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@願證寺―桑名市長島町杉江
浄土真宗に帰依していた安田信慶が1264年願證寺を建て子の信裕を開基とした。時代は下り1497年信裕に子供が無かったので願證寺を継ぐため蓮如の子蓮淳が養子に迎えられた。1510年本願寺宗主となった孫の証如を後見するため蓮淳は次男実恵に跡を継がせた。その後北勢四十八家の一つで長島を支配していた伊藤氏を滅ぼし、長島は本願寺門徒衆の手に落ちた。長島には門徒衆の他に美濃斎藤竜興、尾張石橋義忠
三河上宮寺勝祐のように信長や家康によって追放された者や得体の知れない輩が集まってきていた。やがて長島はどの領主にも従わない厄介な集団になっていった。
前年絶体絶命のピンチを脱した信長は弟信興を死に追いやったという恨みと所詮農民や坊主、無頼者の寄せ集め集団と言う侮りからまずは簡単に攻略できそうな長島を選んだ。この頃願證寺には大坂本願寺から下間三位頼旦、下間頼盛が派遣されており、伊藤氏から奪った砦に雑賀衆や門徒衆、地侍、百姓を入れ信長の来襲に備えていた。そして一旦戦闘が始まると頼胆の号令一下、攻めかかる織田軍に鉄砲や槍、弓で応戦、川を渡ろうとした織田軍の兵士は水中へ沈んでいった。
6月6日当時願證寺住職だった證意法眼は織田軍が引き上げたあと放火された多度の村を視察に言った時、山中に隠れていた織田の敗残兵によって射殺されてしまった。享年35歳。このため嫡子顕忍が11歳でその跡を継ぐことになった。
【探索のヒント】元の願證寺は長良川の付け替え工事で水没してしまい今は残っていません。長島の西側の堤防に長島町教育委員会が設置した長良川の案内看板がありますがその長良川方向に願證寺@はありました。現在の願證寺A(長島町又木)は江戸時代からある祐泉寺が願證寺門徒のために明治になって名前を変えたものです。桑名方面から行くと国道一号線「長島橋」を越えてすぐ右の細い道へ入って行きます。道なりに進んでいくと左手に「願證寺駐車場」があります。この横の細い道を下ると左手に願證寺の広い駐車場があります。
●杉江願證寺【MAP】:【駐車場】なし
               【最寄のバス停】桑名市コミュニテュバス「杉江集会所」
●又木願證寺
【MAP】:【駐車場】専用駐車場
               【最寄のバス停】三重交通バス「長島」
 
A小木江城
【探索のヒント】
 
B津島口
【探索のヒント】
 
C中筋口
【探索のヒント】
 
D太田口
太田口は大垣から桑名へ通じる街道にある。この街道は東が揖斐川、西は養老山地に挟まれているため「一騎討ちの節所」と呼ばれるように狭くなって大軍の移動がしにくい場所である。
【探索のヒント】
 
@AB
E氏家卜全戦死―岐阜県海津市貝津町安江
太田口から撤退を助けるため柴田勝家が殿軍をつとめた。襲い掛かる一揆勢に弓・鉄砲で応戦していた勝家隊だったが山側からも攻撃を受けた上、大将の勝家が負傷してしまった。これを見た氏家ト全隊が勝家に代わって殿軍になった。
この戦闘のあった太田を含めた揖斐川の西側の街道はすぐ側まで山と川が迫って狭くなっていた。また横を流れる川が氾濫を起こすと甚大な被害を引き起こす大河のため街道と言えどもぬかるんだ足場の悪いものだった。そのため殿軍として防戦していた卜全はそのぬかるみに足を取られ身動きが取れなくなってしまった。ト全の家臣種田信濃守兼久・助之丞正元兄弟は主人を助けようとしたものの多くの一揆勢に囲まれてしまい万事窮した。氏家隊は壊滅に近い損害を被ってしまった。
【探索のヒント】海津市歴史民族資料館の学芸員の方に同行していただきました。国道258号線「盤若谷交差点」を東へ向かうと「海津橋」へ出ます。橋の手前に右へ向かう道があります。細い方の道へ入ってすぐ左に五輪塔があります。これが卜全と一緒に戦死した兵の「供養塔」@です。ここから西にある商店の前に「卜全沢」Aの碑があります。この辺りは水が湧いてぬかるみになっていました。卜全の乗った馬はここで足を取られて動けなくなり、そこを一揆勢に襲われ卜全は命を落としました。また卜全の首を洗った沢とも言われています。その遺骸が葬られた「卜全の墓」Bは国道258号線「盤若谷交差点」を北上します。右手に「パチンコサンキュー」を見たら次の交差点を右折して近鉄養老線の踏み切りを渡ります。「南濃中部浄化センター」へ向かう道ですがセンター前に若干スペースがあるので駐車できます。そこから養老線に沿って北へ向かうと右手に墓を見つけることが出来ます。
●供養塔【MAP】 ●卜全沢【MAP】
【駐車場】なし
【最寄の駅】近鉄養老線「石津駅」【最寄のバス停】海津市営バス「海津橋・海津橋西」
●氏家卜全の墓
【MAP】
【駐車場】なし 【最寄の駅】近鉄養老線「美濃山崎駅」