子杉:
【MAP】 【駐車場】あり
       【最寄りのバス停】恵那市自主運営バス明智峰山線「法明」
 
 
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B御嵩城(権現山城)―可児郡御嵩町御嵩 【MAP】
御嵩城主は御嵩の領主であった小栗信濃守である。高山城主が跡継ぎの無いまま死去したのに乗じてこの城を乗っ取ろうとしたが、武田氏・遠山氏・小里氏の連合軍の前に敗退して、武田家に従うことになる(上村合戦参照)
この城には伝説があり、敵に攻められた時、山麓の井戸に住む白大蛇が起こした霧が城を隠して、敵の攻撃を防いだというものである。これにより権現山城は「霧隠城」とも呼ぶ。下伊那の大島城にも同じような伝説があった。ところでこの敵を森長可とするものがある。本能寺の変を受け、新領地川中島を退去して本拠兼山城に戻った長可は、ひと月半ほどで東美濃のほとんどを制圧した。その内の一つに御嵩城があげられている。城主はやはり小栗氏。だが「御嵩町史」では永禄6年までの小栗氏の活動は記録に残っているがそれ以降が確認できないので、遅くとも武田軍が東濃に攻め込んだ元亀3年までに滅んだのではないかと推測している。
【探索のヒント】金峰ふれあいの森が城域です。南山台東という住宅地の北東の山@が城跡です。二つのピークの間にある平地に車を止めることが出来ます。ここは馬場でした。可児川に面した山が主郭になります。現在、階段があるところは堀切Aです。登りきった正面、現在立ち入り禁止になっていますが物見台Bです。ここから右へ登って行くと金峰神社のある平坦地が本丸Cです。本丸の北西隅が虎口で本丸の南の下に大手道がありました。途中、左右の土塁が道幅を狭くして虎口Dとしています。この先、大手道は右へ曲がってさらに左へ曲がって大手門を通り九十九折の道を東へ下って平芝川を渡ります。この道を監視するのが本丸の南東にある曲輪Eです。大手門のすぐ南にある石段Fを登ると南のピークで出丸Gと考えられています。開発が始まる前は出丸の南に尾根があったので堀切Hで分断していました。また出丸の南東には5本の竪堀Iがあります。
【駐車場】駐車スペースあり 【最寄りの駅】名鉄広見線「御嵩駅」
【最寄りのバス停】御嵩町ふれあいバス「城町弘法堂」
 
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B本陣山城(御嵩城)―可児郡御嵩町御嵩 【MAP】
昔から宿場として栄えた御嵩の町を見下ろす丘陵地帯の北端の最高地「ホンジ山」に小栗信濃守は城を築いた。本陣山が転じて「ホンジ山」となったとも言われる。伝説によれば東の権現山城が霧のため攻め落とせない敵(森長可説あり)が計略をもってこちらへ城を移させた。邪魔する霧がない城はたちまち落とされたというものである。現地の説明板には権現山城より守りが堅いのでここへ城を移したとある。また信濃守自害は長可ではなく、高山城攻めに失敗して武田・遠山・小里軍に追いつめられての結果とする。共通しているのは二十歳になる娘は可児川を見下ろす断崖(廿ヶ平)から身を投げたことである。だが永禄6年(1563)の上之郷中切の牛頭天王社(小泉神社)再興の棟札に小栗藤右衛門の名前が見えるのでがその証拠となる。だがその後の小栗氏の動向は分かっていない。
御嵩城とは本陣山城と権現山城を合わせたものを指すらしい。権現山城にあった屋敷で普段の生活をし、有事の際は本陣山城に籠るということである。「御嵩町史」にある縄張り図をみると展望台のある本丸を中心に放射線状に曲輪を配し、東西の防御を高めている。本丸の北は急峻な崖になっている上に可児川が堀の役割をしている。つまり伝説にあるような攻めやすい城ではない。また石塁が発見されていないことから元亀・天正期には城としての役割がなかったと推測されている。従って信長が来援した時は本陣山まで登る必要もなく、権現山城に本陣を置いたと考えられる。
【探索のヒント】御嵩城址公園が城跡です。国道21号線を可児市方面から東へ向かい、「中交差点」の次の信号で右折します。「御嵩駅」「御嵩城」などの案内表示が出ています。駅を右手に見て道なりに進むと大きく左へカーブしています。左側が南山台西の住宅地です。トンネルへ入る直前に左の道へ入り、そのまま進んでいくと展望台の下の駐車場@に到着です。ここは大堀切があった場所で南側に三の丸がありました。今は見る影もありません。てんぼうだいへ向かう斜面が下の二の丸でした。展望台からは御嵩の町が一望でき、兼山城のある山も見えますA展望台のある場所が本丸Bで地形はそのまま残っています。展望台手前の芝生広場が上の二の丸Cです。本丸と二の丸の間には堀がありましたがかろうじてわかる程度になっています。二の丸の東西には腰曲輪Dがあったのですが今は東側だけが残っています。本陣山城と権現山城は大手道で繋がっていましたがそれは今は亡き三の丸経由でした。現在は南山台東住宅地とをつなぐ階段が二の丸の下にあります。これを使えば権現山城へ行けます。
ところで二の丸の隅に金毘羅大権現・瑜伽大権現の石碑Eがあったので権現山城はこっちなのかと思ってしまいました。どうでもいいですが気になったので調べました。
ともに山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、金毘羅大権現は香川金刀比羅宮(昔は松尾寺金光院)、瑜伽大権現は岡山瑜伽山蓮台寺で祀られていました。蓮台寺の住職がのち松尾寺の住職になったのを機に金毘羅大権現と瑜伽大権現を回る「両参り」が考案されました。ただ地方の人たちが岡山と香川を回るの大変なので、参れば両参りを達成できたことになるお得な社が各地に出来ました。御嵩でもそうしたものがあったのでしょう。その後の開発などでその社はなくなり石碑だけがここへ移されたようです。
【駐車場】駐車スペースあり 【最寄りの駅】名鉄広見線「御嵩駅」
【最寄りのバス停】御嵩町ふれあいバス「南山台東」「南山台西」
 
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C鶴ヶ城―瑞浪市土岐町 【MAP】
 
高野城・神箆城・土岐城とも呼ぶ。築城時期は鎌倉時代の初めといわれ、築城者は源国房、土岐光信、土岐光衡の諸説がある。光衡以降、光行、光定、頼貞と美濃守護土岐氏の居城だったが頼定の子頼遠が岐阜市内の長森城に移るとその弟頼兼が城代として居城、以後土岐一族または城代が室町時代末までここを守った。なお頼兼の時に今回の織田方の拠点小里城が支城として築かれている。鶴ヶ城の南に流れる土岐川は川底が浅く急流であったため水運が興ることなく、古代より美濃や尾張へは
川沿いの街道(下街道)が利用された。鶴ヶ城はその要衝に設けられていた。信長との決戦のため武田信玄が確保しようとしたルートがここで森可成・肥田玄蕃・道家兄弟がこの地でそれを阻止した。逆に信長が武田攻めを敢行した時は鶴ヶ城を宿営地とした。
 天正年間の初め城主は延友信光(遠山(土岐)三郎兵衛・遠山土佐守・遠山景延と同一人物)と伝わる。小牧長久手の戦いでその働きにより徳川家康から感状をもらっている。その後、関十郎左衛門(小牧長久手の戦いで戦死)、関庄左衛門、林新右衛門(森可成の義父・高山城主)、林長兵衛(新右衛門の子)が城を守り関ヶ原合戦を迎える。岩村城主田丸直昌は東美濃の城主たちが東軍家康に味方する中、秀吉の恩顧に報いるため唯一西軍についた。よって岩村城の支城であった鶴ヶ城は同じく支城だった明知城・小里城・高山城と共に東軍に属する妻木城の妻木頼忠の攻撃を受け落城する。
【探索のヒント】国道19号線「鶴城交差点」から中央道の下をくぐる道へ入ります。突き当りを左折後しばらく行くと右に諏訪神社があります。他の方の意見を参考に神社前の駐車スペースに車を置きました。中央道沿いの道をそのまま進み坂を登りきった右側が城の入口@です。ここから二の木戸跡Aまでの道が鬱蒼としていて今までにない不気味さを感じました。ここを過ぎると目の前に西出丸跡の立て札Bがあります。尾根上に設けられた曲輪でその先は中央道の工事の時に崩されました。西出丸の立て札を右へ行くと「御殿」と呼ばれる曲輪があります。その途中に手水鉢Cなるものがあります。他の方のHPにこれが掲載された時には立て札があったのですが私が行った2010年5月時点で立て札は倒れて文字は読めない状態でした。この先に今度は東へ延びる尾根上に設けられた東出丸跡Dがあります。西出丸と同じく中央道工事でその先端は削られました。西出丸は比較的広かったのですがこちらは狭く途中二段になっています。主曲輪の真下には葵の井戸Eがあります。主曲輪Fは山の頂上に南北20m東西45mの長方形で作られ、西側は巨大な堀切Gで背後の山と遮断しています。ここからは明知方面の山々Hを見ることができます。また主曲輪の南西隅から南へ「御殿」を見下ろすような細い曲輪Iが存在します。ここから大堀切へ行こうとしましたが足元が悪いので断念しました。
【駐車場】諏訪神社駐車場を利用 
 
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D鶴岡山陣所―恵那市明智町大泉【MAP】
 スワヶ根の砦ともいう。「明知年譜」には3万の軍勢を引きつれた信長がここに布陣すると山県昌景隊6千が織田軍前衛に攻めかかった。前衛部隊はこの攻撃を支えきれず壊滅、信長はやむを得ず退却したとある。「岐阜県中世城館跡総合報告書」は砦の歴史は不明であるが山頂は自然地形のままで土塁はなく切岸によって構成されているので臨時に設けられた陣城としている。本当にそうであろうか。
 今回の勝頼の軍事行動が信長の虚を突いたこと、勝頼がどこまで侵攻するつもりなのか分からないこと、鶴岡山が敵陣のすぐ後ろに位置しているを考えると砦を急きょ作ったとは思えないのである。砦は土岐川の南東から続く山地の最も端の明知城から北西3.4キロの標高732mの山頂にある。雑木林さえなければ眼下には明智の町が一望できる。これは明知城の南にある落合山砦と同じ条件になる。すると明知城下を通る南北街道と中馬街道を監視するため鶴岡山にも砦を築いたと考えられないであろうか。軍事的に武田軍はこの場所を押えるはずである。それに関して鶴岡山の東の麓にある大船春日神社には秋山信友が明知城攻めの時、鶴岡山に本陣を置いたという伝説がある。ということで3万というのは多すぎるが信長は後詰として明知城へ向かった。間もなく城という所で山の上に陣取る武田軍を発見、信長はここを占拠しようと武田軍を攻めるが援軍が現れ退却を余儀なくされたとうのが鶴岡山での信長の軍事行動ではないだろうか。
【探索のヒント】初めて明智へ来た時、振興事務所の遠山様が郷土史家の方にこの砦を案内されたという話を思い出し、その郷土史家の方を紹介していただきました。2010年現在で84歳になられる熊谷博先生と言われます。遠山様が登った時は東側の大泉側から登って非常に難儀したということで私は最も楽な林道からのアクセスを紹介していただきました。国道363号線を明智町から瑞浪方面へ向かいます。吉良見を過ぎて右側に林道入口があります。ここから9番目の退避所(右側)に車を停めて徒歩です。5分もいかないうちに右側に山道入口@があります。このまま道なりに進み切通しAを過ぎちょっと下草が茂りだした左側に木が2本Bあります。この右のブッシュを入って行きます。少し登ると木も伐採された平坦地なっています。砦はここから東の方にあます。明瞭な道はありませんが素人の私でも迷わずに行けました。右へカーブしている切岸Cの上を進んでいくと三角点のある頂上Dへ出ます。この切岸の一段低い所Eを行くと砦西側の堀切に出ます。三角点のある山頂から東へ少し下ると大船村と小泉村の諏訪明神の石祠FGがあります。ここが東端で木がなければ明智の町が眼下に広がって見えます。先にも書いたとおり道はないのでくれぐれも迷わないようにして下さい。またクマ・イノシシも出るそうですのでそれなりの装備をお忘れなく。
【駐車場】林道の退避所に駐車 
 
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E飯羽間城―恵那市岩村町飯羽間市場田【MAP】
武田領と国境を接する岩村遠山氏と違い尾張と接する飯羽間城主遠山友勝は早くから織田家と良好な関係を築いていた。それは1560年の桶狭間の戦いで信長方に遠山久兵衛が、1565年の美濃攻めには遠山久兵衛・遠山左馬介が加わっていたという記録から推測される。しかし織田家に近いとはいえあくまで遠山一族として岩村遠山氏に従っていた。飛騨の三木氏攻めで先陣を切っていた苗木直廉が負傷するとそれに代わって指揮を執ったのは友勝である。
飯羽間遠山氏の運命が大きく変わるのは1572年の岩村城景任と苗木城直廉が相次いで死去した時からである。美濃を手に入れた信長だったが岩村城・苗木城は武田寄りの城だったのでこの期に乗じて苗木城に友勝を送り込んだ。飯羽間城は嫡男友忠に与えられた。この後武田の勢力が東美濃に浸透してきても友勝・友忠父子は親信長を貫きやがて武田家滅亡の足懸りを作ることになる。しかしその間友忠の次男友重が若干19歳で戦死、嫡男友信は明知城落城時に武田氏の捕虜となっている。ここで「信長公記」では友信の裏切りで明知城が落ちたと記し、「甲陽軍鑑」では明知城を落としたあと勝頼は飯羽間城を包囲、信長から派遣された警護兵14人を討取り友信を捕縛したとし、「苗木伝記」は友忠の偽書状に騙された友信が城を明渡したとし、「遠山家御家譜」は東美濃の遠山方の砦を立て続けに落した勢いで最後の城飯羽間城を攻める勝頼軍に友信は城兵3百を統率して最後まで抵抗するが捕らえられた。その武勇を惜しんだ勝頼は伊那箕輪城を与えたとする。最後は信長の甲州攻めで二人の息子と共に自害している。
現地には落城時のエピソードが紹介されている。飯羽間城を包囲した武田軍内では馬場信春や内藤昌豊ら家老衆の飯羽間城攻めを一旦休止して早々に甲斐へ引き上げるべしとの意見に近習の跡部大炊助・長坂長閑は自領に敵方の拠点を残すのは情報漏洩などの危険があるので一気に決着をつけるべきだと主張した。すると信玄から勝頼へ代替わりをした記念に牢人衆である我らに奉公させて欲しいと名和無理介・井伊弥四衛門・五味与三兵衛らが城攻め申し出た。これに近習・旗本衆が「牢人衆に城攻めをさせたと分かっては聞こえが悪い。ぜひ自分達に城攻めを」と言い出した。結局我が我がという具合に各隊が城に攻め込んだため城方も防戦及ばず、友信は蔵に追い詰められて捕らえられた。遠山18城で最後に落城した城と言われる。
落城後「信長はいまみあてらやいいはざま城をあけちとつげのくし原」という歌が謡われた。
遠山友勝は三淵大和守藤秀の実子で養子に出されたという。本当なら細川藤孝の従兄弟となる。しかも友勝・藤秀・藤孝みんな他家の養子なっているというのも運命か。
【探索のヒント】中央自動車自動「恵那IC」から国道257号線へ入り岩村方面へ向かいます。「小沢山トンネル」を抜け信号二つを通過すると右県道406号久保原阿木線、左国道257号線と分岐しています。右の県道を進んで行くと右前方の山に飯羽間城の看板@を見つける事ができます。右に曲がらず細い道に入ります。駐車場はないのでビニールハウス近くの道幅が広くなっている所に路駐します。さっきの看板の下から以前は登れていましたが道が崩れて通れないので車を停めた地点から農道を通って現在の登り口Aへ向かいます。ここが昔の登城口です。竹薮を通る道が2本あり急な方が本来の道、なだらかな方は楽々コースで途中で合流して本丸へ通じています。本丸には飯羽間城諸将士供養碑Bが建っています。周囲の視界は利きません。本丸の東側の一段低い所が二の丸Cでさらに進むと三の丸で看板の裏側になります。急な斜面を持つ独立した丘陵を利用した城です。飯羽間川の流れる北側が特に傾斜がきつく各曲輪は本丸の東・南・西側に山を削って作られています。現在の所土塁や堀跡は見つかっていないそうです。
【駐車場】なし
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