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@市江島―愛知県愛西市東條
市江島を支配していたのは記録に残る限り、鎌倉時代以前より地侍の黒宮党である。この時の頭領は黒宮治郎右衛門。市江島のすぐ西に建てられた小木江城襲撃に黒宮党も加わった。その為、信忠隊のターゲットになってしまった。現在もそうだが遮るものがない平地の市江島は大軍の展開がしやす
く、信忠軍2万はあっという間にこの地を蹂躙した。治郎右衛門は討死、多くの一向宗徒の住民も死亡した。こうしてほとんど無人の焼け野原となった市江島だったが、やがて無事逃げ延びた人々が戻って来たという。黒宮党でも「久留宮」と姓を変えて戻って来た人もいるし、信長と本願寺が和睦したのを契機に戻ってくる人もいた。また黒宮党の中には早くから木下家定(お禰の兄)や京極家に仕えた者もいたという。
黒宮党は津島天王祭と縁がある。津島天王祭の朝祭の先頭を飾る「市江車」は、1185年頃蔓延する疫病の退散を願って黒宮一族が作ったものである。もう少し詳しく書くと、市江島の地侍の頭領黒宮修理の下僕の子が「吾は牛頭天王である。広がる疫病を鎮めるには、船に様々な飾りを施し神に奉納しなさい」と告げた。修理は一族を集めそれに従ったというものである。この祭礼が天王祭の起源である。ところが「浪合記」では津島に土着した南朝の艮王親王を守る津島武士(四家七名字)が北朝方の佐屋村の台尻大隅守(=黒宮台尻守)を舟遊びに誘いだして討ち滅ぼしたのが天王祭の始まりとしている。これは天王祭は津島衆が始めたものだと言いたいがための創作と考えられる。
【探索のヒント】山路黒宮家惣助流6世当主・黒宮康明様からのメールを参考に市江島を散策しました。まず黒宮党の本拠は現在の市江小学校@あたりです。
【駐車場】 【最寄の駅】【最寄のバス停】
 
A一揆の拠点
信長が率いる主力2万は信長公記によれば木下秀長、浅井新八政澄、丹羽長秀、氏家直通、安藤守就、飯沼勘平長継、不破光治・直光、丸毛長照
・兼利、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条家忠、河尻秀隆、津田信広、飯尾尚清の隊で構成されているが河尻秀隆はこの時東美濃鶴ヶ城を守っているはずである。それでも大軍であることには違いなく、小木江村の一揆勢は蹴散らされ、対岸の篠橋砦から攻めて来た一揆勢は木下・浅井隊によって、さらにこだみ崎の河口に舟をつけて堤の上から織田軍を攻撃しようとしたが丹羽隊によっていとも簡単に撃退された。この他、前ヶ洲、海老江島、加路戸島、いくいら島にあった拠点には火がかけられ、難なく信長は長島に近い五明輪中に入ることができた。
【探索のヒント】長島にある輪中の郷館長にお尋ねしましたがこだみ崎は不明です。あとは地名は残ってはいますが当然昔の名残はありません。
【駐車場】 【最寄の駅】【最寄のバス停】
 
@A
B香取砦―桑名市多度町香取【MAP】
現法泉寺。揖斐川沿いの伊勢へ向かう街道の伊勢へ入り口にあたり、東の津島方面への渡り場でもあり、交通の要衝であったので砦が設けられた。ここを守ったのは世古左京。
甲斐出身の安田氏の子孫信慶(安田義明)が親鸞から法泉寺の名を賜り、更に時代が下り十世空珍の時、足利義晴から香取の地を与えられ法泉寺を創建したのが香取法泉寺の始まりである。本願寺の末寺という事で香取砦があったのではと推定されるが確証は無い。十一世空明時に信長との戦いが激化する。長島が壊滅すると2歳だった願證寺舎弟顕彗を助け出し大坂へ脱出した。
【探索のヒント】国道258号線「香取南交差点」の北「香取」の信号を東へ入ります。奥へ行くと道が細くなっていますがそのまま進行。郵便局を過ぎると南北へ走る道に突き当たります。そこを左折、民家が続く中で左側に民家が切れる所が法泉寺です。車で境内へ入っていけますが駐車スペースはあまりありません。
【駐車場】境内 【最寄の駅】近鉄養老線「多度駅」
 
@A
C長島へ一番乗り
香取口から松之木の渡しを使い長島松之木村へ行けた。ここには森小一郎が守る松之木砦があった。中江城主と同姓同名だが同一人物かは不明。現在は長良川中に没して存在しない。松之木の渡しから対岸の松之木砦を目指した柴田勝家隊の中で若干18歳の蒲生氏郷が一番に上陸、それに続いた柴田軍は砦の一揆勢五百あまりを打ち取った。
また柴田軍に属する佐久間信盛・信栄父子は近江衆を率いて松之木砦の南、坂手を占拠した。この付近には伊藤重晴が長島城を押領した時に伊藤与左衛門(長島記の自徳が同一人物であると桑名誌にある)に守らせた竹橋砦があった。重晴は一向宗徒と戦って戦死したが与左衛門は一向宗に協力した。佐久間隊と戦ったという記録はないが今回の総攻めで落城したらしい。与左衛門は又木村または尾張に逃げ延びたと言われる。
【探索のヒント】三重県遺跡情報公開しシステムで見ると県道106号桑名海津線の走っている中堤の長良川護岸工事現場の沖に砦は沈んでいる@ようです。正月だったので工事車両の出入りもなく車を停めることができました。「信長公記」には「馬上より一揆勢を蹴散らした」とあるので今と違いもう少し水深が浅かったのかもしれません。この付近で名所といえば木曽三川公園ですがそこよりもう少し南へ下ると治水神社と宝暦治水の碑があります。これは1754年から1755年にかけて行われた氾濫の多かった木曽川・長良川・揖斐川の治水工事に関わった薩摩藩士の偉業を讃えたものですというと聞こえはいいのですが、徳川幕府が薩摩藩の弱体化を謀り難工事をさせ多くの犠牲者が出た事に対する慰霊の意味があります。治水神社は多くの犠牲者を出し薩摩藩に莫大な支出をさせたことを詫びて自決したこの工事の総責任者薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)と藩士84人を祀っています。関ヶ原合戦とこの宝暦治水の一件が薩摩藩の討幕運動に一因になったと言われています。
竹橋砦は明治の河川改修工事により水田となりました。付近は農道なのでほとんど車の行き来もなく路上駐車できます。
●松之木砦【MAP】 ●竹橋砦 【MAP】:【駐車場】なし
 
@A
B 
D水軍に攻略された砦
長島沖は志摩の九鬼嘉隆水軍、熱田・常滑・桑名・白子など尾張から北伊勢の滝川一益、伊藤三丞、水野守隆、島田秀満、林秀貞らの船団、伊勢国司北畠信雄の南伊勢の船団で埋め尽くされた。これらは陸上部隊と呼応して一揆勢の砦に攻撃を加えた。特に九鬼水軍は安宅船14艘・軍船3百艘・小舟3百艘の大軍勢だった。その九鬼水軍は揖斐川を溯って行ったが水深が浅く座礁してしまった。しかし海戦に長けた九鬼水軍には銃身が太くて長い長銃が装備されていたので艦砲射撃によって陸上部隊を援護した。
桑名の東にある大島輪中には大島親左衛門親崇が一揆勢2千と立て籠もる大島砦があった。ここは北畠信雄、神戸信孝
、桑名衆が伊勢の船団を指揮して攻撃した。織田軍の艦砲射撃と上陸部隊の攻撃に約ひと月耐え、8月13日ようやく降伏した。しかし城を出たところを一斉射撃を受け全滅している。この戦いでは神戸信孝隊の峯八郎四郎、鹿伏兎六郎四郎が戦死している。ところが大島親嵩が無事前ヶ洲へ逃げることができていた。この人物は阿波三好長輝(之長)の弟長延の子で大島に移り大島姓に変えたという。長島の殲滅戦を生き残った親嵩は天正18年羽柴秀次の家臣となり長島に戻ってきた。親嵩は秀次の叔母を妻とし娘ができた。於国という。於国は秀次の側室になるが秀次事件に連座して処刑された。その地には瑞泉寺が建てられている。その後親嵩は出家し浄賢と名乗り大島にある道場に入った。後の長円寺である。
かつて現長島駅の北東から長良川に流れていた於多井川の川先に1544年に建てられた小田江神崎神社に小田御崎砦が作られた。丹羽長秀と長良川からの艦砲射撃により9月20日落城したと伝えられる。しかしこの場所は長島城域に当たるので陸上部隊が包囲したとは考えにくいと輪中の郷で教えられた。なお、実際の砦は洪水や河川改良により長良川に沈んでいる。ここを守ったのは梅戸高資と数百人の兵。北伊勢四十八家の梅戸高実(六角高頼の子)の子も高資(実秀)といい永禄11年に死亡している。梅戸井村史には織田信孝、羽柴秀吉に従い天正11年美濃で戦死とあり、長島町史では服部党の人物としている。砦の守備兵は全滅はせず中江城へ逃げた者もいたらしい。
【探索のヒント】大島砦は長良川の下に沈んでいます@。国道1号線「伊勢大橋東詰交差点」を南へ曲がり「なばなの里」方面へ行きます。うっかり直進するとなばなの里の駐車場へ入るので堤防の上を走る道へ向かいます。しばらく走ると左側に茶色の建物「国土交通省長島排水機場」がありこの前の長良川の沖に大島砦がありました。排水機場には駐車場があります。
小田御崎砦も長良川に沈んでいますが小田江神崎神社Bの由来文には砦跡という表記があります。駐車場がないので路駐になりますが堤防の道以外ならほとんど車が通らないので短時間ならどこでも大丈夫です。
本来の砦は神社から南へ行った大智院の前あたりの川の中です。
●大島砦【MAP】
【駐車場】国土交通省長島排水機場駐車場 【最寄りのバス停】桑名市コミュニティバス長島南回り「霞ヶ洲口」
●小田御崎砦 【MAP】:【駐車場】なし
 
 
 
D殿名・押付―桑名市長島町東殿名【MAP】
松ヶ島城主となった伊藤四郎重晴が一族の伊藤修理助を殿名城主とした。重晴戦死後は一向宗に味方した。その子千丸は了意と号し殿名に草庵を創る。これが現在の正敬寺のもととなる。
伊藤蔵人が城主に任じられた押付砦は殿名砦と同じ輪中にあった。重晴が戦死した戦いで蔵人も戦死している。蔵人の一族で平右衛門は松之木砦での織田軍との戦いで川中にある兜首を取って敵味方を驚かせたという。
長島城に最も近い押付には市橋長利・不破直光・丹羽長秀が陣取った。
【探索のヒント】殿名砦も押付砦も遺構は残っていません。東殿名の東側、木曽川に沈んでいるのが殿名砦@です。正敬寺Aは長島中学・長島中部小学校の川を挟んだ向かい側です。学校の前の駐車スペースを利用してください。
押付砦跡は桑名市教育委員会文化財ホームページの遺跡包蔵地検索でみると民家Bでした。数年前に来た時、駐車するところがなくて難儀しました。そこで今回は下調べしました。国道1号線「尾張大橋西詰交差点」を北へ入り、近鉄とJRの高架をくぐらず左の道を進みます。すると目の前に鉄塔がありその下に車が停められそうです。この付近は道幅が広く短時間なら駐車できます。もしそんな危険を冒したくなければ長島運動公園の駐車場は絶対にお勧めです。
●殿名砦【MAP】:【駐車場】なし 【最寄りのバス停】桑名市コミュニティバス長島北まわり「尾張大橋南詰」
●正敬寺
【MAP】:【駐車場】学校前の駐車場利用 【最寄りのバス停】桑名市コミュニティバス長島北まわり「中部小学校前」
●押付砦 【MAP】:【駐車場】なし 【最寄りのバス停】桑名市コミュニティバス長島北まわり「尾張大橋南詰」
 
@A
E大鳥居砦―桑名市多度町大鳥居【MAP】
水谷與三兵衛尉盈吉が約2千5百人の一揆と立て篭もる。ここを攻める柴田勝家、稲葉一鉄・貞通、蜂屋頼隆は大鳥居砦の南の今島に陣を張った。多度神社参拝のための船着場がありそこに大きな鳥居があったのが大鳥居の名の由来とされる。この船着場は当然砦への物品輸送にも利用されていたが織田水軍はここを封鎖して食料の搬入を阻止した。また海上から大鉄砲で砦に昼夜問わず砲撃を続けた。絶え間ない砲撃で精神的に疲れ餓死者が出だした一揆勢は信長に降服を申し出たが受け入れられなかった。大雨になった8月2日、夜陰に紛れて一揆勢は砦から脱出した。しかし付近を警戒していた柴田軍に見つかり次々と切り殺された。その数1千(信長公記)とか2千(桑名志)とされる。その遺体から切り取られた鼻や耳は船に積まれ信長のもとへ運ばれた。
【探索のヒント】三重県遺跡情報公開しシステムの地図によるとこの付近に砦がありました。今は農地でその面影はありません。国道258号線「下野代交差点」を東へひたすら向かいます。両側に農地が広がりAやや道が左へ曲がった@辺りが砦の東端です。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】桑名市コミュニティバス「大鳥居」
 
@A
BC
F長島城―桑名市長島町西外面
現長島中部小学校・中学校。美濃平尾眞徳寺連枝住職證榮が美濃の門徒衆を引き連れ長島城に篭城した。篠橋砦から逃げてきた人々も収容したため約5千人が長島城に篭もっていたことになる。信長の狙いはそこにあった。食料が調達できない状況で更に籠城者が増えたため長島城は飢餓地獄となった。さらに病気も蔓延して籠城3ヶ月目には2千人が死亡した。残る3千人も餓死寸前だった。盟約を結んでいた甲斐武田勝頼の援軍も来そうに無かった。一揆勢は信長に降伏を願い出た。信長がこれを受け入れると篭城していた人々は輪中から退去するために船着場に向かって歩き始めた。そして退去者が船に乗ろうとしたまさにその時、船着場近くに身を潜めていた織田軍が一斉に襲い掛かった。銃撃される者、切り捨てられる者、川に落ちて溺死する者など退去者のほとんどが死んだ。銃撃された中に證榮の姿があった。この信長の裏切りに生き残った退去者7、8百が抜身一丁で織田軍に切り込んでいった。この戦いで信長の叔父信次、兄信広、弟秀成、従兄信成、妹婿佐治信方などの一門衆、古くから仕える荒川新八郎を含む馬廻衆など信長に近い者たちが切り殺された。織田軍を相手に暴れまわった生き残りの一揆勢は無人の陣所に駆け込むと身支度を整えて川を越え、多芸山・北伊勢方面から大坂へ逃げていった。この不手際に激怒した信長は残る中江城・屋長島砦に過酷な処分を下した。

1482年伊勢工藤氏の一族伊藤重晴が藤原道家の古城跡に再築城。以降、押付・殿名・篠橋・加路戸に砦を築いて長島一帯を支配した。伊藤氏の圧政に苦しむ領民に一向宗徒の平賀宗三が檀家を回り、年貢は伊藤氏より願証寺證恵上人に多く納めなさいと説いて回った。領民はそれに従うようになったので重晴はいつか懲らしめねばと考えていた。その間に證恵を中心に門徒は団結していった。そしてのち長島六坊を興した平賀、安田、長嵜、平野、飯田という者たちに扇動された領民は重晴を襲った。抵抗すらできなかった重晴は妻子を殺し自決した。こうして長島を支配下に置いた一向宗徒は信長の尾張・海東郡まで横領するに至った。1561年長島城は鯏浦の服部友定に預けられたが1568年正月、信長の謀略にかかり友定は自殺に追い込まれた。
【探索のヒント】国道1号線「長島橋交差点」を長島川沿いに北へ進むと左側に学校@が見えてきます。学校の前の川沿いに駐車スペースがあるのでここで車を停めてゆっくり散策できます。この川は長島城の堀跡Aとも言われています。老木の前に長島城の絵図面Bがあります。学校の前の橋を渡り、そろばん塾の前の細い道を通って少し広い道へ出たら左へ行きます。しばらく進むと右に入る道があるのでここを入ります。すると目の前にあるのが長島城の大手門Cです。明治9年蓮生寺(長島町又木77−3)に払い下げられました。
●長島城【MAP】 ●蓮正寺【MAP】
【駐車場】あり 【最寄の駅】JR関西本線「長島駅」近鉄名古屋線「近鉄長島駅」
【最寄りのバス停】桑名市コミュニティバス長島北まわり「中部小学校前」
 
G屋長島城―桑名市下深谷部【MAP】
平安後期奥州で起こった前九年の役の当事者安倍頼良(頼時)の第二子安倍貞任の子孫季任が安藤氏を名乗る。さらにその子孫季國(秀国)が南北朝動乱で南朝側について柳ヶ島城を与えられた。以降、安藤氏の本拠となる。城主季友(秀友・左京亮)の時、滝川一益が兵7百で攻めてきた。安藤家家臣水谷某は木曽川の土手に人形を多数設置し味方が多くいるように見せかけた。一益家臣加茂二郎左衛門はこれに騙され一益に「敵は陸で待ち構えるのに対しこちらは小舟なので不利です。長島攻めは大いくさなので一兵たりとも無駄に失うことはできないので川からの攻撃はやめ、山側の城を先に攻めた攻めましょう」との提案を受け入れ、一益は攻撃の矛先を山側に切り替えた。
第二次長島攻めで柴田・滝川軍の攻撃を受けた柳ヶ島城は城兵の逃亡が相次ぎ、安藤季友とその子季満・季行は城から討って出て戦死した。季満・季行兄弟の弟季晴と中将は近江・朽木へ逃げ延びた。季晴は土民となるが中将は信長の死後この地へ戻り、出家して真宗の寺明寂庵を建てた。この寺は1663年10月安養寺となる。
【探索のヒント】城之堀ポンプ場が城跡です。遺構のようなものは全くありません。
【駐車場】なし
 
@A
H中江城―桑名市播磨【MAP】
上之輪神社が推定地。中江式部が2千の一揆と立て篭もった。長島城での信長の騙し打ちに怒った門徒衆が織田陣地になだれ込んで織田方に多くの死傷者が出た。最後の最後まで自分に逆らい味方に損害を与える一揆ずれに信長の怒りは頂点に達した。砦の周りを何重もの柵で囲ませ決して砦から逃げ出せないようにすると砦に火を放った。砦内の者たちは全て生きながらにして焼き殺された。
中江城はもともと清和源氏森氏の末裔の城であった。森正久の時、尾張織田信秀と対立。信秀に城を囲まれると信秀の家臣生駒家長が正久の助命を願い出て、正久父子は生駒家に預けられた。嫡男正利は犬山城織田信清に仕えた。斉藤義竜が明智城を攻めた時救援のために城へ入るが討ち死にしてしまう。森家を継いだ弟正成は岩倉織田信安に仕えたが信長によって信安が滅ぼされると今度は信長に仕える事になった。その後伊勢方面で働く事になる。1567年中江城を与えられ城主に返り咲くことができた。永禄10年の北伊勢攻めでは前線基地になっている。この後正成は信雄のもとで各地で転戦、長島攻めでも活躍している。正成の三男清十郎正好が城主の時、長島の一揆に呼応した桑名の国人後藤・佐藤・毛利・渡辺・近藤・安藤・伊藤らに城を奪われた。
【探索のヒント】東名阪自動車道「桑名東IC」を下りて国道258号線に入らず直進、県道105号福島深谷線に入ります。JRと近鉄線の高架をくぐって少し行くと右側に上之輪神社@があります。駐車スペースの有無が不明なので高架を出たすぐ左にある工事現場に駐車しました。由来書がないのでどういった神社かは不明です。南北を川に囲まれた地形Aが砦跡を感じさせます。
【駐車場】なし 【最寄の駅】近鉄養老線「播磨駅」
 
I篠橋城―【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】 【最寄の駅】
 
@A
BC
D
Jその後の一向宗
信長と長島一向宗徒との戦いは織田軍は氏家卜全や信長一門衆を失うなど名立たる武将が犠牲になったが
門徒衆は2万人が犠牲になったという。そのうち名前の分かっているものはごくわずかでほとんどが農民や地侍など無名のもの達であった。
長島の殲滅戦から辛くも難を逃れた僧は北陸の真宗教団で過ごしていたが、信長の死後長島で寺を再興しようと戻ってきた者たちがいた。信長の戦い中俗名を名乗っていた長崎新蔵は
善明寺、平野知忍は深行寺、飯田九蔵は光栄寺、岡本庄助は源盛寺、山内七助は安養寺(鈴鹿市)E、水谷兵右衛門は中島寺(南濃町)Fを興した。これらは1690年正式に本願寺から長島六坊に認められた。
【探索のヒント】「長島一向一揆殉教之碑」@は又木願證寺にあります。桑名方面からだと国道1号線の「長島橋」の手前を右折、細い道を気にせずに進んでいくと左側に願證寺の臨時駐車場があります。その横の更に細い坂道を下ると願證寺へ到着します。
善明寺Aは同じく国道1号線で「長島橋」の北「又木交差点を左折、始めの十字路を左折した所です。
深行寺Bは願證寺へ行く道を曲がらずそのまま直進、皇大神宮を通りすぎると左に見えます。駐車場は完備です。
光栄寺C
は長島中学の西、堤防の横にあります。隣は松尾芭蕉の直筆の手紙が保管されている大智院です。
源盛寺Dは東名阪道へ繋がる県道7号線「大倉団地口交差点」を西へ向かいます。信号を過ぎて三つ目の辻を左折、狭い道に入って行きます。右の角に大きな家がある辻を右折した正面が源盛寺です。
●又木願證寺【MAP】 ●深行寺【MAP】
【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】桑名市コミュニティバス長島南北まわり「又木茶屋前」
●善明寺
【MAP】:【駐車場】あり【最寄の駅】JR関西本線「長島駅」近鉄名古屋線「近鉄長島駅」
【最寄りのバス停】桑名市コミュニティバス長島北まわり「中部小学校前」
●光栄寺
【MAP】:【駐車場】あり
●源盛寺
【MAP】:【駐車場】あり

 

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