| 経過 |
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| 永禄10年(1567)織田信長が美濃を手に入れると武田信玄の領国と国境を接することになった。その境目である東美濃は鎌倉時代より遠山一族が支配していた。弘治元年(1555)9月信玄が遠山一族の本拠岩村城@を攻めると11月には城主遠山景前は降服、以降武田方となっていた。弘治2年(1556)遠山景前が死去すると嫡男景任がその後を継ぎ、苗木城主苗木正廉の養子だった弟苗木武景と共に遠山一族を束ねることとなった。しかしその遠山一族の中で飯羽間城の遠山友勝や明知城遠山景行は信長に接近していた。 元亀元年(1570)暮今川領攻め以来敵対する三河を目指し飯田城主秋山虎繁(信友)が2千5百の兵を率いて南下を開始した。これに対し徳川家康側は山家三方衆・三河衆、家康と同盟する織田方は明知城遠山景行を総大将に飯羽間城遠山友勝、千旦林城吉村源蔵、串原城A遠山右馬助・五郎経景、小里城B遠山内記光次、高山城C平井宮内少輔光行、阿木城D遠山某合せて5千が備えた。秋山軍は部隊を3つに分け本隊は根羽から大桑峠を越えて小笹原へ、残りの二隊は平谷から飯田洞と小田子から漆原を目指した。景行はそれぞれの進路にある明照砦E・前田砦F・阿寺砦Gに兵を入れ自身は岩井戸城Hで指揮を執ることにした。12月28日東美濃の隘峡の地で遠山軍・三河軍と秋山軍が激突するI事となる。数の上で有利だった連合軍だったが鍛えられた秋山軍により大将の景行の他多くの武将を失い大敗したJ。 |
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