信康・築山殿事件
経過
徳川家康の嫡男信康家康浜松城に移った後岡崎城主となったので岡崎信康とも呼ばれた。信康の「信」の字は織田信長から与えられたという。
清須同盟
が成立すると
永禄6年信長は娘の(五)徳姫信康を婚約させ同10年お互い9歳のとき結婚した。そして家康信康夫婦と正室築山殿岡崎城に残し浜松城に移るまで表面上すべてはうまくいっていた。しかし、家康がいなくなったとたん徳姫と姑築山殿との関係が悪化し、さらに信康徳姫との間にも亀裂が入った。
そもそも築山殿
今川義元の姪に当たりその義元を滅ぼした信長家康が同盟を結んだことが気に入らなかった。さらに信長の娘を自分の子の嫁に迎えたことはその怒りに拍車をかけた。家康がいなくなるとたちまち嫁いびりが始まったと言われる。一方信康は気性が荒く女中(徳姫の侍女とも)を気に入らないと切り殺したことがあった。
天正7年
こうしたことが続いたあげく徳姫は父信長に12か条に及ぶ信康築山殿の行状を手紙に書き送りつけた。その中に築山殿武田勝頼と内通しているということも書かれていた。この手紙に信長7月16日家康の重臣酒井忠次安土城へ呼び寄せその真偽を問いただした。それに対し忠次は返答ができず信長の怒りは頂点に達した。信長家康に二人の殺害を命じた。すでにこの時期信長の命令に背くことは即自滅を意味した。同盟者である徳川家康は実質織田軍団のひとつであった。家康は泣く泣く妻と子供を手にかけることになった。
信康
二俣城に送られ幽閉された。築山殿家康に弁解するため岡崎城から浜松城へ向かう途中
佐鳴湖近くの富塚で野中重政により殺害された@8月29日のことであった。ついで9月15日二俣城信康のもとへ服部正成天方通綱が遣わされ切腹を命じたA。享年21歳だった。
参考になるのは
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