夢幻の如く哉<京都府編>
建勲神社―京都市北区紫野北船岡町49番地【MAP】
山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は大徳寺で信長の一周忌法要を営んだ。その後船岡山に信長を祀る天正寺を建立しようとしたが途中で中断してしまった。時代が下って明治2年明治天皇が信長の偉業を称えて船岡山に神社創立を命じた。信長が上洛した日である10月19日に毎年船岡祭が催される。ここには桶狭間で義元から手に入れた「太刀 義元左文字」や「信長公記」が宝物としてある。
船岡山は聖徳太子の時代からその存在は有名で清少納言も「枕草子」に「丘は船岡・・・」と書いている。このあたりは「西陣」というがそれは応仁の乱で西軍が陣を張ったことから名づけられた。
【散策のヒント】10月19日の船岡祭はぜひ行って見たいものです。船岡山公園にあります。府道38号線を北上して「堀川北大路」を左折、大徳寺過ぎて最初の信号を左折します。すぐに建勲神社の前に来ますが駐車場は神社の手前にある道を右折して直進します。左手に神社の駐車場の案内があるのでそれに従って行きますが駐車場と呼べるようなものではないので休みの日は考えたほうがいいでしょう。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】京都市バス「建勲神社前」
 
總見院―京都市北区紫野大徳寺町【MAP】
本能寺の変から1年後の6月2日秀吉は大徳寺で信長の一周忌法要を執り行った。信長後の覇権争いで織田信孝・柴田勝家を葬り、織田信雄は秀吉にいいように操られ、滝川一益も屈服させ、前田利家・丹羽長秀は親秀吉派となって秀吉にとっては信長の後継者は自分であると言う事をアピールする絶好の時であった。はじめ秀吉は阿弥陀寺の清玉上人に法要を執り行ってもらおうとしたが秀吉の企みを見抜いた上人に断られた。仕方なく秀吉は大徳寺住職蒲庵古渓(古渓宗陳)に頼む事になる。總見院はこの蒲庵古渓を開祖に創建された。法要にあたり信長の遺骨を荼毘に付そうとした秀吉だったが肝心の遺骨が無いので木像を二体作り一体を棺に入れて荼毘に付しもう一体を總見院に安置した。これが現在残っている信長像である。
蒲庵古渓は越前朝倉氏の流を汲む。堺・南宗寺のあと大徳寺住職となる。堺時代に千利休と親交がありその縁で秀吉とも結びつきができる。信長の百ヶ日法要は利休の依頼を受た古渓が行った。
【散策のヒント】2004年11月24日に行きました。通常は中を見ることは出来ません。明治初めの廃仏毀釈によって大徳寺は灰燼に帰したが信長木像は避難していて難を逃れました。本で見るあのお姿に感動しました。写真を掲示できないのが残念です。信長縁の人々のお墓が勢揃い。しかし秀吉になびかなかった信孝の墓はありません。
【駐車場】専用駐車場(¥600) コインパーキング 【最寄りのバス停】京都市バス「大徳寺前」
 
@A B
阿弥陀寺―京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14 【MAP】
阿弥陀寺住職の清玉上人は信長が襲われた事を聞き他の僧と本能寺へ駆けつけた。信長の寝所に入り込んだ清玉は見覚えのある遺体を発見した。よく見ると信長のようである。清玉は境内で信長の遺骸の発見に懸命な明智軍を見ると信長らしき遺体を近くにあった残り火に入れ、見分けがつかないようにし遺体を本能寺から阿弥陀寺へ運び出した。その後寺の裏で荼毘に付したという。また清玉が本能寺に到着したものの表は明智軍の警護が厳重で境内に入れなかった。そこで裏道を通って境内に入ると竹林で10人ほどの兵士が火を炊いていた。それらは織田の兵だった。信長から敵に遺骸を渡すなと申し付けられたが運び出す事ができなかったので、ここで火葬した後遺骨を隠し我ら一同自害すると言った。清玉上人は「私は信長公と縁の深い者である。ご遺骨は我が寺で埋葬しちゃんと法要する。だからここで無駄に自害するより我らがご遺骨をもって寺から出られるように明智の兵を足止めしてもらいたい」と言った。織田の敗残兵はこれを受け入れ明智の兵に向かっていった。この隙に清玉らは信長の遺骸を焼き、白骨を法衣に包み阿弥陀寺へ持ち帰った。翌日には二条城で討死した信忠らの遺骸も集め埋葬した。
翌年秀吉が清玉に一周忌法要を依頼した。しかし信長の後継者が秀吉であると宣伝するような法要は断固拒否するとした清玉に仕方なく秀吉は大徳寺で法要を行う事になったが秀吉の怒りは収まらず、8町(872メートル)四方の広い境内とその中に塔頭11ヶ寺を持ち、正親町天皇が東大寺大仏殿の勧進職を命じるほど帰依した清玉上人がいたにも関わらず1587年秀吉により大幅に寺域を削減され現在の場所に移転させられた。
清玉上人と織田家の関係は桶狭間合戦で助けられた女人の子が清玉となったのがきっかけという説。また1542年尾張鳴海で苦しむ妊婦を信秀が発見。保護し無事子供は生まれたが母親は死んでしまった。この赤子が清玉であったとする説がある。
清玉は織田家で育てられ13歳で興福寺に入り、1555年近江坂本に浄土宗阿弥陀寺を創建する。永禄年間、信長の帰依を受け京都西ノ京蓮台野芝薬師西町に移ったと言われる。
【散策のヒント】鴨川に沿って走る河原町通の「河原町今出川」交差点を西へ向かい最初の信号を右折、そのまま道なりに進みます。これが寺町通で右側にお寺が並びます。十念寺の次が阿弥陀寺です。ちょっとゆっくりと走りましょう。山門@の手前に駐車場があります。いつでも拝観できるようです。墓地に入った正面に信長・信忠・本能寺戦没者の墓Aがあります。その横に森乱丸・力丸・坊丸兄弟の墓Bもあります。猪子兵助の墓もあったのですが撮影し損ないました。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】京都市バス37系統「出雲路町神楽町」
 

 

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