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@高天神城―静岡県小笠郡大東町下土方
 標高132メートルの高天神山に築かれた高天神城は遠江における要衝の1つで「高天神城を制するものは遠州を制す」と言われた。築城は今川氏親の頃と言われている。
 当時の城主は小笠原長忠。その祖は信濃守護小笠原氏である。長忠から四代前の深志城主貞朝の嫡男長高は父との折り合いが悪く織田氏を頼って尾張へ出奔した。しかし尾張での居住は許されたが家臣には加えてもらえなかった。やがて父の死を知った長高は後を継いだ異母弟長棟を討とうと深志城へ向ったがすでに防御を固めたあとだったので引き上げた。その後三河幡豆の吉良氏のもとへ向い、さらに今川家に仕えるようになった。今川家では長高に馬伏塚城を与えた。長高はここで死に春茂が後を継いだ。ある時高天神城の福島氏が謀反を企てているとの噂を聞いた今川家では真偽の確認を春茂に命じた。三の丸に入って福島氏の動向を探っていた春茂はついに謀反の計画を発見、本丸に躍り込んで福島氏を成敗した。この武功で春茂に高天神城が与えられた。
 その後春茂の跡を継いだ氏興は桶狭間で義元が死に氏真が当主になった今川家を見限り永禄11年徳川家康の掛川城攻めに協力し、氏真追放に一役買った。それ以降氏興は姉川の戦いやその他の合戦に参加して家康を盛り立てた。氏興が死ぬと長忠が城主になったがここから武田との戦いが始まった。元亀2年信玄の高天神城攻めが敢行された。しかし難攻不落の高天神城は容易に落ちず、却って武田軍に損害を与えた。戦果のあがらない戦いに信玄は引き上げていった。それから3年後再び武田軍が攻めて来た。
 信玄の遺言で家督を継げなかった勝頼は武田家中での求心力を高めるために積極策にうってでた。明智城攻めで信長の機先を制しみごと東美濃の拠点を抑えることに成功。これに気をよくした勝頼は父信玄ですら落とせなかった高天神城に狙いを定めた。兵力は武田軍2万に対し小笠原軍は2千。前回のときと同じような兵力差であったが大きく違うのは三方ヶ原合戦で家康は大損害を被っていたことである。家康単独で救援に向えるほどの余力はなく、信長に援軍を請わなければならなかった。
 高天神城は本丸のある東峰と二の丸がある西峰とで構成されている。東峰の周囲は断崖でここから攻め込むのは困難であった。自然武田軍は西峰を中心に攻めることになった。武田軍の包囲から2週間で本丸・三の丸・二の丸を残し武田軍に占領された。勝頼は力攻めをする一方、穴山信君を使者に立て長忠に降伏の条件として信濃を与えると伝えた。これに長忠は言を左右に時間稼ぎして家康の来援を待った。一月後には岡部治部によって井戸曲輪が落とされ堂の尾曲輪も落ち、本丸と西の丸とが分断された。ここに至って浜松の人質を守りたい籠城派と長忠・安西越前・福島十郎左衛門の開城派に分かれた。そこで長忠は浜松城へ城兵を送り届けることを降伏の条件に出した。勝頼はこれを受け入れ、戦いは終わった。しかし安西・福島の両名は開城の責任を取って自害した。長忠は駿河に1万石を与えられたが間もなく病死したと言う説、興国寺城を与えられ勝頼のもとで各地を転戦、武田家滅亡前に北条氏のもとへ行ったが小田原征伐で家康に斬られた説などがありその動向は不明である。
 武田の手に落ちた高天神城は山県昌景・横田尹松が城番となり、天正9年岡部長教が城番のとき家康によって落城させられる。
【探索のヒント】車で行く場合駐車場は追手門@側の南駐車場(10台)と搦め手側の北駐車場(100台)があります。県道38号掛川大東線「土方」バス停の後ろにある山が城跡です。それぞれの駐車場へは案内があるので間違うことはありません。私は追手門の方から登りましたが非常にしんどかった記憶があります(01.11.20)。追手門からのルートは本丸Aヘ続きます。本丸の北に大河内源三郎正局(まさもと)が7年間幽閉された石牢Bがあります。高天神城開城に従わなかったため、武田軍によって閉じ込められました。家康が助け出したときは歩行困難になっていました。有岡城に閉じ込められた黒田孝高も同じような状態でしたね。本丸の南側の三の丸には休憩所Cがあります。しかしもうちょっと整備して欲しいと思いました。あまり丹念に歩き回らなかったので写真がこのぐらいしかないのは今となっては非常に残念です。行かれる方はじっくり腰を据えて回ってください。私も機会があればもう一度ゆっくり行きたいと思います。
【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】静鉄バス「土方」
 
A正倉院―
【探索のヒント】
【駐車場】 【最寄のバス停】
 
B上賀茂神社―京都市北区上賀茂本山339
賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)をまつる。678年に社殿が造営され以降庶民ばかりか皇室の信仰も得た。明治以降官幣大社(かんぺいたいしゃ)として伊勢神宮に次いで全国神社の筆頭になった。
上賀茂神社と言えば毎年5月に行なわれる「葵祭」。「競馬会神事(くらべうまじんじ)」は5月5日に催されるその神事の1つで堀河天皇の1093年に始まった。出場する馬は5月1日馬足の優劣を定める足汰式(あしぞろえしき)が行われ、5日は早朝から頓宮遷御(とんぐうせんぎょ)、菖蒲の根合せ等が行われ、乗尻(のりじり)は左右に分れ、左方は打毬(たぎゅう)、右方は狛鉾(こまぼこ)の舞楽装束を着け、馬に乗って社頭に参進する。勧盃、日形乗、月形乗、修祓、奉幣の儀のあと、馬場で競馳(きょうち)する。その様子は『徒然草』等にも書かれている。
【探索のヒント】
【駐車場】 【最寄のバス停】
 
C今切の渡し―
【探索のヒント】
【駐車場】 【最寄のバス停】

 

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