木津川口の海戦
経過
天正4年(1567)7月になって毛利輝元本願寺顕如足利義昭の要請を受けて毛利水軍を大坂に向けた。12日淡路島の@岩屋城を出て貝塚で雑賀衆と合流、A木津川口に向かった。これに呼応して本願寺側は木津楼の岸Bえた(穢田)が崎の砦から打って出た。天王寺砦から出た佐久間信盛C住吉浜毛利軍と戦闘となった。13日早朝織田水軍毛利水軍木津川口で戦闘を開始した。しかし海上での戦いに長ける毛利軍織田軍を撃破、兵糧を本願寺に運び込むことに成功した。この後毛利軍は木津D尼崎城E花熊城岩屋に兵を残して本願寺を援護した。
天正5年信長大坂本願寺の主力部隊である雑賀衆攻め、反旗を翻した松永久秀討伐と直接本願寺と戦はなかった。
天正6年6月2年の歳月をかけて完成した九鬼嘉隆率いる6艘の鉄甲船団が木津川封鎖のためにF鳥羽城を出港した。26日G淡輪沖でそれを阻止しようとした雑賀衆淡輪衆の水軍と戦闘になったが撃破して7月17日に入港した。そして18日予定通り木津川を封鎖した。しかし10月になって荒木村重信長に謀反して本願寺と手を結んだ。これによって信長対本願寺戦を見直さなければならなくなった。信長本願寺と和睦するため朝廷を動かしたが、11月4日本願寺毛利氏の意向を聞くことを求めた。その2日後の6日毛利水軍木津川に現れた。再び毛利水軍織田水軍が激突したが毛利軍の戦法を研究して完成した鉄甲船が威力を発揮して毛利軍を壊滅させ、本願寺への兵糧搬入が不可能になってしまった。
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