越前一向一揆
―百姓のもちたるの国へ―
経過
 
天正元年(1573)8月20日織田信長に攻められた越前国主朝倉義景は自刃して果てた。代わって朝倉家奉行の桂田長俊(前波吉継)信長の命を受け国を治めることになった。ところが翌天正2年(1574)1月19日信長によって府中統治を任された富田長繁桂田の悪政に苦しむ農民が起こした一揆と呼応して兵を挙げた。桂田は防戦空しく戦死、一時富田越前国守護代となった。しかし、その地位は他の者に支持されない非常に不安定なものだった。
義景の滅亡で信長の統治国となると思っていた越前の混乱ぶりを知った大坂本願寺顕如越前国内の一向宗徒織田・朝倉に味方する勢力の駆逐を命じた。1月28日
和田本覚寺@に先導された一揆が真宗高田派仙福寺Aを襲撃、降参させた。これを皮切りに越前各地で反本願寺派への攻撃準備が始まった。顕如はこれを統制するため一月下旬加賀一向一揆の指導者七里頼周を派遣した。頼周は最初称念寺Bに入り、のち豊原寺Cに移って指揮を執ることになる。
高田派の寺院を屈服せしめた一揆は富田とそれに協力する一向宗三門徒Dを打ち破り、鞍谷御所E真柄氏館北村氏館F瓜生氏館G氏家氏館H千秋氏館I佐々生氏館Jの国人衆の本拠を襲撃、追放した。

鯖江市の前田様のご協力、感謝します

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