天王寺の戦い
経過
天正3年(1575)3月になると一揆勢は@大和田に砦を築いた。これを攻略しようと荒木村重が軍を派遣したが大敗した。その後立てこもる一揆勢をおびき出して大和田城を奪い取った。4月織田信長が自ら河内へ出陣して三好康長高屋城を攻略、さらに5月東の雄武田軍設楽が原織田・徳川軍に惨敗し、8月に入ると越前の一向宗徒信長の巧みな外交と大軍勢で壊滅した。畿内で完全に孤立した本願寺は一時的にしろ信長と和睦せざるを得なかった。
天正4年2月毛利輝元のもとに身を寄せていた足利義昭はついに輝元を動かした。これを知った信長荒木村重本願寺の北側に陣取らせ、明智光秀細川藤孝に東側の守口A森河内原田直政に南側のB天王寺にそれぞれ砦を築かせた。これにより本願寺に残された唯一の連絡口は西側の木津川口のみとなった。
5月3日原田直政はその木津川口を封鎖するためにまずC三津寺を目指して進撃した。これに対し本願寺側楼の岸から1万人が救援に向かい、原田軍に数千丁の鉄砲を撃ちかけた。この一戦で直政は戦死、織田軍に多数の死傷者が出た。勢いに乗る一揆勢は天王寺砦を囲んだ。京でこの知らせを受け取った信長は3千の兵を率いて大坂に入り、7日住吉口から天王寺に迫った。信長来援にからも兵が出て一揆勢を挟み撃ちしようとした。一揆勢の銃撃に信長は足を負傷しながらもの兵と合流して敵に猛攻撃を加えた。本願寺に逃げ込もうとした一揆勢は城戸口で織田軍に追いつかれ二千七百人が討ち取られた。
信長はそこより深追いはせず本願寺を完全に封鎖するため
10箇所に砦を築いた。本願寺は織田方の砦の内側に51箇所に砦を築いて対抗した。ここから4年間本願寺の籠城戦が始まった。
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