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@和田本覚寺―永平寺町東古市 【MAP】
本覚寺はもと足羽郡和田庄にあった浄土真宗高田派の念仏道場(和田道場)であった。開基は信性(和田の信性 三河本性寺門弟・円善の弟子)。高田派が関東、東海を本拠としているので信性は関東出身または三河出身といわれたり、あるいは越前の土豪・波多野一族(浅香年木説)という説がある。通説は1311年越前で布教中の本願寺3世覚如に感化された信性が本願寺派に変わり越前における本願寺寺院の第一号となる。ちなみにこの年は親鸞の50回忌にあたる。本覚寺を公称するのは本願寺7世存如の時代になってからである。信性の死後、本覚寺から離れた門徒が超勝寺を興した。以降、本覚寺と超勝寺は多くの末寺門徒を集め北陸一帯の本願寺勢力の拡大に貢献した。また1471年蓮如が吉崎に道場を開いたのは当時吉崎の代官だった本覚寺住持蓮光の勧めがあったからとの説がある。1475年蓮如が前年起こった加賀一向一揆との関係を断つため吉崎を退去するにあたり、あとのことは本覚寺蓮光・蓮恵に任せるとした書面が残されている。越前における本覚寺への蓮如の信頼度を示すものといえる。
1488年加賀一向一揆が守護の富樫政親を倒したため将軍足利義尚の逆鱗に触れ、蓮如は加賀の本願寺門徒の破門を迫られた。蓮如は管領細川政元に頼み一揆に参加した寺への譴責状だけで済ませてもらった。ここに政元と本願寺の連携が生まれた。蓮如の死後、9世実如はより深く政元と関わりを持つ。1493年クーデターを起こして足利義澄を新将軍に就け、幕府の実権を握ることに成功した政元だったが、政元に反発する勢力が越中に逃げていた前将軍義材を復帰させるため各地で動き出した。これを抑えようと政元は実如に門徒衆の蜂起を要請した。これに応えて北陸・畿内・東海で一斉蜂起した一向一揆は「永正3年(1506)の大乱」といわれる。実如はこの一揆によって本願寺の北陸支配を目論み30万ともいわれる一揆勢を越前に送り込んだ。ところが九頭竜川で8千から1万6千の朝倉宗滴軍と真宗高田派、三門徒派によって一揆勢は加賀へ撤退を余儀なくされるほどの大敗北を喫してしまう。朝倉軍は吉崎御坊を破壊、越前国内の本願寺派寺院は破却された。本覚寺も当然、加賀の波佐谷・埴田へ逃れた。
この後、政元が暗殺され義材が将軍に復帰すると本願寺へ一揆の厳禁を命じた。実如は@武装・合戦の禁止A派閥・徒党の禁止B年貢横領の禁止(三法令)を通達した。本覚寺蓮恵は合戦が禁止では越前に復帰できないと反発すると破門(のちに取り消し)となってしまった。北陸本願寺最大功労者本覚寺でさえ逆らえば破門となったこの事実は信徒に衝撃を与えた。
その後、加賀での本願寺同士の内紛、朝倉の加賀侵攻、本願寺の反撃、朝倉の再反撃が繰り返されているうちに中央では信長が天下統一に乗り出していた。信長に対抗するためには一致団結あるのみ、そう判断した大坂本願寺は朝倉氏との紛争を終結させた。これにより加賀へ逃げていた本願寺派寺院は60年ぶりに越前へ戻ることが出来た。本覚寺もその中にあったが加賀の本坊も残された。本願寺が東西分裂すると越前本覚寺は西本願寺、加賀本覚寺(小松本覚寺)は東本願寺に属した。
【探索のヒント】福井大空襲で焼失するも戦後すぐに復興、国指定の重文「仏涅槃図」を所蔵しています。歴史的に存在感を示したお寺にふさわしい山門@なのですがその他の施設Aは近代的で思ったより狭い境内でした。駐車場は完備しています。
【駐車場】専用駐車場 東古市ふれあい会館駐車場
【最寄りの駅】えちぜん鉄道勝山永平寺線「東古市駅」
【最寄りのバス停】永平寺町コミュニティバス「東古市」 
 
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A仙福寺―福井市足羽1−15−32 【MAP】
【探索のヒント】
 
 
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B称念寺―坂井市丸岡町長崎19−17 【MAP】
別名長崎城。南北朝期の1337年、北朝方で越前守護の斯波高経を倒すべく挙兵した南朝方の新田義貞に従った細屋右馬助がここに城を築いた。また、室町時代の1473年北陸道に近い称念寺を砦にするため朝倉孝景は寺を金津へ移転させた。1480年朝倉氏に越前を奪われた斯波義良と追放された甲斐氏・二宮氏は朝倉討伐の軍を興しこの砦を落とすが翌年には再びここで合戦となり朝倉方が勝利している。
称念寺のある長崎は白山信仰の祖泰澄が721年元正天皇の勅願で阿弥陀堂を創建した地とされる。この長崎、隣の舟寄という地名は昔ここに湖があったのが由来とされる。
鎌倉時代浄土思想・禅宗の影響を受けて信仰仏教が生まれた。その一つ時衆が社会的に認められたのが越前である。開祖一遍の弟子他阿真教は一遍没後、北陸・関東を中心に遊行した。1290年より2年間、越前・加賀で布教をおこなっているがそのほとんどが越前であった。それは惣社大神宮(武生)の要請でもあったのだが、時衆の普及に危機感を覚えた平泉寺が他阿を追却しようと惣社に押し掛けたのでやむなく加賀へ退去している。他阿の越前滞在中、長崎の称念房は建物を寄進、その弟仏願房は私財一切を、末の弟道性房は光明院という倉を寄進した。これが称念寺の始まりである。長崎は三国湊と兵庫川で繋がっていたこともあり海運業者の支援を受け称念寺は越前で最も有力な道場となる。そのため歴代の遊行上人は必ずここに寄るようになった。
【探索のヒント】地籍図と現況がほぼ同じなので城の規模は想像できます。舟寄館のあった日東シンコ―の南、田圃の中にある木の生い茂っている地点@が称念寺です。山門A前の碑にある通り新田義貞の墓所Bとして有名なお寺です。明智光秀が越前にいた時に門前に寺小屋を建てて生活していたそうです。また光秀の娘たま(細川ガラシャ)生誕の地でもあります。
日本城格大系にはお寺の南から東にかけて土塁が確認できるとありましたが現況は明瞭ではありません。北側は堀があったのですが水田と舗装道路で確認できませんがこちらには
土塁状の地形Cがあります。駐車場はないので丸岡スポーツランドの駐車場を利用します。
【駐車場】丸岡スポーツランド駐車場
【最寄りのバス停】京福バスJR丸岡・本丸岡線「笹和田」
 
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C豊原寺―坂井市丸岡町豊原 【MAP】
越知山から東北の方角に紫雲たなびくのを見た泰澄大師は天女の導きによってそこに霊泉(閼伽井)を発見、そのほとりに草庵を建てたのが豊原寺の始まりである。702年のことである。その後寺は荒廃するが約100年後、昌龍和尚が再興する。豊原権現に帰依した北陸豪族の祖というべき藤原利仁は多くの土地を寄進した。1124年その子孫越前押領使疋田以成により5社の霊廟と5百余の坊を建立、荘園も寄進され豊原寺繁栄の時代を迎えることになる。所謂、豊原三千坊時代である。その5年後、延暦寺末寺となり、以降は山僧(延暦寺の僧)を迎えて学頭に迎え天台宗への純化を図ったが真言密教やその他の教法も混在していたという。
豊原寺では治承・寿永の内乱(俗に言う源平合戦)や南北朝動乱、戦国期に多くの僧兵を擁して武装化している。これには疋田氏の祖疋田系斎藤氏の影響が考えられる。平泉寺にも言えることで武家の斎藤氏が単なる支援者でなく寺の内部に入ることで自衛手段としての武装が進んだのである。
1479年(文明11)11月1日朝倉氏に奪われた公家・寺社領を奪還するという大義名分を掲げ、越前を追われた斯波義良と甲斐氏らは豊原寺に布陣した。朝倉孝景(英林)がこれを迎え撃って合戦が始まった。この時、豊原寺は朝倉方法師によって自焼している。戦いは朝倉氏不利で九頭竜川以北が連合軍の手に落ちてしまった。
しかし孝景の急死を境に朝倉一族の団結は強まり1481年8月17日坂井郡粟田島で甲斐氏に勝利すると一ヶ月後には斯波氏・甲斐氏を越前から追い払った。その時、豊原寺は朝倉氏に従っている。
1506年(永正3)7月13日一向宗と甲斐氏牢人が越前で一揆を起こし、これに加賀一向一揆が加担して朝倉氏と戦いになった九頭竜川の戦いでは豊原寺明王院・華蔵院は朝倉方として攻めてきた一揆勢を撃退した。1年後、この働きに対し将軍御内書が発給された。
そして今回は一向一揆側にいたため、1575年の信長の越前攻めで灰燼に帰した。その後、越前支配を命じられた柴田勝家の甥勝豊は豊原寺跡に城を築き寺を再興したが程なく丸岡城へ移ると華蔵院を除く寺は移転した。
江戸時代、福井藩の支援もあり白山信仰の霊地ということで豊原寺は繁栄したが明治2年華蔵院焼失と神仏分離令によりその歴史に幕を下ろした。
【探索のヒント】豊原寺跡周辺はハイキングコースとして様々な史跡を見て回れるようになっています。ただし、コースによってはほとんど人が通っていないような道もあるそうです。その中で豊原寺跡へ行く道は途中まで舗装されているので安心して行けます。
北陸自動車道丸岡ICの東側を走る県道110号中川松岡線から五味川沿いの道へ入ります。「豊原寺跡」の案内表示はあります。道なりに進むと舗装道路が終わり正面が行きどまりになっている所に出ます。右に上って行く舗装道路が林道で「ガーデントヨハラ」というキャンプ場へ行きます。道が細そうなので私は未舗装の所に車を停めて徒歩で行きました。この道は1車線で私が行った日、森林伐採の作業中で車ではキャンプ場へ行けないところでした。ちなみに徒歩30分ほどでキャンプ場へは行けます。
キャンプ場右に駐車場があるのですがそこから豊原寺へ行く道があります。どんどん進んで行くと道の両側に石垣@があります。坂本の松禅院周辺のような雰囲気です。この道を進むと正面に豊原寺跡の看板Aがあります。右側が華蔵院跡B。その奥に庭園跡Cがあります。看板の左へ行くと白山豊原寺の碑Dがあってその奥に白山神社Eのある権現山へ登る道があります。山道ですがちゃんと石段があるのが人々が参拝していた証しだと感じます。途中、祠や史跡を示す案内板があります。で、到着してびっくり。神社はすっかり朽ち果てていました。陀羅尼塔Fだけがやけに目立っていました。ちなみに白山神社へ来る途中、鐘楼跡Gという立て札があるのですがその向こうに道があります。これは森林組合が勝手に作った作業道で(もちろん違反行為です
この先何もありませんので行かないように。
【駐車場】ガーデントヨハラ駐車場または路上駐車
【最寄りのバス停】坂井市コミュニティバス鳴鹿ルート「豊原」
 
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D大町専修寺―福井市大町【MAP】
真宗高田派に属する如道を祖とする一派が三門徒派である。如道の出自は不明であるが「真言宗四度の潅頂」を受けていることから武家出身と考えられる。平判官康頼の子孫、大町太郎衛門の子供ともいわれる。
真言僧だった如道は越前で布教をしていた親鸞の弟子で三河和田門徒(真宗高田派傍流荒木門流)の円善に感化され真宗へ改宗し、1290年大町に専修寺を建立、近江・若狭への布教の拠点となった。この門徒衆は親鸞の『和讃』を唱えたので讃門徒と呼ばれた。
1311年本願寺3世覚如は如道に会うため子の存覚を伴い越前へ来た。その目的は親鸞の墓所大谷本廟を真宗の総本山とするため如道の協力を得るためであった。
外曾孫とはいえ親鸞と血縁であることを自負する覚如(親鸞の末娘の孫)は真宗のトップになることを望んだ。そのために本廟を守る留守職に就く必要があったが叔父唯善の暴挙を恐れる他の門徒が反対した。それでも覚如は諦めず他の門徒の屈辱的な条件を受け入れ留守職に就いた。次に親鸞面授の高僧が興した寺院に対抗するため「三代伝持の血脈」を考え出した。三代とは真宗の祖法然、その弟子親鸞、親鸞の孫如信をさす。真宗の正しい教えは親鸞の血族だけが受け継ぐので私覚如が正統な真宗の後継者であると宣言、本廟を専修寺と名付けた。しかし延暦寺から名前が良くないと言われ本願寺に改めた。この一連の動きに真宗最大門徒の高田派が異を唱え、それに同調する寺院は大谷本廟ではなく下野の専修寺に参るようになった。ここに覚如の計画はとん挫した。だがそんなことぐらいで挫折しない覚如は高田派が圧倒的に強い越前で勢力を拡大している如道を後ろ盾にすることだった。
大町専修寺で二十日余り過ごす間に存覚は如道に『教行信証』を講義し覚如は「鏡の御影」を御開帳した。この結果、本願寺派にはならなかったものの如道は覚如の弟子となった。40年後、観応の擾乱で乱れる京都で行われた覚如の葬儀に如道は参列している。これは顕誓の『反古裏書』にある如道が秘事法門をたてた為に覚如に破門されたという説を否定するものである。
1341年如道の死を受け二男如浄が跡を継いだが浄土宗西山派へ傾倒したため、如浄から離れていく者が出てきた。如浄の弟了泉(良金)が法主の時、その子浄一は中野専照寺を開き、次男浄光が専修寺を継いだ。
専修寺の終焉は突然訪れた。時の持住が大町助四郎と名乗って還俗してしまったのである。そこで如道と兄弟弟子であった信願が創った三河勝鬘寺と姻戚である蓮運(蓮如の甥)が跡を継いだ。ここに専修寺は本願寺派として再興されるのである。
だが信長の越前一向一揆攻めの時、木ノ芽峠を守備していた専修寺賢会は戦死。越前は信長に蹂躙されたので専修寺は断絶した、と本願寺は思っていた。ところが賢会の子唯賢は生きていた。慌てた顕如は勝授寺の寺号を与え吉崎御坊の坊跡を継がせた。1589年勝授寺は三国湊へ移る。西本願寺法主准如は准賢の名を与え別格寺とし、1622年には永代院家とした。
【探索のヒント】現在大町墓地がある所に専修寺が創建されました。国道8号線「大町交差点」を西へ田園地帯の中にあります。
【駐車場】なし 路駐可 
【最寄りの駅】福井鉄道福武線「ベル前駅」
 
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D専照寺―福井市みのり2−3−7 【MAP】
大町専修寺3代目了泉の嫡男浄一が1435年(永享7)足羽郡蕗野故中野に中野道場を開いた。これが専照寺の始まりである。證誠寺・誠照寺・毫摂寺と三門徒派を結成しその中心となった。なお、浄一は如道の弟子道願の子供という説がある。
親鸞から義絶された長男善鸞の教え「不拝秘事」を広めたのは浄一ではないかといわれる。このことで本願寺6世巧如から破門された浄一は京都出雲寺毫摂寺や石清水八幡宮の田中法善寺と繋がりを持とうとした。
1582年になり北ノ庄へ移る。
1585年仏教隆興に功績があったとして天皇の勅願所となる。1724年現在の場所へ移転。その後、天台宗妙法院の所轄下におかれ、1873年には大谷派に属するなどしたが、1878年真宗三門派として独立することが出来た。
【探索のヒント】県道229号福井鯖江線「フェニックス通り」の「新木田交差点」の南西にあります。道に面していないので@ウロウロしてしまいました。駐車場へは交差点のすぐ南の辻または西の最初の辻を入ります。
御影堂Aは1837年に火事によって焼失しましたが翌年再建されたました。昭和23年の福井地震で唯一残った建造物です。その傷跡は大きく阿弥陀堂Bは昭和34年に再建されたものの本堂は未だ再建されていません。御影堂と阿弥陀堂の間には「真宗三門徒派本山」とかろうじて読める碑Cがあります。
【駐車場】境内に駐車場有 
【最寄りの駅】福井鉄道福武線「木田四ツ辻駅」
【最寄りのバス停】京福バスJR丸岡・本丸岡線「笹和田」
 
@A
BC
D誠照寺―鯖江市本町3丁目 【MAP】
越後流刑となった親鸞は途中立ち寄った上野ヶ原の豪族波多野景之の別荘で浄土真宗を初めて布教した(所転法輪)。景之は真宗に帰依し別荘を「車の道場」とよび布教の拠点としさらに親鸞の第5子道性(如覚または如覚の高弟道願の子ともいわれる)を住職として迎えた。これをきっかけに北陸道の宿駅であった鯖江では真宗の寺が多く作られ門前町として発展した。
道性の二男如覚は教義において父と対立、勘当され知人を頼って美濃へ行った。1297年9月道性の死により如覚は帰国、車の道場を継ぎ第三代となる。その後、道場が手狭になったため波多野氏から寄進を受けた現在の地へ移転、真照寺と名を変えた。誠照寺と名を改めるのは1437年第7代秀応の時である。
依然讃門徒派であったが本願寺3世覚如の子存覚の門弟でもあった。その存覚は2度にわたり覚如から義絶されている。それが原因なのか覚如は如覚と友好関係を断っている。信長が本願寺と距離を置いた誠照寺に助勢を求めた書状が残っている。
一向一揆によっても被害を被ったが秀吉の北ノ庄攻めで堂宇をすべて焼失、江戸時代初期再建されたが失火によって御影堂を失う。現在の御影堂は明治10年に再建されものである。
1693年には天台宗の日光輪王寺に属していたが1872年誠照寺派として独立した。
【探索のヒント】誠照寺@は国道417号線「西鯖江交差点」と「朝日町交差点」のちょうど中間の「本町交差点」を北へ向かってすぐ左にあります。四足門の山門Aには江戸時代の彫刻家左甚五郎の「駆け出しの龍」を見ることが出来ます。御影堂Bは県内最大規模の木造建造物だそうです。
駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】福井鉄道福武線「西鯖江駅」
【最寄りのバス停】つつじバス中央線「本山前」
 
@A
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D證誠寺―鯖江市横越町 【MAP】
越後へ流される途中、親鸞は立ち寄った山元の庄で教義を垂れた。これが證誠寺の始まりである。これに感銘した住民は親鸞が許されるやこの地での布教を頼んだ。だが高齢となった親鸞は息子の善鸞を遣わした。山元の庄へ来た善鸞だったが布教のため嫡男浄如を山元の庄に残し旅へ出発した。浄如の熱心な布教活動のおかげで信者は増え、1304年勅願所となり證誠寺の名を賜った。
横越へ移ったのは5世旦応上人の時、長泉寺の焼き打ちにあったためである。1471年明徳の乱で京都から山元の庄へ移りここを本山とし證誠寺と連携していた毫摂寺の兼慶が吉崎の蓮如の許へ去った。1475年8世道性上人は朝倉敏景の助けを受け横越に仏閣を建て横越證誠寺が生まれた。だが蓮如に證誠寺の教義を否定され本願寺から離れたため、のち一向一揆の焼き討ちに遭うことになり、村国の郷へ逃れた。1690年福井藩主によって旧地の一部を回復
された。だが山元派として独立できたのは1878年になってからである。
【探索のヒント】国道417号線を北陸自動車道をくぐって東へ200メートルほど行くと右側に證誠寺@はあります。国道に面して広い駐車場もあります。昭和になってから火災や国道の拡張工事などで御影堂Aなどの建物は再建や移築されています。午後5時に山門Bは閉められますがどこからでも境内へ入れます。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りのバス停】京福バスJR丸岡・本丸岡線「笹和田」
 
@A
E地蔵橋―鯖江本町4丁目3 【MAP】
朝倉攻めの際、織田軍は長泉寺36坊に火をかけ石仏は谷や川に捨てられた。ある夜、うち捨てられている地蔵尊が長泉寺の僧の夢に現れ「北陸道の小川にわが体を使って橋を架けよ。その橋を渡る者には功徳を与える」と告げた。それに従い石仏で橋が架けられた。
【探索のヒント】国道417号線の西山公園から福井鉄道福武線の上を通る高架道路を下りた「西山ストアー」前にあります。駐車場はないので路駐になります。
信長=神社仏閣の破壊者という観念が非常に強く、信長の進軍した地域の寺院の説明文には「信長によって焼き討ちに遭い」の文字をよく見かけます。この地蔵橋もその類と思います。信長が灰燼に帰す焼き討ちをする時はリセットが目的の時です。朝倉攻めではさっさと義景を討取って浅井長政を討つため近江へ
戻らないといけない状況でした。そんな時に焼き討ちをしている余裕はないはずです。そう考えると鯖江一帯が一向一揆に蹂躙された時に長泉寺が破壊されたと考えるのが自然だと思います。
【駐車場】なし
【最寄りの駅】福井鉄道福武線「西山公園」
【最寄りのバス停】つつじバス中央線「本町4丁目」
 
@A
BC
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E鞍谷御所―越前市池泉町 【MAP】
3代将軍足利義満の次男義嗣は上杉禅秀の乱に加担したと疑われ、4代将軍で兄の義持に殺害された。その遺児嗣俊は越前へ下向し鞍谷の継体天皇の宮居跡に居を構え鞍谷氏を称した。足利将軍家の流れをくむ嗣俊の住居は御所を称することを許され、嗣時・嗣知・嗣基と続いたとするのが旧説である。
最近では鞍谷御所は斯波義廉の子義俊の屋敷跡であるとする。
応仁の乱において西軍で華々しい働きをする朝倉孝景(英林)を東軍へ寝返らせようとする総大将細川勝元に孝景が求めたのは斯波義廉に代わって越前守護職となることであった。勝元が応じると孝景は東軍に寝返り、義廉を追放して越前平定に乗り出した。1481年7月孝景が病死するが跡を継いだ氏景は2か月で敵対勢力を越前から一掃し越前の実質的な支配者となった。だが本来守護であるべき斯波義良は常に越前を狙っていた。これに対抗するため斯波家より格上の鞍谷家に越前に戻って来ていた義俊を婿入りさせ鞍谷家を継がせ守護とした。10月美濃守護代斎藤利国(養父妙椿は孝景と甲斐氏の講和を仲介)により@越前国は義俊とするA斯波氏は越前・尾張・遠江守護B越前は朝倉、尾張は織田、遠江は甲斐を統治するという内容で合意した。
義俊はしばらく一乗谷で暮らしたのち鞍谷御所へ移った。義俊は傀儡であったが鞍谷周辺は鞍谷氏の領地として朝倉氏の支配は及ばなかった。義俊が死去すると鞍谷氏は朝倉臣下となるが厚遇はされた。義景の愛妾小宰相の局は義俊の子嗣知の娘と言われる。この嗣知は足利義昭に従っていた明智光秀が義景に重用されるのを警戒、義景と光秀の引き離しを画策した。その為、義昭の上洛要請に義景が積極的に動かなくなったといわれる。信長の越前平定後、小丸城主となった佐々成政の家臣に鞍谷民部少輔の名がみられる。
【探索のヒント】国道8号線「庄田交差点」から県道201号菅生武生線で東へ向かいます。このまま道なりに進むのですが「味真野苑」に来る手前右側に味真野神社@Aがあります。ここが鞍谷御所跡です。駐車場はあるそうですが私は「味真野苑」に停めて徒歩で行きました。元は土塁と堀BCで四方を囲まれていた構造だったと思われます。
境内には世阿弥の謡曲「花筐(はながたみ)」の碑があるのですが全く知識がなかった私は写真を撮りませんでした。世阿弥が都落ちし味真野に住む義嗣を度々訪ね、この地に居た継体天皇が皇位継承できたように義嗣が将軍になってもらいたいとう願いを込めて作られたのが「花筐」だそうです。
味真野神社より西へ行くと霊泉寺Dがあります。斯波義敏の墓所Eです。越前・尾張・遠江守護だった義敏は越前・遠江守護代甲斐常治と対立、将軍義政の斡旋で一旦は和解しますが将軍の要請で関東出兵しながら、その兵で甲斐方の金ヶ崎城を攻めたので家督を子の松王丸に譲らされ周防に流されました。のち幕府の意向により斯波家は渋川家の義廉が継ぐことになりました。やがて赦免された義敏は義政から斯波家を継ぐことを認められましたが反発した義廉は妻の父山名宗全に相談。ここへ将軍家や管領家の家督争いが加わって応仁の乱へと発展します。
義敏はついに越前守護に復帰できず74歳で死去します。その前に出家、霊泉寺を開きます。霊泉寺にも駐車場はあるのですが途中の道は整備されていません。
●鞍谷御所(味真野神社):
【駐車場】専用駐車場
【最寄りのバス停】福井鉄道バス池田線「味真野神社前」
       越前市市民バス味真野北新庄ルート「池泉町」
●冷泉寺【MAP】【駐車場】専用駐車場

 

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