夢幻の如く哉<岐阜県編>
経過
@A
崇福寺―岐阜市長良福光寺(崇福寺町)【MAP】
臨済宗の寺で1469年美濃守護土岐成頼と斉藤長弘によって建立された。織田軍に焼討ちされた甲斐・恵林寺の快川和尚がは61歳までここで暮らした。信長が美濃を手に入れるとここを菩提所として保護する禁制を出した。そのため信長所縁のものが多く、信長の側室御鍋の方が信長の首級を葬ったとされ信長・信忠の廟所@と位牌堂Aがある。
【散策のヒント】駐車場がないので徒歩がいいと思います。最寄の駅がないので岐阜駅からはバス・タクシーで行くしかありません。マイカーなら岐阜公園に停めて長良橋を渡ってメモリアルパークを目指してください。その裏手になります。関が原合戦の前哨戦の舞台になった岐阜城の床を利用した血天井や信長愛用の時計なども見学できます。
@ABC
可成寺―岐阜県可児市兼山 【MAP】
蘭丸を含む森一族の菩提寺。蘭丸の父可成が志賀の陣で戦死すると跡を継いだ長可がその菩提を弔うために兼山(金山)城の寺ヶ峰に可成禅寺を創建したのが始まりである。小牧長久手の戦いで長可が戦死しするとその弟忠政が森家3代目を継ぐ。1600年兄の旧領川中島に転封となり、その時可成寺も現在の地へ移った。1603年森家は津山国へ移動。忠政は初代津山城主となった。その後、約百年近く津山を治めていたが6代目(津山四代目藩主)長成が急死。長成にはまだ子がなく、叔父関衆利を養子に迎え7代目(同五代目)とした。だが衆利は江戸へ向かう途中、発狂してしまう。こうして津山藩を治められなくなった森家は藩主の地位を取り上げられてしまった。だが森家の徳川家への奉公と信長軍の武功が惜しまれた。そこでまだ存命中だった長成の祖父森家4代長継に備中西江原2万石が与えられ、支藩の森長俊は播州三日月1万5千石、関長治は備中新見1万8千7百石に転封された。
西江原を与えられた長継は88歳という高齢だったので実際に入府したのは11男の長直であった。元禄10年のことである。元禄14年浅野内匠頭が江戸城で刃傷事件を起こし赤穂浅野家は改易、翌年永井直敬が城主となり、4年後、長直が赤穂城主に抜擢された。赤穂森家、三日月森家、新見関家は明治まで続き、森家菩提寺可成寺は三家の援助を受け続けたのである。
可成寺には可行(可成の父)・可成・可隆(可成の弟伝兵衛とする系図あり)・長可の墓はあるが、蘭丸・力丸・坊丸の石塔と位牌はない。あるのは伊岐津志中野から移された供養塔である。中野は蘭丸らの母正寿院妙向尼が千本の卒塔婆を立て、本能寺で討死した我が子を弔った場所で「千本卒塔婆」の名が残る。また現在ある位牌は「兼山町史」によれば本能寺の変から99年後の天明元年に執り行われた蘭丸・坊丸・力丸の供養法事に制作されたらしい。だが、「可成寺記」には位牌作成のいきさつはない。この事実から武田攻めで武功のあった長可が川中島の海津城へ移ったのち、兼山が蘭丸に与えられたという説は否定的に見られている。つまり蘭丸が金山城主であったなら他の城主同様、墓があるべきだからである。
【散策のヒント】可児市役所北の県道122号御嵩犬山線を「上恵土交差点」方面に走り、国道21号線へ入らず木曽川に沿って北へ向かいます。県道は381号多治見八百津線に名前を変えます。そのまま進むと冠木門@蘭丸像Aが出迎えてくれます。冠木門をくぐり道なりに進みます。東海環状道の高架を過ぎると旧街道の風情を残す景色に変わります。左折すると木曽川を渡って和知へ行く丁字路を直進したすぐ右に可成寺Bがあります。道を挟んだ反対側が駐車所です。本堂の裏に森家の墓所があり、右側にあるのが蘭丸・力丸・坊丸の供養塔Cです。ここまでこられたらぜひ「兼山歴史民俗資料館」を見学して下さい。専門員の渡邊千明様の貴重な面白いお話を聞くことが出来ます。書籍も色々あります。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】可児市コミュニティバスさつきバス兼山線「城戸坂」(火・木・土運行)
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