高天神城救援
経過
天正2年(1574)2月東美濃の明智城を落とした武田勝頼は余勢を駆って、次の目標を遠江の要衝@高天神城に定めた。5月3日甲府を出た勝頼12日には高天神城を包囲していた。単独での救援が不可能だった徳川家康織田信長に使者を送って援軍を求めた。
2月に東美濃を奪われたが3月に南近江の六角氏の放逐に成功、また天下の名香A正倉院の蘭奢待切り取りで勅許を得たことで信長には心のゆとりだ出ていた。しかし4月になると摂津・河内で本願寺三好勢が手を結んで反信長の動きを活発にしだした。
これに対処しながら
信長5月5日B上賀茂神社の「競場会神事」に参加するために京都に滞在していた。そこへ家康からの援軍要請が来た。5月16日京都を出た信長28日岐阜へ到着した。6月5日出陣用の兵糧米を知多郡の商人に届けさせて12日織田信忠佐久間信盛が第一陣としてようやく出発し、14日信長自身も岐阜城を出発した。17日信長らは吉田城に到着、さらに東へ向って進軍した。じつはこの日高天神城は落城している。信長がこれを知ったのは19日C今切の渡しに到着したときだった。先の明智城と同じく救援が間に合わなかった信長は悔しさを噛み殺し21日岐阜へ戻った。
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