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@岩村城八幡曲輪―恵那市岩村町城山【MAP】
平安末期、伊勢の武士だった加藤景員は平家の武士を斬り殺したためで伊勢を離れ伊豆の豪族工藤氏のもとに身を寄せていた。1180年源頼朝が平家に対し挙兵すると息子たちと一緒にそれに加わった。その次男景廉は鎌倉幕府創生期に活躍、頼朝に目を掛けられるがその死後失脚。しかし比企の乱で活躍した仁田忠常を北条義時の命で暗殺、和田義盛の反乱にも幕府方として参戦、武功を挙げて幕府中枢に返り咲いた。
そうした経歴ある景廉が遠山荘の地頭となったのは1185年の事である。しかし本人は赴任せずのちに嫡男景朝が岩村領家に屋敷を作りると遠山氏を称しその東にある山に砦を築いた。これが岩村城の始まりである。遠山氏の発展と共に城の規模も大きくなり本丸・二の丸を中心に山の峰々に曲輪が設けられた。恵那の西、土岐郡には土岐氏があり遠山氏と競い合った。やがて土岐氏が守護から守護大名となり西美濃へ本拠を移すと遠山氏はその被官として東美濃を支配するようになった。広大な東美濃を治めるのに遠山氏は岩村城を本城とし苗木城・明知城(以上三遠山)・串原城・飯羽間城・阿寺城・阿木城(以上遠山七頭)を拠点しに一族を配した。
大きな戦乱が無かった東美濃にも戦国乱世の波が押し寄せてきた。武田信玄の登場である。その時の遠山氏の総帥が遠山景前である。景前は木曽氏と共に信玄に従い飛騨の三木自綱を攻めたりした(1556年威徳寺合戦、異説あり)。
【探索のヒント】岩村城は恵那の観光地として有名です。城の西側には城下町の風情漂う店が並んでいますがここが城下町となったのは江戸時代のことです。中央自動車道「恵那IC」から約20分という事です。私は途中寄り道をしていたのでかなり時間がかかりました。恵那方面から国道257号線を南下、上矢作方面へ進みます。国道363号線と合流する「一式交差点」の次の「裏山交差点」を左折、すぐ次の信号のある「本町交差点」を右折します。この道の両側に店が並んでいます。二つ目の角を左折、突き当りは恵那南高校でここを右折します。道なりに少し進むと急に道幅が広くなっているのでそこを右に入ると岩村城歴史資料館の駐車場です。ここから岩村城本丸までゆっくり歩いて30〜40分です。
岩村遠山氏の祖加藤景廉を配神として祀るのが
八幡曲輪@にある城内八幡宮Aで明知・苗木の遠山家は毎年参拝に訪れていました。また歴代の城主も城内鎮守の神として崇敬していました。社殿のそばには城の北側の監視用に二重櫓がありました。なお社殿は八幡神社に移されています。
八幡曲輪には岩村城の別名霧ヶ城の由来となった
霧ヶ井Bがあります。敵が城を急襲した時、この井戸に秘蔵の蛇骨を投げ入れると霧が立ち込め城を包み隠したという伝説です。伊那の大島城にも同じ様な話があります。
現在立ち入り禁止となっていますが八幡曲輪を南へ降りた所に二層櫓を備えた
俄坂門Cがありました。この道は搦手で中世の曲輪を通り遠山氏の菩提寺大円寺へ行く事ができました。資料館の説明では中世の城下はこちら側にあったそうです。
本当の意味での遠山氏と岩村城の祖である景朝を祀った武並神社は飯羽間城近くの
武並山上Dにありましたが大正4年現在の一色天王山Eへ移されました。1631年岩村藩主松平乗寿がそれまでの小さな祠を壮大な社殿に建て替え現在も続く岩村町秋祭りを創設しました。それは10月第一土日に行われる渡御・還御で町人の氏神景朝が武並神社から神輿に乗って八幡神社の武士の神景廉の元へ行って父子水入らずで一夜を過ごし翌日武並神社へ戻るというものです。
【駐車場】岩村歴史資料館駐車場または出丸駐車場
【最寄りの駅】明知鉄道「岩村駅」
【最寄りのバス停】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「岩村上町」
 


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A串原城―恵那市串原柿原 落合山砦―恵那市明智町落合
 
遠山右馬助景家が城主であった。この戦いで戦死する。その子経景が跡を継ぐが4年後勝頼の東美濃侵攻を受けて戦死する。串原遠山氏は串原は勿論上村、下村を領有していた。従って上村で武田軍を迎え撃つのは串原氏にとっては当然の役割であった。城は「ショウガネ」と呼ばれる山の頂を平坦にしただけの単郭式のものである。50メートル四方の山頂曲輪の周囲には土塁が設けられている。西と東に虎口があり東の方は櫓台と堀切の跡が確認できる。

 先に戦死したと書いた経景であるが「明知年譜」には天正元年以来、明知城の遠山利景の許へ身を寄せたとある。利景は明知城の支城落合山砦(千畳敷砦)を経景に守らせた。落合山砦は明智城を築城した遠山景重が城下を通る南北街道・中馬街道を監視するために設けたものである。利景を助け明智遠山氏の発展に寄与した経景は明智の西、吉良見村・橋爪村5百石を与えられ落合砦に居を構えた。そして元和9年(1623)9月19日隠棲先の吉良見村で死去した。現在吉良見には経景を祀る八幡神社と埋葬地ではないかといわれる五輪塔がある。
【探索のヒント】自力では不可能なので「串原振興事務所」でこの土地に詳しい人を紹介してもらいその方と一緒に登りました。昔は松茸がいたるところに生えていて良く採りに行ったそうですが今ではもうないそうです。勿論道はなく急斜面をその方について生えてる木や竹に掴まりながら登っていきました。ただ薮漕ぎのようなひどい状態ではないのでまだ登りやすいとは思います。山頂も木々が密集していないので地形は非常に分かりやすいです。ただ周辺の視界は利かないのが残念でした。山の登りはじめにイノシシ用の罠があり、イノシシ・シカは出るそうです。熊も出るそうですがその方は見た事がないと言っておられました。
 落合山砦は「明智振興事務所」の南にある標高504メートルの二つの頂を持つ山上@にありました。千畳敷公園として整備された現在もその遺構は残っており、北と南の頂に曲輪があり南の方がやや高い位置にあるので主曲輪ではないかと推測されています。車で行っても駐車場完備なので安心です。徒歩コースとして「近道コース」と「楽々コース」があり
北の曲輪Aに直接行けます。ここからは明知城と明智の町が一望Bできるので「パノラマ広場」と言います。西側に帯状の曲輪が残っています。ここから下る舗装道路の左側には尾根を利用して南の曲輪と繋がる曲輪Cがあります。南の曲輪Dはこの曲輪のほか北東と南東に曲輪Eがあり今では木々が茂っていて見えませんが北の街道を見下ろすようになっています。
さて串原経景の埋葬地ではないかといわれているのが
吉良見殿垣内の五輪塔Fです。殿垣内とは殿様に関係する区域を指しその外側に殿垣外があります。経景の火葬地のそばなのでこうした推測がなされていますが史料はありません。この五輪塔は恵那市の史跡MAPには載っているのですが地元の人しか知らないみたいです。幸い明智振興事務所の遠山様がこの場所を知っていて案内してくれました。明智の「新町交差点」から国道363号線を西へ向かいます。右側に「吉良見郵便局」がある丁字路を左へ入ります。目標は「中部電力明智変電所」で山の裾の方に五輪塔があります。ただこの辺は道が狭く路駐できないので車の場合、どこか広めの所を探して徒歩での行動をお勧めします。
●串原城【MAP】:【駐車場】なし 【最寄りのバス停】東鉄バス恵那市自主運行バス串原線「柿畑」
●落合山砦
【MAP】:【駐車場】千畳敷公園駐車場 【最寄りの駅】明知鉄道「明智駅」
               【最寄りのバス停】恵那市自主運行バス串原線「明智振興事務所前」

●殿垣内の五輪塔【MAP】:【駐車場】なし 【最寄りのバス停】恵那市バス明智線「吉良見」
 
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B小里城―瑞浪市稲津町小里【MAP】
土岐一族の小里出羽守光忠が1534年(天文3)に小里城を築城した。稲津町小里には「小里城」が三か所あり「小里古城」「小里新城」と「小里城」である。上村合戦では光忠と嫡男光次が戦死したため次男の光明が家督を継いだ。
1574年武田勝頼に攻められた明知城を救援しようと出陣してきた信長だったが明知城が落城したため、その監視のため小里城に池田恒興を残した。この時、小里光明と池田恒興の関係がどうであったかは不明である。信長はすぐに小里城の改修を命じた。しかし翌年の長篠設楽原合戦での武田軍の大敗直後、織田信忠による武田方の岩村城奪回作戦が実施され年末には東美濃から武田勢が一掃されたため、小里城の改修工事は必要なくなり一の木戸の石垣や本丸の石垣工事も放棄されてしまった。なお、岩村攻めの時、信忠がここに本陣を置いて30日ほどかけて天守台を築いたという記録がある。
東美濃を統治した森長可は武田氏が滅んだ後、信濃・越後の要衝海津城を守っていたが本能寺の変により本拠地へ戻ってきた。しかし小里光明は長可に従わず家康を頼り小里城を去った。その後家康のもと各地で転戦し、関ヶ原合戦の時息子とともに小里城に戻り東軍の一員として戦った。1623年光明の孫光重が没すると小里家嫡流は断絶、城も廃城となった。
【探索のヒント】県道20号瑞浪大野瀬線から県道33号瑞浪上矢作線が分かれる「下川折交差点」の少し西に小里城の入口@があります。専用駐車場が県道を挟んだ向かい側にあります。入口を入るとすぐに石垣Aがお出迎えです。鬱蒼とした林の中を抜け空が見えたところに大手門跡と石垣と「マムシ注意」の立看Bが目に飛び込んできます。このあと「マムシ注意」の立看は頻繁に見かけることになります。大手門を過ぎ道が左へ曲がった正面に御殿場跡Cがあります。ここは関ヶ原合戦後、旧領に戻ってきた小里氏の居館跡です。昔からあった曲輪跡を造成して石垣を積み直し、南北30メートル東西40メートルの三つの曲輪からなる構造です。ここを過ぎると特に見所も無く20分かけて山頂へ到着です。山頂直下に石垣があります。そこを越えると「天守台」「升形」と呼ばれる立派な櫓台Dがあります。内部には祠Eがあり、古図によれば6間(10メートルちょっと)四方あるそうですが下草が多くて分かりませんでした。この天守台は石垣に囲まれた不等辺多角形であるため安土城の天守台を思い起こさせます。
天守台の東側が二の曲輪でここから反時計回りに低くなってゆきます。この付近が小里城名物の
石垣の散乱地帯Fです。石垣の散乱は山頂東側にある曲輪群にまで及んでいます。また散乱している石垣には矢穴の開いているものGがあります。
この石垣の散乱は工事途中で放棄された為であるとする説もありますが、調査された高田徹氏は廃城後石切り場として利用された可能性があるとしています。また、矢穴の開いた石ですがこういった石が城郭建築に使われるのは文禄・慶長以降であるからやはり天正3年の工事中断の残骸とは断定できないとされています。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】東鉄バス明智線「山の田」
 
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C高山城―土岐市土岐津町高山【MAP】
高山城の築城に関しては諸説あり判然としない。まず城主として名前が挙がっているのが土岐明智氏に属した高山伊賀守光俊である。
1552年斎藤道三と土岐頼芸の対立が美濃全土に広がった。これが東美濃を治めていた土岐明智家の内紛も引き起こした。当主明智定明が弟の明智定衡に殺害されたのである。明智家の混乱に乗じた御嵩城小栗信濃守は同年跡継ぎが無いまま死んだ光俊の高山城を手に入れるため兵を動かした。高山城に隣接する肥田村の肥田民部はこれを察知して岩村城遠山景前に連絡した。景前はすぐに武田晴信に通報、援軍を求めた。武田方からは平井光行・後藤庄助が派遣された。両名を大将として明知城主遠山景行・同三郎兵衛・同左衛門佐、小里城主光忠・その子内作・同助左衛門・同右衛門太郎が出陣した。
小栗信濃守の1千が土岐川の北岸大富に布陣すると連合軍は南岸の浅野まで進出した。先手必勝とばかり、小栗軍は川を渡って攻めてきた。連合軍も迎撃するが後藤庄助が腿の上の方を切られ討死、これに勢いづいた小栗軍は高山城まで攻めてきた。この危機に小里親子、遠山景行に率いられた30余騎が鑓を奮って反撃、重臣を討取られた小里軍は撤退を開始した。だが連合軍の追撃は続いた。このため、小里信濃守と被官であった小原城主小倉織部は降伏、武田軍の配下となった。高山城には目付として平井光行が入った。
以上は「小里記」にある記録である。だが、遠山一族が武田配下となるのは1554年のことで、さらに岩村の大円寺住職希庵玄密が美濃が武田の支配するところとなったら保護を頼むと甲斐にある縁の寺に書状を送っているのが1556年正月である。このことから「御嵩町史」では高山城攻め自体は1555年以降のことではないかとしている。
この後、信長が土岐までを支配すると光行の跡を継いだ頼母光村は金山城主森長可の与力として高山城を守った。関ヶ原合戦の時、岩村城主田丸直昌の支城となっていた高山城は妻木城主妻木頼忠によって再び落城している。
ちなみに「土岐市史」「瑞浪市史」には高山城が遠山18城の一つとして上げられている
が、小里城に池田恒興が配置されたことを考えると武田家の勢力は明知城までだったと考えるべきであろう。
【探索のヒント】標高183メートルの土岐市を一望できる通称「城山」@の先端部分に高山城はありました。国道19号線と国道21号線が交差する「大富交差点」から南へ下り「浅野朝日町交差点」で県道69号土岐市停車場細野線を西へ向かいます。「高山交差点」で左折、そのまま道なりに進み左に高山区民会館のある十字路を左折、突き当たりを左折して再び道なりに進みます。しばらく行くと左に「高山霊園」「高山城跡」の小さな案内板があるのでそれに従い、左へ大きく曲がって坂を登って行きます。すると正面に霊園の大きな看板と左の舗装道路が高山城跡へ行く事を示す手書きの看板があります。私は霊園の駐車場に車を停めましたが細い道をそのまま進んでも十分駐車するスペースはあります。
正面の
一段高くなっている配水池Aが城跡です。立入禁止だと思ったらフェンスの扉も開いていてベンチも設置された「展望台」Bでした。ここから北の祠Cがある崖までが一の曲輪です。約90メートルあります。一の曲輪西側の一段低い崖までの平坦地が二の曲輪Dですが下草が茂って危ないので先へ進みませんでした。一・二の曲輪合わせて幅は約30メートルありました。展望台の南側には堀切があったと記録されています。その南が三の丸Eです。
城山の東には古城山稲と穴弘法があります。バス利用の方は「高山バス停」で降りてここから山道を使って5分ほどで城跡へ行けます。車を停めるスペースもあります。
【駐車場】駐車スペースあり 【最寄りの駅】JR中央本線「土岐市駅」
【最寄りのバス停】東鉄路線バス駄知線「高山」
 
@A
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D阿木城―中津川市阿木【MAP】
阿木城の正確な歴史は分かっていない。岩村城の支城であることと遠山一族が城主だったことは確かである。阿木遠山氏は1330年代岩村城主遠山景長のとき分家し阿木城を築いたとする資料がある。「恵那業書」には遠山景員の次男景賢を祖としてその子孫が代々城主となるが廃城の時期は不明とする。時代は不明だが大藤権允が阿木城を守っていて岩村城と戦ったという話もある。「甲陽軍艦」に堀田の砦と記されているのは阿木城のことである。この堀田とは阿木地区を治めていた堀田土井守を指し見沢にも屋敷があったので見沢殿とも呼ばれた。ただ戸田甚左衛門なる人物も城主とされている。
堀田土井守が生活した屋敷は阿木八幡神社を真っ直ぐ南へ下り阿木川を渡った所にあった。川のそばには馬を洗った場所という事で乗馬淵と名づけられた所もある。緊急時には現在の阿木高校付近にあった曲輪に立て篭もり、八幡神社を登った所にあった櫓から監視をした。そして阿木城は詰城として機能した。
【探索のヒント】まず目標は明智鉄道「阿木駅」です。駅構内に阿木城の縄張り図@があります。駅前には駐車スペースがあるので八幡神社へ行くのに利用しました。駅の前の道を右へ進むとカーブミラーがあるのでそこを左(山の方)へ行きます。急な坂を登り切った所が八幡神社で右の脇道から山へ入って行けます。ここは一般的なルートではないのですが西側にある曲輪へ辿り着けます。一般的なルートへは車を使って行く事ができます。阿木駅前の道をさっきと同じで右へ進みます。左に農機具を扱うお店とコイン精米機が数台置いてある間の道を山へ向かいます。突き当りを右折すると右に墓地が見えてきます。その先に駐車スペースがありその向かい側に城跡への登り口があります。ちなみにこの道を進むと右に「井戸作り」という地名から分かるとおり城の水源があります。
中津川市の指定文化財として木も伐採されて道も歩きやすく整備されています。道が左へ大きく曲がって右へ曲が地点が城の南側の曲輪です。この曲輪を抜け分かりやすい道を進むと広い
二の曲輪Aに到着です。これは見応えがあります。左の切岸が本丸です。二の曲輪を北へ少し行くと右側の谷に木々の間に曲輪Bを確認できます。本丸Cは45メートル四方で土塁はありません。本丸の北側が虎口でとなります。二の曲輪の手前の腰曲輪から本丸下の帯曲輪、西へ張り出した曲輪へ行く事ができます。この日は岩村城から串原城ヘ行く予定にしていたので簡単な探索で終わりましたが駅にある縄張り図を参考に時間を掛けて回ればかなり面白い城跡だと思います。
【駐車場】阿木駅前または城への登り口に駐車可能
【最寄りの駅】明智鉄道「阿木駅」
 
E明照城―恵那市上矢作町飯田洞兼定【MAP】
明照城は平谷村から飯田洞川沿いに攻めてくる敵に備えていた。ここを守るのは2百から3百の兵だった。秋山軍もほぼ同数の兵力だったと考えられる。遠山軍は地の利を活かし街道が大きく左へ曲がる宇連の山中に伏兵を忍ばせた。秋山軍の先陣は浪合の領主原胤光・胤秋父子だった。そこを目掛け遠山軍が山を下ってきた。これが上村合戦の緒戦と言われる。奇襲を受けた原父子は戦死した。この勢いのまま秋山軍を攻めようとした遠山軍だったが却って甲州軍の闘争本能に火が付いた。原父子の弔い合戦だとばかり後続の秋山隊が猛攻撃を仕掛けて来た。自力に勝る秋山軍に一旦怯んだ遠山軍の勝機は無くなった。急いで退却する遠山軍だったが明照城までの3キロで多数の兵が討取られた。さらに城へ逃げ込んでも秋山軍の攻撃は止まなかった。城兵は再起を図って城を抜け出し本陣のある岩井戸城へ向かった。
「あてら」の名の城が遠山氏の領地に3つある。阿寺(手賀野と上矢作)、明照である。「中津川市史」は手賀野と上村、「巖邑府誌」は手賀野と上矢作とする。
砦のそばに「長刀様」という神様が祀られいる。落武者が長刀を松に立てかけ自刃した場所であるとか合戦当時、捨てられていた長刀を埋めた場所とか言われている。同じ場所には「山の神」も祀られている。
【探索のヒント】恵那から愛知県豊田市へ通じる国道257号線の「道の駅上矢作」を約3キロ南へ行くと長野県平谷へ行く国道418号線への分岐点があります。ここを左折して「上矢作病院入口」前を過ぎると道が分岐しています。左の道をひたすら進むと飯田洞川を挟んで右の山に発電所の送水管があります。その左の山に城がありました。堀や土塁の跡は残っているそうです。墓地から斜面を這い上がっていくそうで今回はパスしました。地名から兼定砦とも言われます。兼定はこの地で刀を鍛えた刀匠兼定に由来しているとか砦を守った武将の名に因んでいるとか言われています。またこの付近は「阿寺」といいます。だから「明照砦」ではなく「阿寺砦」の方が正しいと指摘されている方も居ます。
【駐車場】なし
 
@A
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F前田砦―恵那市上矢作町本郷【MAP】
「ぜんだ」と読む。遠山景行の家臣で門野高助・磯之助・角八兄弟である。1千の兵で守っていた。秋山本隊は根羽村方面から
大桑峠を越え平谷街道から来たもう一帯と合流@前田砦を目指したA。平谷街道と言うのは比較的新しい街道でこの当時は断崖の渓谷沿いに人一人が通れるような細い道が通っているだけだった。従って行軍となると中馬街道の脇道として昔から整備されていた大桑峠越えの道を使うのがベストだった。ちなみに信長が甲斐攻めに利用したのもこの道である。
遠山軍は前田城で秋山軍を喰い止めている間に岩井戸城の本隊がその側面を突く作戦を立てた。前田城の攻撃は明照城攻撃とほぼ同時だった。この時点ですでに明照城落城は時間の問題だった。前田城は飯田洞川と上村川に挟まれた山地に築かれているのでどうにか敵と対等に戦っていた。しかし背後を守っていた明照城陥落しそのまま秋山軍が南下して来るとの知らせが届くと城兵は動揺し城を捨てて岩井戸城へ逃亡を開始した。門野兄弟も何とか城を脱出、岩井戸城へ入る事ができた。その一方で山中に逃げ込むが負傷して自刃する者、秋山軍に討取られる者もあった。
前田城での逸話として門野兄弟は岩井戸城へ逃れずにこの城で踏みとどまり岩井戸城が落城したあとも秋山軍の攻撃に抵抗していた。包囲する秋山軍は城の水の手を断った。これに対し門野兄弟は水の手を断たれても城内には水がたっぷりあるように見せかけるため軍馬を敵から見える所に引き出して白米を馬にかけて洗うふりをした。白米は遠くから見ると水のように見えるのである。

前田砦はその遺構の規模からこの戦いのために臨時に作られたとは考えられていない。戦国時代、平谷や根羽から西へ向かうには大桑峠を越えて上村へ入り明智へ抜けるか仲馬街道を小田子から南へ向かうのが一般的だった。武田と織田が対立するこの時期このルートを監視するのは遠山氏にとって重要なことであった。そのため前田砦は早くから常駐の兵を置いていたと考えるのが普通である。また落城の折、城兵の妻女が上村川に身を投げたという伝説があることからも一時的な砦とは考えられていない。
【探索のヒント】上村合戦の城跡では最も遺構が残っているのがこの砦です。国道257号線から国道418号に入り分岐点を右へ行きます。「JAひがしみの上村」の東側に大船神社への参道があります。その途中に前田砦があります。駐車場はありませんが運がよければJAの前に数台の駐車スペースがあります。鳥居をくぐると道が左右に分かれています。この正面が砦です。前田砦は南を流れる上村川と北から西に流れるの飯田洞川に挟まれた大船山の南西の端に山の形状に沿って曲輪を配置された連郭式縄張りです。左の道は砦の北側の遺構を見学できます。下草や樹木が茂っていますが空堀と土塁Bは確認できます。分岐の右側から主郭へ行く事ができます。左手に曲輪が並んでいるCのですがそれぞれが堀切Dによって区画されています。遺構の東端は空堀がありそれが北側で確認できた空堀に繋がっています。この空堀の西側に3メートルほどの土塁Eがそびえています。主郭の櫓跡と推定されます。ここをよじ登ると西へ向かって平坦に均された曲輪Fが分かります。この曲輪の西には堀切で分断されたもう一つの曲輪Gがあります。妻女が身を投げた墓が淵Hは山を下りてきて上村川の反対側になりますが平成12年9月11日に発生した恵那豪雨による上村川の氾濫で昔の面影は失われました。
【駐車場】JA前に数台分
【最寄りのバス停】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「中島」
 
@A
G阿寺城―恵那市上矢作町漆原【MAP】
阿寺城には遠山友勝(または友忠)が守っていた。明け方に始まった明照城・前田城・岩井戸城での戦いが終了したのは夕暮れ近くなっていた。真冬なので日暮れも早く3城を落した秋山軍は松明を手に鬨の声を上げ阿寺城へ迫った。しかし寒さと疲労が蓄積した秋山軍としては少数とはいえ新手が残る阿寺城を攻める危険は冒したくなかった。阿寺城としてもすでに勝敗は決しているのでここで無駄に血を流すのも無意味であると考えていた。ここに両者の考えが一致し、秋山軍が送った降伏勧告に阿寺城方は応じた。
【探索のヒント】阿寺城は漆原城とも城山城とも言われます。国道257号線を国道418号線へ入らずそのまま南へ向かいます。野口トンネルを抜け右へ大きくカーブした先にある「城山トンネル」の上が城跡です。非常によく遺構が残っているそうです。上村川から水を汲み上げる井楼跡も確認できたそうです。伝聞調で書くのはトンネルの両入口脇@Aから城跡へ行く道があるのですが2009年5月19日現在、高圧電線が張り巡らされ立ち入り禁止になっています。残念でした。
【駐車場】三作集会所駐車場
【最寄りのバス停】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「漆原」または「三作」
 
@A
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H岩井戸城―【MAP】
上村合戦の緒戦に勝利した秋山虎繁は先陣を自ら受け持ち、中備望月與三郎信重、左備原藤吾昌定、右備芝山主水且春、後備松本右京亮長継の5隊に全軍を分けた。本陣のある岩井戸城からは串原隊1千が出撃してきた。これに当たったのが中備の望月隊であった。しかし2千5百の兵を5隊に分けたため兵の数は串原隊の方が多く、望月隊は次第に後退して行った。勢いに乗る串原隊はこれを追撃する。望月隊は足場のよい所まで後退して応戦しはじめた。両軍が留まって戦いを始めた時、串原隊の両側から原隊、芝山隊が攻撃を仕掛けてきた。望月隊の後退は罠だった。三方から攻められ劣勢に陥った串原隊を助けるため岩井戸城から部隊が出撃した。しかし秋山軍の勢いは凄まじく援軍もたちまち混乱状態になった。本陣でこれを見ていた遠山景行は自ら出撃した。それを見計らったかのように密かに岩井戸城の背後に回りこんでいた虎繁が攻撃を仕掛けて来た。たちまち前後から攻撃を受けた景行隊は大打撃を受けた。この戦いで串原城主串原右馬助は戦死した。
【探索のヒント】向井戸山の東端に築かれました@。東から来る仲馬脇街道と南へ向かう仲馬街道を見下ろすA絶好の場所であることは一目瞭然です。ただ山の端を平らにして曲輪があったBのを想像させる以外、遺構は全く残っていません。その曲輪跡も作物が一面に植えられていて周囲の一段高い所が土塁ではないかと思えるぐらいです。なお、ここを耕した時に多くの武具などが発見されたそうです。
車で行く場合決して上まで登らないように。方向転換できるスペースがないのでバックで下りるハメになります。見学時間はそれほどかからないので新弁天橋の近くに路駐しましょう。なお上矢作公民館の図書館では町史を見る事ができます。
【駐車場】なし
【最寄りのバス停】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「弁天橋」
 
@A
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I上村合戦の死者を弔う―恵那市上矢作町
上村合戦とは何であったか。徳川方から預かった人質松平源三郎が逃げ出したのでそれを追って秋山軍が東美濃へ乱入したとする説がある。さらに元亀元年説と元亀3年説がある。これに関しては苗木遠山資料館千早保之氏の論文に説得力がある。秋山軍の東美濃侵入を受けて徳川方は山家三方衆(田峯菅沼・作手奥平・長篠菅沼)が出撃している。結果としては遠山軍対秋山軍の戦いとなり山家三方衆は戦いに参加していない。しかし山家三方衆が戦いに向かったと言う事は武田と敵対関係にあったと言う事である。元亀3年だとすでに山家衆は武田方で敵対する事は無い。とすれば元亀元年とするのが妥当であるという説である。もともと永禄11年徳川と武田の今川領分割話で信玄が家康を挑発するような動きをしている。元亀元年になり家康は謙信と同盟、反信玄となる。これで信玄は三河へ侵攻することを決めたと言える。
【探索のヒント】飯田洞川沿いの和田地区には庚申塚と共に上村合戦の戦死者を弔う慰霊碑@石仏群Aがあります。慰霊碑の方は江戸時代に作られたと記されています。
前田砦から約5百メートル離れた山越地区の田園地帯の端には
3基の五輪塔Bがあります。この付近での武田軍との戦いで戦死した多くの遠山軍の死者を弔った五輪塔ですが田圃に埋まっていたのを掘り出して埋まっていたまま積み直しています。しかし崩れた宝篋印塔や五輪塔を積み直したらしく元は最低でも4基あったと見られています。両方とも駐車場はありませんが車の往来も少ないのでそばに路上駐車できます。
【駐車場】なし 慰霊碑【MAP】 五輪塔【MAP】
 
@A
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J遠山景行を祀る
秋山軍の奇襲攻撃にほとんどの兵を失い、明知城へ撤退する景行に付従う兵は5、6騎となってしまった。一旦休憩のため馬を下りた景行がそばにあった岩に槍を突き立てるとなんとその割れ目から冷水が湧き出してきた。みんなその水を飲み人心地ついた。戦場から離脱した景行らを追って秋山軍が迫ってきた。最早帰城は叶わぬと悟った一行は敵と最後の一戦に及んだ。たちまち味方を討取られた景行は自刃して果てた。64歳であった。
遠山塚(恵那市上矢作町漆原)は漆原の近藤儀助氏を中心に明治44年に建てられる事が決まった。これに協賛された方々は地元の名士、さらに寄付に関しては周辺の自治体からも寄せられた。碑に使われた石は山の下から切り出され山の斜面を人力で現在地へ引き上げたという。その距離1キロ。これには漆原の住民がこぞって協力した。
景行の墓は
安住寺(恵那市明智町杉野)にある。ここは景行の妻が永禄の初め、光国舜玉和尚を開基として建てられた曹洞宗の寺であるが現在は臨済宗妙心寺派となっている。自害した景行の遺体はこの寺の裏山に埋葬されたという。あるいは首のみが埋葬されたとも言われる。そのためその墓は首塚とも言われ首から上の病の平癒祈願に訪れる人が今もある。また墓前に木刀を供える慣わしもある。これは無念の自害をした景行を慰霊するためである。
この光国舜玉は信玄の叔父にあたる人で鎌倉時代執権北条氏から逃れた伊豆工藤氏の末裔が住む東三河振草郷へ伊豆韮山から1492年16歳の時にやってきたという。光国舜玉はその地にあった真言宗安養院で修行し、豊橋・二連木松寿山全久院、長野県阿南町新野・瑞光院、岡崎・蓮華寺、埼玉県神川村・辛春院を開山した。従って安住寺を建てられた時はすでに80歳になっていたことになる。
明知遠山氏累代の墓と景行から11代景珍の墓碑があるのが
龍護寺(恵那市明智町東山)である。TVで有名な遠山金四郎景元は明知遠山氏の分家であるがその業績を称え、嫡流が祀られている累代の墓へ合祀されている。
景行の子景利は父の勧めもあって
万勝寺(恵那市山岡町馬場山田)の住職をしていた。ところがこの戦いで父と兄景玄が戦死したため景玄の幼子一行が跡を継ぐことになった。そのため景利は一行を補佐するため還俗した。万勝寺には「巖邑府誌」の中で岩村町の医師首藤玄震が「草堂の傍らに古墳(古い墓)在り。明知相模守の墓なりと曰う。或いは上村に死せる民部の墓なりとも曰う。まだいずれが是なるか知らざるなり」と書いている五輪塔がある。山岡町教育委員会はこれを「飯高万勝経塚」としている。
【探索のヒント】景行の最期の地にある遠山塚@へは国道257号線「道の駅上矢作」横のゴルフ場へ行く山道をひたすら登って行きます。登りきる手前、丁字に出る直前の左へ入る細い道に「遠山塚」の案内板が出ています。その案内に従って脇道へ入ります。ゴルフ場のフェンスに沿って走る事約5分で「遠山塚駐車場」の案内があります。急な坂を登るとそこが駐車場です。ここから階段を下ると碑があります。
冷水が湧き出したという伝説があるところを
一杯清水Aと言います。さっきの「遠山塚駐車場」の方へ行かずに道なりに進んでしばらく行くと左に地蔵があります。丁度車を停められるように道幅が広くなっています。茂みに説明板があり右の山道を進んで行くと右側の窪みに一杯清水の碑が建っています。今では水は湧いていません。
安住寺Bは明智町から山岡町へ行く東海自然歩道の途中にあります。広い駐車場も完備されています。墓所Cは本堂裏にありますが案内板があるのですぐに分かります。墓所には3基のお墓があります。卵塔は開祖光国舜玉和尚、二つ並んだ向かって左が永禄4年に亡くなられた景行の妻、右が景行Dです。
龍護寺は大正村という観光地にあります。国道363号線「駅前交差点」を西へ向かう県道33号瑞浪上矢作線に入ります。突き当りの八王子神社を左へ曲がりすぐに右へ曲がり道なりに進むと右に「龍護寺」の案内板があるのでそれに従って側道に入ります。道が大きくカーブして少し行くと龍護寺の駐車場です。隣にある幼稚園と共有しています。駐車場の奥に
遠山累代の墓Eとその両側に墓碑Gがあります。3基ある墓碑Fの遠山累代の墓寄りが景行のものです。ちなみに明智城へはここから行くと便利です。
万勝寺Hは地図には飯高観音と記されています。国道363号・418号線「山岡駅前交差点」を東、岩村方面へ向かうと明智鉄道が国道のすぐ横を平走したら「飯高観音」の案内板があります。それに従い国道から側道に入り線路を越え道なりに進みます。しばらく進むと広い駐車場があります。左側にお寺があるので左の駐車場に停めましょう。山門から本堂へ行く途中の右側の芝生の一番背の高い五輪塔が経塚Iです。
◎遠山塚:【MAP】 【駐車場】あり
◎一杯清水:
【MAP】 【駐車場】路駐
◎安住寺:
【MAP】 【駐車場】あり 【最寄りの駅】明智鉄道「野志駅」
◎龍護寺:
【MAP】【駐車場】あり 【最寄りの駅】明智鉄道「明智駅」
       【最寄りのバス停】恵那市自主運営バス明智峰山線「森下」
◎万勝寺(飯高観音):
【MAP】 【最寄りの駅】明智鉄道「花白駅」

 

 

 

 

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