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@岩村城包囲
上杉家編年文書によると6月13日信長は謙信に次のような文書を送っている。「私の天下統一事業を邪魔する武田勝頼を去る5月21日三河長篠で完膚なきまでに叩きのめした。天命に逆らう者がこうなるのは当然である。ところで当方はすでに岩村城を包囲して城方からも助命嘆願がなされている。はじめは皆殺しと思ったが気が変わった。城は間もなく落城するだろうから私も信濃へ出陣する予定にしている。家康も駿河へ進出して今川氏真の身柄を確保した。謙信殿もこの期に乗じて信濃・甲斐へ出陣されてはどうであろうか」と。
長篠・設楽合戦から一月も経たないうちに信長は岩村城攻略に乗り出した。これは勝頼に反撃の機会を与えないで一気に東美濃を手に入れようとする信長らしい動きである。一方の勝頼は同時期に家康も二俣城奪回の兵を動かしたので身動きが取れなくなった。信忠は本陣を岩村城の北8百メートルほどの所にある分根丘陵の東端の丘に置いた。
【探索のヒント】信忠が本陣を置いた丘は大将陣公園@といいます。恵那方面からだと国道257号線「裏山交差点」を左折、国道363号線に入り左に丘が見えてきます。そこが公園です。ただし駐車場がないので公園脇に路駐するかこの付近を散策するつもりで岩村振興事務所の駐車場に停めればいいでしょう。公園の中ほどに明治24年に建てられた巖邑城祉碑Aがあり岩村城の歴史が簡略に書かれた看板もあります。ここから岩村城のある山が一望Bできます。
国道257号線を上矢作方面へ向かい「新木の実トンネル」を出て後ろを振り返ると特徴のある山があります。これは矢尽山(787m)Cといいます。この山に陣を張った織田軍が岩村城目掛けて矢玉を昼夜の区別なく撃ちつづけたが城に届かず、矢玉が底をついたのでこの名が付いたと言う事です。トンネルを出て少し行くと右に「旧木の実トンネル」へ行く道があります。この先を進むと路駐できる所がないので道幅が広そうな所に車を停めます。そして旧トンネルへ行く道を少し進むと山へ入る道があります。ここから山道を登り愛宕神社を越えてさらに登ると山頂へ行けますが岩村城方面は見えないということです。
岩村城は近世の遺構が多く残っていますが中世となると大手道だった俄坂から東へ伸びる曲輪群本丸南にある南曲輪、出丸の西にある曲輪になります。この中で表示もあって安心して入って行けるのが南曲輪Dです。二つの堀切Eと三つの曲輪で構成されています。先端の曲輪の前には大堀切があり土橋Fで繋がれています。他に遺構としては徳祥寺の山門Gです。岩村城土岐殿門に使われていたのですが元は鶴ヶ城のもので岩村遠山氏が土岐市と争った時に戦利品として奪って来たそうです。現在徳祥寺は無住で駐車場への道は鎖が張られています。でも路駐スペースがあるので大丈夫です。
◎大将陣【MAP】
【駐車場】なし 岩村振興事務所駐車場利用
【鉄道】明知鉄道「岩村駅」
【バス】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「岩村上町」
◎矢尽山【MAP】
【駐車場】なし
【バス】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「森下」
◎岩村城南曲輪【MAP】
【駐車場】岩村城出丸駐車場
【鉄道】明知鉄道「岩村駅」
【バス】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「岩村上町」
◎徳祥寺【MAP】
【駐車場】なし 路上駐車
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A水晶山【MAP】
矢尽山からの攻撃が無駄に終わったので今度は河尻秀隆の提案で岩村城を見下ろす水晶山に陣を構えそこから城内に火矢を打ち込むことにした。しかし城内には豊富な水源があるのでたちまち放った火は消されてしまった。ここに織田軍は持久戦を余儀なくされた。
秋山虎繁は城内の水には心配はしていなかったが食料だけはどうしようもなかった。そこで武田得意の金掘り衆の出番となる。虎繁は城の南、上村から食料補給するため城外へ抜け穴を掘らせていた。これにより厳重な織田軍の包囲にも関わらず城内には余裕があった。ところが包囲戦も4ヶ月になろうかという頃、その抜け道が発見されてしまった。抜け穴から出た城兵が捕虜となり喋らされたという。城方は輸送に使う牛をその穴に送り込んだところ戻ってきたので穴が見つかったと分かった。ついに飢えとの戦いが始まった。勝頼の援軍はまだ来そうになかった。
この窮状を打開するため城方は水晶山の織田軍の陣に夜襲をかけることにした。これが10月2日という説もある。この夜襲は織田軍の反撃に合いに失敗。追撃された夜襲部隊を城内に収容させようとした城方では織田軍が設置した柵を破壊して追撃軍と戦闘になった。この戦いで信忠が陣頭指揮を執り河尻秀隆・毛利秀頼・浅野左近盛久・猿荻甚太郎の働きで織田軍の勝利となった。追っ手から逃れて山中に逃げた者たちは織田軍の徹底した探索に次々と捕らえられ首を刎ねられた。浅利与三郎義益・遠山五郎友長・沢中左忠太光利・飯妻新五郎・小杉勘兵衛ら大将格21人に籠城兵3千人の内1千1百を失った岩村城では戦意が一気に萎えてしまった。
信忠に岩村城を攻めさせる一方で信長は出陣して越前一向一揆を壊滅させて10月13日から京都で茶会などして寛いでいた。11月7日信長が右近衛大将、信忠が秋田城介、信雄が左近衛権中将に任じられている。11月15日京都に居た信長が突然岐阜城へ戻ってきた。村井貞勝は何事と聞くと「勝頼が木曽義昌に岩村城へ援軍を送るように命じ、自身も間もなく甲府を出発するという情報が入ったので戻って来た」と言った。これは秋山虎繁が流した偽情報だったとも言われる。この後信長が岐阜に留まった説と鶴ヶ城まで出張った説がある。勝頼の再起を警戒してのことか、ここでとどめを刺そうとしたのであろうか。
【探索のヒント】水晶山へのルートは岩村ダムから三森山経由と岩村城出丸からのルートがあり水晶山だけでしたら出丸@から行くのが一般的です。ただ登山口Aは出丸駐車場の下なので車を停めるのでしたら駐車場へ行く直前の右側にあるスペースを利用した方がいいと思います。ここから約1時間20分で山頂Dへ到着です。『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』にはその途中に土塁状や空堀の遺構が随所に見られるとありますが、素人の私には分かりませんでした。でも今までの山城へ行く道と比べると明らかに平坦にならされた個所B道の両側が整備された場所Cが多く目につきました。山頂には2段の削平地があり西側Eには横堀があるそうです。
【駐車場】岩村城出丸駐車場
【鉄道】明知鉄道「岩村駅」
【バス】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「岩村上町」
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D
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B岩村城の人間を成敗
水晶山の戦いの後、日を置かずして秋山虎繁はこれ以上の籠城は城兵に負担をかけるばかりであると判断し、信忠の馬廻衆塚本小大膳を通じて城内の者を救うために降伏を申し出た。信忠がこれを受けいれたので城主秋山虎繁・大島義重・座光寺晴友・下条某と秋山夫人は礼を言うため信忠の陣所へ向かった。ところが彼らは捕縛されて全員逆さ磔にされ槍で刺し殺された。岐阜へ送られてから長良川河畔で磔にされたとも信忠の陣のある丘で処刑されたとも言われる。降伏した秋山夫妻や重臣達にしかも身内である秋山夫人お艶に対してもこのような方法で処刑した理由を秋山夫人が虎繁と独断で和議を結んだ挙句、信長の五男御坊丸を武田に人質に取れてしまった事への罰、長篠合戦で武田の人質だった奥平信能の子供(信昌の弟)が処刑されたことへの仕返しとか言われるがここに面白い本がある。「馬場六太夫」という著者について書かれたものである。この人は著者の夫方の祖先で実は虎繁とお艶の子供で長篠合戦の頃、岩村城から甲斐、伊豆を経由して安芸へ逃れたという。この人のお墓もある。関ヶ原合戦に付随した地方(伊予の国)の戦いで戦死している。信長はこの子供の隠れ場所を聞き出すために秋山夫妻に拷問を加えそれでも口を割らないので処刑、さらに怒りの矛先が生き残った者たちへ向き、皆殺しという結果になったと推測されている。
しかしこれだけでは済まなかった。和議により伊那・甲斐へ戻りたい者は解放することになったと城内に触れが出た。これを信じた女子供は帰国を申し出た。この一行の付き添いに城兵が付けられた。こうして城から出た一行は帰国の途についた。ところが一行が木の実峠に差し掛かるとその前後に織田軍が立ち塞がり全員を斬り殺した。その数2千8百人という。でも一般に岩村城に立て篭もったのは3地といわれその3分の1を水晶山の戦いで失っているのだからこの殺された人数は多すぎるのではないかと思う。
一方城内に残った者に対しても織田軍は虐殺をはじめた。襲い掛かる織田軍から逃げた人々は市丞丸に追い詰められた。逃げ場を失った遠山二郎三郎・同市丞・同三郎四郎・同徳林・同三右衛門・同内膳・同藤蔵らは討って出て奮戦、織田軍に死傷者を出させたが全員討死した。これが『信長公記』にある戦死者だが他に座光寺勘左衛門晴氏・同与一・大島織部義安・串原弥兵衛・久保原内匠が居る。織田軍はまだ避難者が多く居る二の丸に火を放った。二の丸の人々は織田軍の設置した鹿垣に阻まれ逃げる事ができず全員焼け死んだのである。これにより東美濃を地盤とした遠山七家は苗木と明知を除いて没落したのである。
岩村城は川尻秀隆→森氏→田丸具忠→松平氏→丹羽氏と城主を代えた。岩村藩3代目藩主丹羽氏純は岩村城が秋山夫妻とともに処刑された者達や皆殺しにされた者達の怨念が歴代城主に業をなしていると考え妙法寺境内に五仏寺を建立、その者たちの霊を慰めようとした。しかし5代藩主氏音が蕃の財政改革を断行しようと登用した山村瀬兵衛とそれに反発した藩士が対立、反山村派が幕府へ訴え出たがこのゴタゴタで氏音は越後国高柳藩へ減封となった。この後松平乗紀が小諸城から移ってきて明治まで続くがその間に五仏寺は廃されてしまった。
【探索のヒント】本丸には岩村城歴代将士慰霊碑@が建っています。城兵が押し込められた市丞丸の所在は全くわかっていません。処刑された秋山夫妻と大島氏・座光寺氏・下条氏ら5人の首を葬ったのが大将陣公園内にある大将塚Aです。また岩邑小学校の東にある妙法寺Bには、秋山虎繁とお艶を供養のため建てられたまくら塚Cがあります。この妙法寺の山門Dは、岩村城二の丸・赤時門で明治時代に城郭建物払い下げに伴い、移築されたものです。
木の実峠Eへは木の実林道を使います。矢尽山への道の途中で右へ行く道があるのでそこから林道へ出ます。
ところで以前、市丞丸=二の丸という表現をしていましたところ、その根拠はというご指摘を受けましたので教育委員会で問い合わせました。そこで南曲輪と俄門坂以外は全て近世に作りかえられているという答えをいただきました。したがって市丞丸=二の丸Fは正しい表現ではありません。 訂正させていただきます。
明治時代に岩村城は所有する複数の地権者から町に譲られたました。でも二の丸だけは譲られませんでした。それは現在も続いていて発掘調査すらできない状況です。
◎大将塚【MAP】:
【駐車場】なし 岩村振興事務所駐車場利用
【鉄道】明知鉄道「岩村駅」
【バス】恵那市自主運行バス上矢作線「岩村上町」

◎妙法寺【MAP】
【駐車場】あり
【鉄道】明知鉄道「岩村駅」
【バス】恵那市自主運行バス上矢作線「岩村振興事務所前」
◎岩村城二の丸
【MAP】
【駐車場】岩村城出丸駐車場
【鉄道】明知鉄道「岩村駅」
【バス】恵那市自主運行バス上矢作線「岩村上町」
◎木の実峠【MAP】
【駐車場】あり
【バス】恵那市自主運行バス上矢作線「岩村上町」
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