@大湊
【探索のヒント】
A太田城―岐阜県海津市南濃町太田【MAP】
織田信秀に仕えた太田宗清が信秀の命で築城した。信秀直轄の津島から真西へ8キロ、一時支配した大垣城から19キロに南に位置し、目の前を流れる揖斐川を行き交う船の監視をする継ぎの城だった。
太田氏は菅原氏を祖とする先祖が美濃太田村を領したことからこの姓を名乗った。宗清の子宗隆は丹羽長秀に長秀死後は秀吉に仕えた。秀吉の九州討伐後、豊後臼杵城を拝領、しかし家康との勢力争いに負けて失脚した。関ヶ原合戦では西軍に突き破れるが黒田孝高によって助命された。太田城跡とされる願臨寺はその子孫太田昌右衛門が創建した。
【探索のヒント】この付近には氏家卜全が戦死した「卜全沢」や他の戦死者を祀った「供養塔」があります。道が細いので路駐はできませんが堤防のそばに砂利を敷いた駐車スペースがあるので短時間なら大丈夫です。
【駐車場】なし
【最寄の駅】近鉄養老線「石津駅」【最寄のバス停】海津市営バス「海津橋・海津橋西」
 
@A
B
B西別所城―桑名市西別所【MAP】
北勢四十八家後藤氏の城。采女城の後藤氏とは別系統。城主の後藤基成は北畠氏に従う矢田俊元の与力。員弁川を見下ろす丘陵の先端に築かれた小さな砦は八風峠を越えて遠征してきた秀吉・信盛・長秀らの大軍の前に成すすべなく落城した。
【探索のヒント】車で行くなら員弁川の北側を走る国道421号線の「西所別第三交差点」で側道に入りY字路を左折します。三岐鉄道北勢線の踏切を渡り蓮花寺川沿いの道を進んで行きます。そのまま進むと道が右に曲がり住宅街に入ります。ガードレール沿いに車を停める事が出来るのでそこで駐車、住宅街を東へ入って行きます。目標は「八幡神社」です。ここを通過、道なりに進むと右手に稲荷社Bが見えてきます。道が左へ曲がっている辺りAが城跡です。「第一南公園」へ上がってみると城跡とされる場所にはすごく立派な家@が建っています。
【駐車場】なし 【最寄の駅】三岐鉄道北勢線「西別所駅」
 
C坂井城
【探索のヒント】
 
D北廻城
【探索のヒント】
 
@A
E尾畑城―桑名市東方尾畑【MAP】
城主は中島右衛門または田部伊勢丸とされる。最後まで抵抗した白山城は南西1.2キロの地点にあり直接見ることは出来ない。むしろここへ本陣を移したのは長島方面の動きを見るためであったと思われる。
信長がここへ陣を張っているとき京都・静原山で抵抗していた山本対馬の首が明智光秀によりもたらされている。
【探索のヒント】ここを訪れた他の方も述べておられる通り民家の背後にある城跡Aなのでカメラを持ってうろついていると怪しまれそうです。周囲をぐるりと回りましたが竹林や雑木林で中を窺うことは出来ませんでした。目標としては桑名駅の西にある「照源寺霊園」の更に西にある小山です。私は自転車で行きましたが車では城跡の南西の交差点付近@は道幅が広いのでちょっとぐらいなら停める事が出来そうです。
【駐車場】なし
【最寄の駅】近鉄・JR「桑名」【最寄のバス停】桑名市コミュニティバス「北別所」
 
F萱生城
萱生氏と伊坂氏は同族で本姓は春日部氏と伝わる。春日部氏は「進士春日部系図」によれば伊勢平氏平正度とし「萱生氏系図」は古代豪族紀氏の紀長谷雄を祖とする。1204年の伊勢で起こった平家再興の反乱―三日平氏の乱に敗れた春日部氏の祖富田三郎は尾張に移されるが1331年その子孫春日部詮義(「萱生氏系図だと春日部宗實)が北畠氏の与力となり後醍醐天皇よりを朝明郡萱生を与えられ、萱生城・伊坂城・星川城を本拠として春日部氏は分かれて行った。
萱生氏は「北方一揆連署状」に「紀四郎実次」と署名。守護の細川持之(細川勝元の父)が永源寺領守忠名の代官に推挙した春日部左近将監は萱生氏の可能性がある。「織田信雄分限帳」に千種郷・平尾郷で250貫を与えられたとある。
伊坂氏は「太郎左衛門尉之実」「左衛門二郎満実」の名が「北方一揆連署状」に載る。1477年の時点で伊坂氏は領土を取り上げられていた可能性がある。それは幕府奉行人飯尾弾正が自分の知行地である「勢州いさか跡」の年貢徴収に梅戸氏の助力を求める願いを幕府に出している記録があるからである。そんな伊坂氏ではあるが戦国期には桑名郡東金井郷に五左衛門が200貫、才助が170貫(うち10貫は饗庭郷)、員弁郡志知郷に太郎一が300貫与えられ復活を果たしていた。
【探索のヒント】
 
G伊坂城
【探索のヒント】
 
H赤堀城
【探索のヒント】
 
@A
I桑部城―桑名市桑部【MAP】
桑部城には北城と南城があった。北城城主は毛利次郎左衛門。南城城主は大儀須若狭守。信長が東別所に本陣を構えると周辺の国人達は人質を出すなどして和を乞うた。若狭守も人質を出したが許されなかった。若狭守は城を枕に討ち死にを覚悟、織田軍に包囲されると井戸に投身して果てた。
【探索のヒント】造成中@につき何にもありません。元は員弁川に面した標高50メートルの丘陵でした。北城は一辺50メートルの菱形の郭、南城は80メートル×40メートルの長方形の郭でした。唯一城を実感させてくれるのは桑部橋から南へ走る道の右手にある城山稲荷Aぐらいです。川沿いの道以外は比較的交通量も少なく路駐できます。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】桑名市コミュニティバス「桑名橋」
 
J千種城
【探索のヒント】
 
K長深城
【探索のヒント】
 
@A
L白山城―桑名市西別所【MAP】
尾張国愛知郡中島村出身の中村将監が守る。周辺の国人や在地領主が次々と信長に降るが中島将監だけは一揆勢と共に白山城へ立て篭もり続けた。標高約60メートルの丘陵に築かれた白山城に対し、信長は金掘り衆を動員して地下からの攻撃を敢行した。これにより抵抗していた城方も降伏する事になった。
【探索のヒント】三岐鉄道北勢線「西別所駅」東側の踏切を渡り、そのまま真っ直ぐ進みます。道は右へカーブしながら国道258号線の下をくぐります。トンネルを出てすぐ左の道をひたすら直進します。左手に階段がありますが無視して山の中へ入って行きます。右側に「延寿院」を見ながら更に上ります。左側にラブホがあるその先に白山神社の鳥居があります。そこをくぐると祠@があり、その右側の竹林Aが平らになって曲輪跡を感じさせます。東は谷になっているのですが堀切らしきものも確認できます。
【駐車場】なし 【最寄の駅】三岐鉄道北勢線「西別所駅」
 
@A
M矢田城―桑名市矢田【MAP】
安芸毛利氏の家臣山内氏を祖とする矢田俊元が築城したとされる。矢田氏は伊勢国司北畠氏に属しこの付近の領主を配下に従え、北勢四十八家に数えられた。永禄11年の信長の第一回北伊勢攻めで落城している。天正5年6月9日俊元は滝川一益に攻められて自害する。これは前年北畠具教が信雄によって殺害されたためこの年弟具親が北畠再興のため挙兵したのと連動していたのかもしれない。
西別所が安定すると信長は矢田城を改修させて一益を守らせた。天正2年の長島一向一揆殲滅後は杉山左衛門、野呂孫右衛門が一益に代わって城代となった。
【探索のヒント】三岐鉄道北勢線「馬道駅」の北側にある「走井山公園」が城跡です。「愛宕山庚申塚」「殉国碑」のある辺りが最上部ということで本丸らしく、ここから一段下がった曲輪状の所には「勧学寺」があります。本多忠勝が桑名城主だったとき家臣の本多半弥が山麓にあった観音堂を矢田城跡に移したのが始まりです。公園には車を置くスペースが十分にあります。
【駐車場】公園内に駐車可能 【最寄の駅】三岐鉄道北勢線「馬道駅」
 
N多芸山
【探索のヒント】

 

SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO