清須同盟と三河侵攻
経過
永禄3年5月19日桶狭間で今川義元が戦死したことで松平元康の運命は大きく変わった。義元の死を知って大高城を出発、20日池鯉鮒で反今川勢の決起を受けたが無事通過、三河に入ることができた。しかし岡崎城にはまだ今川の残兵がいる可能性もあったので松平家の菩提寺@大樹寺に入った。数日大樹寺で過ごし岡崎城に今川勢がいないのを確認して入城した。
永禄4年信長の意向を受け刈谷城主水野信元が元康に同盟を申し込んだ。その後織田方林秀貞滝川一益と松平方石川数正高力清長鳴海城で両軍の停戦と,国境の確定がなされた。
その直後の
4月上旬信長は三河国境を越えてA梅ヶ坪城を攻撃した。同時にその北部のB伊保城C八草城も攻撃、帰国した。5月にもD挙母城を攻めた。この軍事行動に元康は動かなかった。この付近の豪族は元康にも信長にも従わず独立した存在だった。いずれ解決すべき問題だったが勢いのある信長がそれを行った。
永禄5年正月15日元康清須城を訪れ信長と対面ここに清須同盟が成立した。
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