第一次長島攻め
経過
織田信長の奇襲で村木砦を失った今川義元はその翌年の弘治元年(1555)尾張国内の反信長勢力と手を結び、海東郡蟹江城@を攻め取った。さらに尾張守護斯波義銀斯波一族石橋氏三河吉良義昭今川勢河内服部友貞勢石橋氏戸田城Aに迎え入れようとした。だがこれは露見して三人は追放、信長戸田城を接収すると蟹江城を攻め落とした。永禄2年(1559)のことである。
その後美濃平定を目指美濃国内の国人衆を切り崩す一方、信長は現木曽川以東を自領とするため蟹江城を拠点に弟織田信興滝川一益服部党の討伐を命じた。永禄8年友貞不在を狙って河内へ攻め込んだ織田軍の前に服部党は敗北B信興鯏浦城Cを築いて服部党へ圧力を加えた。さらに河内長島を分断するために立田輪中にも小木江城Dを築いた。
元亀元(1570)年9月
大坂・野田福島三好三人衆と対峙する織田信長大坂本願寺が挙兵し、同時に浅井・朝倉軍が湖西を南下して来た。信長が急いでへ戻ると阿波から篠原長房摂津へ戻り、南近江では六角義賢が兵を挙げた。さらに顕如は各地の門徒宗に蜂起を命じた。それに応え伊勢長島願証寺Eを中心とした一向宗徒が小木江城を襲撃、11月21日信興は自殺に追い込まれた。前日篠原長房この日六角義賢と和議が成立、信長が一息つけた日であった。
翌元亀2年5月12日一向一揆を掃討と信興の仇討のため信長津島口F佐久間信盛中筋口G柴田勝家らは太田口Hから長島へ進撃した。一揆勢は願証寺をはじめ木曽川・長良川・揖斐川の輪中内にある砦に立て篭もり、紀州などの海賊衆がそれを支援した。海上封鎖が出来ず攻める術がない織田軍はただ砦を包囲するだけだった。このまま何の進展も無いのを嫌った信長16日全軍に撤退を命じた。これを好機と見た一揆衆は太田口から撤退する柴田軍の背後と側面から襲いかかった。この戦いで勝家は負傷、氏家ト全が戦死Iしてしまうという大惨敗を喫してしまった。
第二次長島攻め 第三次長島攻め
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