@A
BC
@蟹江城―愛知県海部郡蟹江町蟹江本町城 【MAP】
築城時期は不明だが永享年間(1429〜1440)と伝わる。築城者は14代執権北条高時の血筋
を引く北条時任または渡辺源十郎と言われる。蟹江川・佐屋川・日光川が伊勢湾に流れ込むデルタ地帯の蟹江は水陸路の要衝ということで戦国期の争奪戦の舞台となった。小牧長久手の戦いで秀吉、家康がそれぞれの城へ引き上げた後の天正12年6月、秀吉方に寝返った滝川一益が織田信雄の城だった蟹江城を攻めたことから、再び秀吉・家康が臨戦態勢に入った。これが蟹江合戦の始まりである。戦いは迅速な動きを見せた家康の勝利となった。この翌年、大地震により城は壊滅、再建されることはなかった。
村木砦を陥落させひとまず義元の知多半島進出を阻止した信長は、今川に寝返った鳴海城主山口教継に与した星崎城主花井右衛門兵衛の根上の領地を没収、代わりに岡田助右衛門直教(小豆坂七本槍の一人)を守らせるなど尾張東部の今川勢の動きに備えていた。一方、足がかりを失った義元は今度は尾張の西から攻めることにした。目標としたのは織田民部が守る蟹江城であった。民部とは信長の弟信包の長男で守護斯波義銀の娘婿を指すが、弘治元年現在で12歳の信包の息子とは考えにくく信包が城主だったのかもしれない。境目の城の城主が12歳の子供ということは服部党は攻めて来ないと信長は判断していたのだろう。だが服部党どころではない巨大な敵が城に攻撃を仕掛けてきた。50メートル四方のには二重の堀があったというが砦程度の規模では守り切れなかった。東に目を奪われていた信長にとって西からの攻撃はショックであった。
この戦いでの今川軍三河衆は「蟹江七本槍」と称えられる目覚ましい活躍を見せた。すなわち元康の祖父清康、父広忠以来の安祥松平家の家臣大久保一族―忠勝(忠俊)、忠員(忠俊の弟)、忠世(忠員の長男)、忠佐(忠員の二男)、忠政(忠員の次兄、阿部氏の婿養子となり阿部忠政となる)、杉浦鎮貞(吉貞)・鎮栄(勝吉、吉貞の子)である。
蟹江城がいつ滝川一益に落とされたかは不明である。「弥富町誌」は永禄2年としている。友貞が桶狭間合戦の時、大高城まで行っているのは、奪われた蟹江城を奪回するため今川軍を輸送しようとしたならこれは成立するが、蟹江城が今川方で総員するため今川軍を輸送するのだった永禄3年以降となる。いずれにしても一益はこの城をは服部党及び長島攻めの拠点としている。
【探索のヒント】歴史民俗資料館の前の道を南へ行くとクランク状になり細くなっています。二度目に右に曲がった道を真直ぐ行く@蟹江城の碑Aがあります。これに並んで本丸の井戸Bが残っています。地籍図をみると南北は碑のある地点から北の用水路Cまで、東西は碑のあたりから蟹江川(昔は日光川)までが城域でした。現在は碑と井戸跡しか遺構は残っていません。
【駐車場】蟹江町歴史民俗資料館
【最寄のバス停】蟹江町お散歩バス「歴史民俗資料館北」
 
@A
BC
A戸田城―愛知県中川区戸田一丁目【MAP】
戸田城は康和3年(1103)時点で右大臣藤原忠実が領有する富田荘の下司職だった平秀政の屋敷跡といわれる。建保年間(1213〜1218)には御家人戸田十郎信義が地頭としてこの地を支配した記録がある。戸田信義が三河戸田氏の祖となるがその出自には正親町三条家や
河内源氏源義家の末裔説がある。
斯波義銀は父義統を清州城代坂井大膳に暗殺されたのち、信長の庇護を受け名目上尾張守護となった。尾張国内統一を目指す信長は東からの脅威を一時的に抑えるため、義銀に尾張守護として三河守護吉良義昭、駿河守護今川義元と足利一門の同盟締結を結ばせた。だが尾張統一のため自分を利用していることに気付いた義銀は、同盟会見の席で対立した義昭と和睦し信長排除のため動き出した。
【探索のヒント】名古屋から県道29号弥冨名古屋線を西へ「戸春橋西交差点」を右折して左にある八幡神社@の西側、住宅設備会社Aが城跡です。その西側B北側Cは少し低くなり、城跡と区画されているように見えます。神社に駐車スペースがあります。
【駐車場】八幡神社の駐車スペースを利用
【最寄りの駅】JR関西本線「春田駅」
【最寄りのバス停】名古屋市営バス金山22系統「富田町」
 
B難畑地蔵尊―
【探索のヒント】
 
@A
BC
C鯏浦城―愛知県弥富市鯏浦字上六町49【MAP】
服部友貞の屋敷のある城の腰から北東900メートルの所に鯏浦城は築かれた。城といっても砦である。城の腰と砦の間は葦の繁った湿地帯でお互い睨みあうだけであった。この砦が築かれた段階ではまだ本願寺との紛争も起こっておらず、あくまでも服部党へ圧力をかけるだけが目的であった。一揆が蜂起し信興が戦死するとここは服部党の拠点となった。
【探索のヒント】信興が母から与えられた念寺仏(薬師像)を本尊とする薬師寺@城跡Aです。境内に駐車できそうですがここまで車で入っていくのが億劫だったのでイオンタウンに駐車して徒歩で行きました。樹齢600年以上という大楠Bがあり、織田軍が長島を攻めた時には海に面していたこの楠に船を繋いだと伝わっています。地形はすっかり変わっているはずですが城の周囲の用水路Cがなんとなく当時の雰囲気を醸し出しています。
鯏浦城:【駐車場】なし
【最寄の駅】
JR関西本線「弥冨駅」近鉄名古屋線「近鉄弥富駅」
 
@A
D小木江城―愛知県愛西市森川町
総大将下間頼旦・頼盛に率いられた一揆勢は木曽川と佐屋川に挟まれた立田輪中の南端に築かれた小木江城に攻めかかった。もともと長島監視のために作られた砦のため防御に優れたものではなかった。桑名城(蟹江城?)の滝川一益の援軍が来れなくなった時点ですでに小木江城―織田信興の運命は決まったも同然だった。しかし兄信長にこの地の守備を任された信興は自分の任務を果たすべく怯まず六日間一揆勢と戦った。そして最期の時が近付くと敵に討ち取られる前に自刃して果てた。これに殉じた家臣は80名と言われる。
【探索のヒント】小木江城の碑が建っているのは富岡神社@です。しかし「愛知県中世城館調査報告書」には西尾張変電所のそばAを推定地にしています。確かに富岡神社にある説明文にも城の存在を示す地名がある地域の一角に社があったとしており城域とは書いていません。また下古川にも小木江城(下古川城)があります。信興は城の櫓で自決したとされますが、城外に討って出て自決したのが下古川城跡であると「張州府誌」にはあります。
富岡神社は県道125号線「立田大橋東交差点」から東へ二つ目の信号を南へ入り右側奥に木が茂っている所です。車で前まで行けますが方向転換できないのでバックで少し戻らないといけません。西尾変電所は南へ入った道をそのまま進んだ所です。ただの田圃だけで碑も何もありません。富岡神社は道の駅の駐車場を利用した方がいいでしょう。
小木江城(富岡神社)【MAP】 ●小木江城(調査報告書)【MAP】
【駐車場】なし 道の駅立田ふれあいの里駐車場利用
【最寄りのバス停】愛西市巡回バス立田地区「道の駅」
 
@A
E願證寺―桑名市長島町杉江
浄土真宗に帰依していた安田信慶が1264年願證寺を建て子の信裕を開基とした。時代は下り1497年信裕に子供が無かったので願證寺を継ぐため蓮如の子蓮淳が養子に迎えられた。1510年本願寺宗主となった孫の証如を後見するため蓮淳は次男実恵に跡を継がせた。その後北勢四十八家の一つで長島を支配していた伊藤氏を滅ぼし、長島は本願寺門徒衆の手に落ちた。長島には門徒衆の他に美濃斎藤竜興、尾張石橋義忠
三河上宮寺勝祐のように信長や家康によって追放された者や得体の知れない輩が集まってきていた。やがて長島はどの領主にも従わない厄介な集団になっていった。
前年絶体絶命のピンチを脱した信長は弟信興を死に追いやったという恨みと所詮農民や坊主、無頼者の寄せ集め集団と言う侮りからまずは簡単に攻略できそうな長島を選んだ。この頃願證寺には大坂本願寺から下間三位頼旦、下間頼盛が派遣されており、伊藤氏から奪った砦に雑賀衆や門徒衆、地侍、百姓を入れ信長の来襲に備えていた。そして一旦戦闘が始まると頼胆の号令一下、攻めかかる織田軍に鉄砲や槍、弓で応戦、川を渡ろうとした織田軍の兵士は水中へ沈んでいった。
6月6日当時願證寺住職だった證意法眼は織田軍が引き上げたあと放火された多度の村を視察に言った時、山中に隠れていた織田の敗残兵によって射殺されてしまった。享年35歳。このため嫡子顕忍が11歳でその跡を継ぐことになった。
【探索のヒント】元の願證寺は長良川の付け替え工事で水没してしまい今は残っていません。長島の西側の堤防に長島町教育委員会が設置した長良川の案内看板がありますがその長良川方向に願證寺@はありました。現在の願證寺A(長島町又木)は江戸時代からある祐泉寺が願證寺門徒のために明治になって名前を変えたものです。桑名方面から行くと国道一号線「長島橋」を越えてすぐ右の細い道へ入って行きます。道なりに進んでいくと左手に「願證寺駐車場」があります。この横の細い道を下ると左手に願證寺の広い駐車場があります。
●杉江願證寺【MAP】:【駐車場】なし
         【最寄のバス停】桑名市コミュニテュバス「杉江集会所」
●又木願證寺
【MAP】:【駐車場】専用駐車場
               【最寄のバス停】三重交通バス「長島」
 
 
F津島口
【探索のヒント】
 
G中筋口
【探索のヒント】
 
H太田口
太田口は大垣から桑名へ通じる街道にある。この街道は東が揖斐川、西は養老山地に挟まれているため「一騎討ちの節所」と呼ばれるように狭くなって大軍の移動がしにくい場所である。
【探索のヒント】
 
@AB
I氏家卜全戦死―岐阜県海津市貝津町安江
太田口から撤退を助けるため柴田勝家が殿軍をつとめた。襲い掛かる一揆勢に弓・鉄砲で応戦していた勝家隊だったが山側からも攻撃を受けた上、大将の勝家が負傷してしまった。これを見た氏家ト全隊が勝家に代わって殿軍になった。
この戦闘のあった太田を含めた揖斐川の西側の街道はすぐ側まで山と川が迫って狭くなっていた。また横を流れる川が氾濫を起こすと甚大な被害を引き起こす大河のため街道と言えどもぬかるんだ足場の悪いものだった。そのため殿軍として防戦していた卜全はそのぬかるみに足を取られ身動きが取れなくなってしまった。ト全の家臣種田信濃守兼久・助之丞正元兄弟は主人を助けようとしたものの多くの一揆勢に囲まれてしまい万事窮した。氏家隊は壊滅に近い損害を被ってしまった。
【探索のヒント】海津市歴史民族資料館の学芸員の方に同行していただきました。国道258号線「盤若谷交差点」を東へ向かうと「海津橋」へ出ます。橋の手前に右へ向かう道があります。細い方の道へ入ってすぐ左に五輪塔があります。これが卜全と一緒に戦死した兵の「供養塔」@です。ここから西にある商店の前に「卜全沢」Aの碑があります。この辺りは水が湧いてぬかるみになっていました。卜全の乗った馬はここで足を取られて動けなくなり、そこを一揆勢に襲われ卜全は命を落としました。また卜全の首を洗った沢とも言われています。その遺骸が葬られた「卜全の墓」Bは国道258号線「盤若谷交差点」を北上します。右手に「パチンコサンキュー」を見たら次の交差点を右折して近鉄養老線の踏み切りを渡ります。「南濃中部浄化センター」へ向かう道ですがセンター前に若干スペースがあるので駐車できます。そこから養老線に沿って北へ向かうと右手に墓を見つけることが出来ます。
●供養塔【MAP】 ●卜全沢【MAP】
【駐車場】なし 【最寄の駅】近鉄養老線「石津駅」
【最寄のバス停】海津市営バス「海津橋・海津橋西」
●氏家卜全の墓
【MAP】
【駐車場】なし 【最寄の駅】近鉄養老線「美濃山崎駅」

 

SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO