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@築山殿、暗殺
通称築山殿は今川氏一族の関口刑部少輔親永と今川義元の妹の娘で瀬名郷で誕生したので瀬名姫と呼ばれた。人質時代の家康と結婚、信康・亀姫をもうけるが、義元の戦死で家康が岡崎で独立すると瀬名は子供と供に駿府城に取り残されてしまった。さらに叔父義元を討ち取った信長と家康が同盟したため、永禄5年岡崎城へ迎えられた瀬名だったが決して円満な夫婦生活を送れる状態ではなかった。永禄10年築山殿に追い討ちをかけるように信長の娘徳と嫡男信康の婚姻が決まった。元亀元年に家康が浜松城へ単身移ると瀬名との間は完全に冷え切ってしまった。ところで瀬名が築山殿と呼ばれるようになったのは岡崎城の築山御殿に住したことからといわれる。
元亀3年から家康は武田信玄と勝頼との戦いに入った。しかし勝利を得ることは出来ず武田氏が遠江を席巻していった。この状況に瀬名は信康が生き残れることだけを考え出した。家康が浜松へ移ってから瀬名と密通していた大賀弥四郎が勝頼に寝返ったのはそんなときだった。弥四郎は勝頼の出陣に合わせて岡崎城を開城、家康を討ち取ろうと計画した。しかしこの計画は露見し、激怒した家康は弥四郎を鋸引きの刑に処した。長篠の戦いの一月前の出来事だった。この4年後築山殿事件が起こるが、信康・瀬名が勝頼に寝返った事実は今のところ発見されていない。また築山殿と弥四郎の一件もお話の域を出ない。
【探索のヒント】築山殿が殺害されたのは太刀洗池@(浜松市佐鳴台)と「県西部浜松医療センター」を挟んで西側の「小薮」です。血洗い池は碑がある場所の南側Aにありました。「県西部浜松医療センター」の駐車場横に碑があります。築山殿を切った刀をここにあった池で洗ったとところ池の水が真っ赤に染まり、100年忌法要が行なわれるまで元の透明に戻らなかったので「築山殿の呪い」と言われました。殺害された築山殿の遺体は西来院B(浜松市広沢)に葬られました。西来院は国道257号線「鹿谷町交差点」を西へ直進すると信号があるのでそこを左折します。この道の左手が西来院です。非常に閑静な住宅街ですが突然オートレース場の爆音が聞こえてくる不思議な所でした。
◎太刀洗い池【MAP】
【駐車場】医療センター駐車場 【最寄バス停】遠州鉄道バス「医療センター」

◎西来院【MAP】【駐車場】専用駐車場 【最寄バス停】遠州鉄道バス「西来院裏」
 
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八柱神社―岡崎市欠町【MAP】
岡崎城代石川伯耆守が築山殿の首を西来院から菅生村祐傳寺境内に葬り築山神明宮を勧請した。その後水野大監物が現在地@に移した。ところで首塚Aの説明文を読むとかなり築山殿寄りのコメントがある。徳姫は父の威光を笠に着て我侭な振る舞いが多くという件は面白かった。
八柱神社は熊野権現の五男三女神を祭神として成立、その後天照大神、大国主命、信康公、豊受大神、筑前御前も祭神としてその名を残す。紀州鈴木一族がこの地に移り住んで崇拝する熊野権現の社を建てたのが起こりである。あくまでも伝承だが紀州鈴木37代重義は源義経を敬愛し、奥州へ逃げる義経に同行する兄弟の鈴木重家を追った。しかし矢作まで来たところで足を痛め、逗留しているうちに義経一行の死を知り、この地に土着した。これが三河鈴木氏の祖といわれる。その後鈴木氏は中条氏の被官となり、一度は対立した松平氏と姻戚関係を持ち、鈴木重直のとき家康の家臣となった。
【探索のヒント】信康の首塚を見た後行きました。本殿の西側に首塚があります。
【駐車場】専用駐車場 【最寄バス停】名鉄バス「西欠町」
 

信長から信康と築山殿の処分を命じられた家康の苦悩は計り知れない。しかし家康には信長に従うという選択肢しかなかった。この一件で酒井忠次が家康に叱責され、そのため家康が関東へ移封されたとき他の重臣に比べて著しく冷遇されたとも言われる。信長の命令を受けて家康は自ら岡崎城へ出向き、信康を廃城になった大浜城へ移した。この直後家康は西尾城へ身を隠すように移っている。大浜城へ移された信康は密かに家康に会いに行ったが対面は拒絶されたと言う。その後信康は堀江城から二俣城へ移された。
 
清瀧寺―
二俣城に幽閉された信康のもとに服部正成と天方通綱が訪れると信康はその時が来たことを悟った。介錯は通綱が行った。信康享年21歳。家康は遺骸を浄土宗の寺院に葬ろうとしたが二俣にはなかったので取りあえず庵室があるという所に信康の廊所、位牌堂、其外諸堂を建立した。天正天正19年徳川家康がここを訪れたとき、清水が湧き出るのを見て清龍寺と名づけたと言う。
清瀧寺には信康に殉じた小姓の吉良於初、信康自刃の時の二俣城城主大久保忠世、三方ヶ原合戦で戦死した中根正照青木吉継も葬られている。
 
 
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若宮八幡宮―岡崎市朝日町【MAP】
信康の首塚Aがある神社@。祭神は仁徳天皇。成立時期は不明。信長のもとへ送られた信康の首は首実験が終わると岡崎に戻された。家康は家臣の清水万三郎に命じてここへ首を葬った。その後岡崎城内に怪異現象が起こるようになったのでこれは信康公の祟りだと皆が噂したのでこの神社に合祀した。この神社はもとは名栗(竝栗)天神と呼ばれていたが信長にはばかって菅生八幡宮と名を改め、のち若宮八幡宮と改めた。
【探索のヒント】国道一号線「朝日町」交叉点を南へ向かいます。民家が建ち並ぶ中に神社はあります。私は自転車で行ったので不便しませんでしたが車で入ってくると駐車に困るかもしれません。
【駐車場】なし 【最寄バス停】名鉄バス「若宮町」
 
勝蓮寺―岡崎市矢作町宝珠庵16【MAP】
この世にひとつしかない信康の肖像画のある寺。私が行ったのが11月20日でご開帳は21日だそうで見れませんでした。
浄土真宗大谷派の寺院で天台宗の恵堯が師の専信僧都の薬師如来を矢作の村にあった柳のもとにお堂を建てて奉納、柳堂薬師寺と称したのが始まりとされる。1235年親鸞がここへ立ち寄った際、別当の舜行が親鸞の弟子となり恵眼の法名を受け、浄土真宗に改宗した。本尊弥陀尊像は親鸞より与えられたといわれる。松平広忠、家康、信康、石川家成などから崇敬され
特に信康は深く関りを持った。そうした縁から信康の肖像画が保存されている。  
【探索のヒント】境内は広くて駐車している人はいました。
【駐車場】境内に駐車可 【最寄バス停】名鉄バス「矢作橋」
 
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