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@苗木城―中津川市苗木 【MAP】
苗木城築城までの歴史には諸説あるが鎌倉時代遠山の庄に土着した加藤景朝が遠山氏を名乗りその跡を継いだ景村が木曽川の北へ進出したのが苗木遠山氏の始まりであることには間違いない。苗木遠山氏は広恵寺城を築き(築城者景村説・一雲入道景利説)そこを拠点に恵那地方の北部を治めていった。各地で戦国大名が現れる室町時代、拠点が広恵寺城から高森山へ移された(一雲道昌利説・直廉説)。これが苗木城である。
苗木城主の直廉は岩村城主景前の次男(三男説あり)で信長の妹を妻とし二人の間に生まれた娘は信長の養女にして1565年武田勝頼に嫁がせた。1572年5月18日直廉はその直前の武田の飛騨攻め(威徳寺合戦?)に参加してその時受けた矢疵がもとで死亡する(病死説あり)。直廉には跡継ぎがいなかったので信長は同じ遠山一族で親信長の飯羽間城遠山友勝を城主に据えた。これが通説である。ところが昭和13年に戸谷貞吉氏が遠山景前には3人の男子−長男景任・次男武景・三男直廉−があったと「明叔語録の苗木城史料」で紹介し、次男武景はそれまで知られていなかったので是非研究対象とすべきと述べられた。
苗木遠山史料館千早保之氏はこれを詳しく調べられた。まず直廉には跡継ぎがいなかった。もし娘がいたのなら唯一の子供でありそれを手放すと言うのは考えられない。するとこの娘は誰の子であるのかと言う疑問が出てくる。ここで武景が重要な人物となる。岩村城主遠山景前の弟で苗木城主苗木正廉(昌利説あり)は跡取として景前の次男武景を養子に迎えた。武景は織田信秀の娘を娶り一女をもうけた。ところが武景は京都からの伊勢湾経由で尾張へ戻る途中、海賊に襲われ死亡してしまう。1552年6月の事である。この葬儀を執り行った大円寺明叔和尚は武景を「檀越遠山氏中子苗木氏武景」と呼んでいる。武景の遺児は母と尾張勝幡に戻り信長の庇護のもと成長した(苗木記)。何かと問題な「武功夜話」にも苗木勘太郎の娘は生駒八右衛門の縁者西尾氏の養女となった。生駒八右衛門はこの娘を勝頼に嫁がせる前に武景の弟で苗木城主となった直廉に自分の娘としてもらいたいと交渉に出かけたとある。この縁談が成立、信長、直廉の姪を中心に武田・織田・苗木の姻戚関係ができた。その娘が勝頼の嫡男信勝を生んだ直後に死亡。信長は次なる対武田戦略のため嫡男信忠に信玄の娘お松を許婚として求めた。
本来岩村城と共に武田方だった苗木城に遠山友勝(友忠説あり)を入れたことで恵那の一角を手に入れた信長だったがそうは簡単に事は進まなかった。天正2年春ごろ高齢だった友勝が死亡し友忠が城主となった直後、苗木城の昔からの家臣が次々と自領へ勝手に戻り始めた。そして8月苗木遠山氏の発祥の地ともいえる福岡村で郷士である曽我与三右衛門・与左衛門父子が暴動を起こした。これをきっかけに領内のあちこちで反旗を翻すものが現れた。これは苗木城が武田方から織田方へ方向転換したことに反発するものである。友忠は手勢と坂下村の家人合わせて2、3百を引き連れ夜中に曽我の館に火をかけた。曽我父子はすぐに降伏。今度は曽我父子を先陣に付知村の友忠の一族遠山玄蕃・備後父子を攻めた。これを降すとその日の内に加子母村の大島與十郎屋敷へ向かうがすでに逃亡したあとだった。次に白川村野原の安江三内へ使者を送り住居から退去させた。赤河村の纐纈(こうけつ)次左衛門、蛭川村曽我孝慶、沖之方村山内治部も降参た。
【探索のヒント】中央自動車道「中津川IC」から国道19号・257号線に入り木曽福島方面へ向かいます。高速を下りて少し行くと左へ分かれる国道257号線へ入り「青木交差点」を左折して道なりに進みます。有料の「中津川道路(200円)」を使うのが最も早いルートです。でもこの距離にしてこの値段はどう見ても高いと思われる方、ウィキベディアによると平成21年10月10日から無料になるとありました。でも管理する岐阜県道路公社のHPには触れられていません。で、こんな道通りたくないと言う方は有料道路の手前に左へ入る道があります。この道から県道410号へ入り木曽川を渡って少し行くと右に向かって広い道がある交差点へ出ます。はじめ広く途中で狭くなりまが苗木城へ行く道へ国道257号を横切って行けます。苗木城はこの道を進み苗木遠山史料館を通り越した十字路を右折して坂を登っていくと駐車場が左側にあります。でも史料館で案内図や資料をもらい復元した苗木城のジオラマを見てからいかれた方がより楽しめると思います。
この城の特徴は江戸時代に描かれた絵図にもあるいくつもある巨岩を巧みに利用した石垣群です。でも武田と織田の争奪戦時代には石垣は無かったそうです。それは本丸北の最古の石垣の背後の岩盤に柱穴が発見されたことから石垣を築く前に建物があったと分かったからです。石垣は遠山友政が小牧長久手の戦いでこの地を去り関ヶ原合戦後復帰してから後に作られていきました。「史跡苗木城 石垣修理報告書」によると1718年享保の大地震で18箇所の石垣が崩れ5年かけ修復されたのですが、それ以前の
「A〜C」3タイプ、それ以降「D〜F]3タイプの計6タイプの石積み形態があるということです。風吹門@手前の石垣は左側は「C.打込石整層積み」右側は「D.切込石整層積み」御朱印蔵B石垣は「F.谷積み」本丸北側石垣D向かって右側は「A.野面石乱層積み」「B.打込石乱層積み」「切込石整層積み」の複合型、さらに奥へ行った巨石Fの右側は左側が「A.野面石乱層積み」、「E.ノミ切り加工整合積み」馬洗い岩から天守台への石垣E「D.切込石整層積み」といった具合です。天守台Gは南への視界が広がり阿寺城・千旦林城が一望Hできます。展望台Iはかつてあった3階建ての天守のために巨石に施された柱穴を利用しています。
城の入口には竹で作られた扉の竹門が2ヶ所ありました。史料館から
来た道Kを曲がった所と城の東側、木曽川沿いの舗装道路から「四十八曲がり」と呼ばれる山道を登った所Lです。史料館から来た道は風吹門@から「四十八曲がり」からの道は駈門から三の丸へ入ります。ここで最も目を引くのが大矢倉Aです。ただこれは江戸時代に入ってからのものです。なお三の丸は堀切だったのでではないかという説もあります。ここから山頂まで非常に整備され歩きやすくなっています。一度では味わいきれない城です。
【駐車場】苗木遠山史料館駐車場 入口そばに無料駐車場
【最寄りのバス停】北恵那交通市民病院線「苗木城」
 
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A岩村城―恵那市岩村町城山 【MAP】
1555年(弘治元)11月に武田家の傘下に入った遠山景前だったが翌年死去。その居城岩村城は嫡男景任に引き継がれた。この景任に嫁いだのがのちに女城主と呼ばれた信長の叔母おつやの方である。だが「巖邑府誌」はこの通説に疑問を投げかけている。景任の死亡年齢は36歳とも言われる。つまり信長と同世代である。となると信長の叔母ならこの時すでに50歳を過ぎているので政略結婚としてはちょっと腑に落ちないのが理由である。ではこの叔母説の出所はとなると「美濃諸旧記」が載せている信忠がおつやの方を長良川で磔にした時の事である。おつやの方は処刑される時、「我はお前の叔母であるぞ!」と叫んだとある。この「お前」は本来信忠を指すのに誤って信長に(信長の残虐性を挙げるのに好都合な例として)置き換わったのが真実らしい。「美濃明細記」にも「遠山内匠(景任)は信長の妹婿なり」とある。ここで苗木遠山史料館の千早保之氏の論文を紹介すると信秀存命の頃、苗木城主遠山武景に信秀の娘(信長の妹)が嫁ついだのは事実である。しかしその兄である景任にまで娘を与える必要があったのかという疑問を投げかけておられる。むしろ景任の後妻と考える方が自然ではないかと言う意見である。
信玄は本隊を率いて三河から秋山虎繁には東美濃から織田領へ進入する計画を立てた。ここで問題なのが東美濃にかなり信長の影響が浸透してきている事であった。苗木城には親信長の飯羽間城遠山友勝がすでに入り、もう一つの拠点岩村城の景任は病床に臥していて、いざと言う時はその養子である信長の五男御坊丸が織田信広・河尻秀隆の後見の元、跡を継ぎそうな気配であった。7月虎繁は岩村城を武田方に引き戻すため出陣した。果たして虎繁軍の岩村城包囲中なのかその前なのか8月14日景任が死亡した。手筈通り御坊丸が家督を継ぎ東美濃は完全に信長陣営に入った。これは上杉謙信が河田重親に宛てた手紙に書かれている。堅城岩村城を攻めるとあっては虎繁とはいえそう簡単に城を落とせるわけもない。そうこうしているうちに10月3日信玄が甲府を出発した。無理に城攻めをすれば犠牲者がでて信玄の西上戦に齟齬が出てしまうので虎繁は和議による開城を目指した。
「もし城兵に和睦の意思があれば、今我は妻がいないので亡き景任殿の妻を娶り御坊丸を一緒に養育しても良いと考えている」と言う使者を送った。この頃信長は小谷城攻めに主力を投入し援軍を差し向ける余裕が無かった。信広も秀隆もいつまでも篭城している訳には行かないのは分かっていた。11月14日ついに開城を決めた。ここで奇妙な事態になる。秋山軍が入城したが織田軍はそのまま在城、当然遠山衆もそのままである。つまり敵対する二軍と中立軍が一つの城に駐留すると言う微妙なバランスの元、城の運営が開始された。
【探索のヒント】見所満載の岩村城なので「上村合戦」「岩村城奪還」でも紹介しています。岩村城はそのほとんどの遺構が近世に手が加えられたものが残っているのですが一の門@の坂を登り切った正面の石垣Aは中世のものです。ここを過ぎてからが岩村城の見所です。一の門から土岐門の城域と本丸のある城域を分断するため巨大な空堀が設けられています。この空堀を渡るため畳橋と言う板橋がありました。敵が攻めてきた時にこれを外し敵の本丸侵入を阻止しました。畳橋を過ぎると岩村城第三の門追手門Bです。追手門脇には三重櫓がありました。この先菱櫓Cまでは「上村合戦」で紹介した八幡曲輪や霧ヶ井があります。菱櫓は二の丸の東側にありました。地形に沿って石垣を積んだのでカクカクした石垣になっています。そのためその上の櫓は「くの字」をしていました。そしていよいよ本丸突入です。本丸へは北側の二の丸と本丸東側の東曲輪から入る事ができました。ここでは東曲輪側のルートを紹介します。東曲輪は水晶山方面に対する備えでした。その虎口Dの左側に二重櫓がありました。本丸には天守は無く、二重櫓・多聞櫓がそれぞれ2基石垣の上にありました。
【駐車場】岩村歴史資料館駐車場または出丸駐車場
【最寄りの駅】明知鉄道「岩村駅」
【最寄りのバス停】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「岩村上町」
 
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B大円寺―恵那市岩村町富田 【MAP】
木曽川北岸を領有する苗木遠山の菩提寺が広恵寺であるに対し恵那地方の遠山氏の菩提寺は大円寺であった。臨済宗の高僧峰翁祖一により開祖され時の岩村城主遠山三郎が遠山一族の総力を結集して建立した。そして常時100余の修行僧のいる大寺院となった。やがて大円寺を中心に門前町ができ岩村城の俄坂を下るとこの門前町へ行けたので近世より前はここが城下町だとする説もある。1721年の蕃の記録には15ha(甲子園球場約12個分)が大円寺の敷地だった。
そんな隆盛を誇った大円寺だったが一時衰退してしまった。それを再興したのが遠山景前である。天文3年6月景前は甲斐恵林寺を再興した名僧明叔慶春を呼ぶことに成功し再び大円寺は勢いを取り戻した。ちなみに明叔は飛騨南半国を治めた戦国大名三木直頼の兄である。
明叔が御嵩の愚渓寺に去ったあとの天文12、3年ごろ希菴禅師が住職となった。希菴は快川紹喜と共に臨済二大徳と言われた高僧で京都妙心寺で管長職を5度務めた他恵林寺の住職にもなっている。信玄の母大井氏の13回忌法要は信玄の願いにより希菴により営まれた。妙心寺に戻った希菴に大円寺住職の依頼が来た。実は以前にも大円寺の住職をしている。希菴はこれを受け入れ再び住職なった。そこへ信玄から恵林寺へ戻って欲しいという依頼が何度も来た。しかし希菴はこれを断固拒否した。これを恨んだ信玄は秋山虎繁に大円寺の焼き討ちと希菴の殺害を命じた。岩村城開城から約2週間後の11月26日、希菴は共の者と寺から逃亡した。これを知った虎繁は刺客を3人送った。彼らは希菴一行に追付き飯羽間川にかかる橋の上で全員を殺害した。ところが半月待たない内に三人は気が狂ったり、狂った馬から落馬して命を落とした。それに留まらずその5ヵ月後、信玄が死亡している。一説には信玄の重病を知った希菴の口封じが目的とも言われる。殺害された希菴らは村人達によって付近に葬られた。
【探索のヒント】希庵禅師が逃亡途中に殺害されたとされる希庵橋Bは飯羽間城へ行く途中にあります。国道257号線から県道406号久保原阿木線へ入ります。一旦道が細くなって再び片側一車線の広い道へ出て道がやや右へカーブする手前の左側のこんもり木が茂ったところが希庵橋です。希庵橋から県道を反対側へ渡り、左へ向かう道を進みます。この道は希庵橋を含め東海自然歩道になります。間もなく左に村人が希庵の亡骸を葬った希庵塚Cの説明板を見つけます。その反対側の一段を登ると碑と慰霊塔があります。このそばの道は広い目になっているので路上駐車しても大丈夫です。
希庵橋:【MAP】 希庵塚:【MAP】 【駐車場】路上駐車
【最寄りの駅】明智鉄道「岩村駅」
【最寄りのバス停】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「駅前」

 

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