| 経過 |
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| 天正元年(1573)8月長年の宿敵朝倉義景・浅井長政を滅ぼした織田信長は休む間もなく織田軍主力に伊勢長島を再度攻めることを命じた。前回信長が長島攻めに失敗した後、長島に近い国人達が一揆側についたのを放置できないからであった。また信長は一揆勢を孤立させるため海上封鎖しようと次男織田信雄に伊勢大湊@で船の徴用も命じていた。 9月24日岐阜を出た信長は大垣城を経て25日太田城Aに陣を張った。信長の動きに合わせて26日佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らは近江衆を率いて一揆勢が立て篭もる西別所城Bを攻撃、陥落させた。柴田勝家と滝川一益は片岡掃部の坂井城Cを落城させ、さらに10月6日北廻城D近藤氏を降させた。 10月8日になって信長は東別所Eへ本陣を移した。萱生城F・伊坂城G春日部氏、赤堀城H赤堀氏、桑部南城I大儀原氏、千種城J千草氏、長深城K冨永氏および田辺九郎次郎・中島勘解由左衛門のように信長に人質を差し出して恭順の意を表す者がいる一方、白山城L中村将監のようにを最後まで抵抗する者もいた。 誤算は大湊で海上封鎖に必要な船を十分に集められなかったことだった。対峙が長引くのを嫌った信長は長島攻めを断念、矢田城Mに滝川一益を入れ25日大垣城へ引き上げることにした。撤退ルートは前回勝家が襲われたのと同じものだった。それを知った一揆勢は多芸山Nに先回りして織田軍に攻撃を仕掛けた。折り悪く大雨の中の撤退だったため自慢の鉄砲隊も機能せず、隘路のため逃げ道もなく白兵戦で血路を切り開くしかなかった。混乱しながらも退く織田軍の殿軍は林秀貞の息子新次郎であった。林隊の奮戦のおかげで本隊は何とか大垣城へ戻れたが新次郎共々林隊は全滅してしまった。 |