| 経過 |
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| 天正2年正月年賀を祝うために岐阜城に集まった家臣に織田信長は前年討ち取った朝倉義景・浅井久政・浅井長政の首を箔濃にして披露し、積年の恨みを晴らせたことを祝った。しかしこの年、手に入れた越前が一向一揆に、東美濃の拠点岩村城を武田勝頼に奪われてしまい、信長を取り巻く状況が改善されることは無かった。そんな中、信長は足元の安定を図るため、また弟や多くの家臣を失った恨みを晴らすべく三度目の長島攻めを敢行した。 7月13日信長は北近江経営に乗り出したばかりの羽柴秀吉、河内・摂津の動きに備え鳥羽で布陣する明智光秀、岩村城を奪った武田勢に備える池田恒興、大坂本願寺・三好三人衆と摂津で対峙する河尻秀隆を除く織田軍の主力7万を津島に集結させた。たかだか坊主や農民、浪人らの寄せ集めと侮った結果、2度にわたって手痛い敗北を喫した信長は慎重に事を進めた。 14日信長は津島から早尾口@に向かい川に沿って南下した。一揆勢は途中の小木江村・篠橋砦A・こだみ崎Bでこれを阻止しようとしたが一蹴され、長島の東の砦Cはことごとく焼き払われた。この日信長は五明Dに陣を張った。信長と同時に柴田勝家・佐久間信盛隊3万は長島の西―香取口Eから松之木砦Fへ向かい一揆勢を追い払った。このとき織田信忠は後備えとして一ノ江Gで待機していた。 過去2度の敗北を教訓に信長が最も力を入れたのが織田水軍による海上封鎖であった。前回大湊の船主の協力が得られず失敗した海上封鎖を今回は九鬼嘉隆・滝川一益、さらに北畠信雄の水軍に加え、林秀貞・島田秀満率いる尾張の船団で行おうとした。15日予定通り長島の南に織田の大船団が姿をあらわした。船から兵が上陸すると一揆勢は砦を捨て長島へ逃げ出した。これを見て信長は信忠とともに殿名Hの伊藤屋敷に陣を移した。 こうして一揆勢が立て篭もる砦は大鳥居I・長島J・屋長島K・中江L・篠橋・となり、それを織田軍が包囲する形になった。そして織田軍による掃討作戦が決行された。 8月2日大鳥居砦が落城、それを見て12日篠橋砦の一揆勢が長島城へ退きたいと求めたきた。信長はこれを許した。 織田軍による包囲が2ヶ月半続くと長島・屋長島・中江の兵糧は底を尽いた。9月29日ついに長島城の一揆勢が降伏開城を申し出た。信長はこれに応じると見せかけ油断した一揆勢を皆殺しにした。そして残る屋長島・中江の砦を柵で囲み火を放った。逃げ場の無い一揆勢は全て焼け死んでしまったM。その数2万人といわれる。これを見届けた信長は岐阜へ引き上げた。 |