@A
BC
@大坂本願寺―大阪市中央区大阪城
信長は京都、堺に近く日本の経済の中心である大坂を支配するのに本願寺の土地が欲しかった。そのため町を破壊することなく接収するため軍事的圧力をかけることで本願寺を退去させようとした。実際信長の要求を拒んで焼討ちにあった寺はいくつもあった。信長に恭順の意を表していた顕如だったがはじめから明け渡す気がないのだから戦いになるのは時間の問題だった。今回三好勢が畿内に舞い戻ったのも本願寺が裏で手引きをしていた可能性はある。しかし三好勢は織田軍に追い詰められ本願寺の立場は非常に悪くなった。もはや選択肢のなくなった顕如はついに信長に戦いを挑んだ。本願寺挙兵は信長に大きな驚きを与えた(細川両家記)のか予定通りのこと(信長公記)だったのかは不明であるが、これから泥沼の戦いが始まるとは想像もしていなかったと思う。
本願寺中興の祖蓮如は
本山を山科においてBC各地に一向宗を広げ、大坂にも御坊Aを建てた。時代は下って証如の時、管領細川晴元の要請を受け一向宗徒は幕府側の傭兵として活躍した。これに乗じて各地で蜂起した一向宗徒は他の宗教勢力の寺院を焼くなど暴走をはじめた。晴元はこの事態に逆に一向宗討伐に乗り出した。天文元年(1532)8月24日六角貞頼と法華宗の連合軍は山科の本山を焼討ちした。順興寺実従は灰燼に帰した本山から親鸞影像を持ち出し、翌年7月証如の居る大坂御坊へ移し、以降大坂御坊が本山となった。
【探索のヒント】大坂本願寺はご存知大阪城にあったとされます。@は本丸の東側にある梅林のところにあります。山科本願寺は京都市山科区西野一体にあり、寺内町として発展しました。団地の発掘調査で土居と濠跡が見つかり、また天分法華の乱で寺が焼け落ちたことを示すように焦土が堆積していました。現在も土塁が中央公園Bと国道一号線を越えた所にあります。山科の方は適当な駐車場がなかったので中央公園の横に車を停めましたが公園でイベントがあればごまかせるかもしれません。
●大阪城【MAP】:【駐車場】専用駐車場【最寄り駅】JR 「京橋」「大阪城公園」
●山科本願寺 碑
【MAP】 土塁:【MAP】
【駐車場】Times(山科区竹鼻堂ノ前町50
離れていますが221台駐車可能)
【最寄り駅】京阪電車「山科駅」
@A
A春日江堤―都島区都島本通【MAP】
本願寺の突然の参戦に信長の本心はどうであったかわからないが義昭は朝廷を動かして顕如と和議を結ぼうとして烏丸光康を使者にたてた。しかし14日(20日との説もある)になって本願寺は天満ノ森へ向けて攻撃を仕掛けてきた。これに対して織田軍からはまず佐々成政が迎え撃って春日江堤で戦闘となった。成政が怪我をして退くと前田利家が申野又兵衛・野村越中・湯浅甚介・毛利長秀・兼松正吉とともに一揆勢に切り込み、一揆勢を退けた。この戦いで毛利、兼松が長末新七郎を討ち取る一方、野村越中が下間与四郎に討ち取られている。
この戦いの日付は信長公記では14日になっているが「細川両家記」では14日は豪雨でそれを利用して野田・福島城の三好勢が川の堰を切ったので海老江にある織田の陣が水浸しになり信長が難儀したと記している。また16・17日は一時停戦になったとして、京へ向かった使者の返事を待っていた可能性もある。
【探索のヒント】春日江堤@の戦いは本願寺にとって有名な戦いであったらしく江戸時代の説法の題材になっていますが付近にはそれを示すものはありません。春日江という地名はありませんがかすがえ公園Aという児童公園はあります。公園のそばは比較的広い道なので路駐が出来ますが民家の密集地なので邪魔にならないように停めてください。
【駐車場】Times(都島本通1-3) 【最寄り駅】地下鉄谷町線「都島」
 
@A
B定専坊―東淀川区豊里6丁目【MAP】
定専坊の門徒である船乗りや人足など信徒は京へ戻ろうとする信長達を邪魔するために蜂起した。また天王寺合戦後、信者3千人が渡辺の津に布陣している。淀川の船着場「三番」にある寺で行基(ぎょうき)の開基と伝えられはじめ西光寺@と言う名前だった。永徳2年(1382)楠木正成の孫、政勝が千早・赤坂城陥落後ここに隠棲した。後、蓮如(れんにょ)上人が当寺に泊まったとき、定専坊と名付けたという。境内には楠木政勝と子(正盛・信盛)の墓がある。この寺の梵鐘Aが信長との合戦の時に早鐘として突かれたものといわれている。
【探索のヒント】お寺は民家の立ち並ぶところにあります。お正月に行ったので中には入れませんでした。駐車場はないので路駐になります。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】地下鉄「太子橋今市」から95系統で「北淀高校前」
 
C江口―東淀川区江口【MAP】
江口周辺の一向宗徒衆は本願寺参戦に呼応して信長の帰京に立ちふさがったが江口の船頭達は信長に協力した。これに感謝して信長は元亀元年9月江口の船頭あてに「村に対する乱暴狼藉があった場合、当方で成敗する」という禁制を出している。
神崎川と淀川の分岐点にある江口は水上交通の要衝であり、平安期から鎌倉、近世まで山陽道・西海道・南海道が通る宿場町としても栄えた。宿場町ということで「遊郭」もあった。「新古今集」にある西行と遊女妙との歌問答の舞台が江口である。後世観阿弥がこの話をもとに謡曲「江口」を作った。
【探索のヒント】
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