@早尾口
【探索のヒント】
【駐車場】 【最寄の駅】【最寄のバス停】
 
A篠橋砦
【探索のヒント】
【駐車場】 【最寄の駅】【最寄のバス停】
 
Bこだみ崎
【探索のヒント】
【駐車場】なし 【最寄の駅】
 
C長島の東の砦
【探索のヒント】
 
D五明
【探索のヒント】
 
@A
E香取砦―桑名市多度町香取【MAP】
現法泉寺。揖斐川沿いの伊勢へ向かう街道の伊勢へ入り口にあたり、東の津島方面への渡り場でもあり、交通の要衝であったので砦が設けられた。ここを守ったのは世古左京。
甲斐出身の安田氏の子孫信慶(安田義明)が親鸞から法泉寺の名を賜り、更に時代が下り十世空珍の時、足利義晴から香取の地を与えられ法泉寺を創建したのが香取法泉寺の始まりである。本願寺の末寺という事で香取砦があったのではと推定されるが確証は無い。十一世空明時に信長との戦いが激化する。長島が壊滅すると2歳だった願證寺舎弟顕彗を助け出し大坂へ脱出した。
【探索のヒント】国道258号線「香取南交差点」の北「香取」の信号を東へ入ります。奥へ行くと道が細くなっていますがそのまま進行。郵便局を過ぎると南北へ走る道に突き当たります。そこを左折、民家が続く中で左側に民家が切れる所が法泉寺です。車で境内へ入っていけますが駐車スペースはあまりありません。
【駐車場】境内 【最寄の駅】近鉄養老線「多度駅」
 
F松之木砦―桑名市長島町杉江【MAP】
森小一郎が城主とされる。願證寺の北にあったが現在は水中に没して存在しない。松之木の渡しから対岸の松之木砦を目指した柴田勝家隊の中で若干18歳の蒲生氏郷が一番に上陸、それに続いた柴田軍は砦の一揆勢五百あまりを打ち取った。
【探索のヒント】何も無いので三重県遺跡情報公開しシステムでプリントアウトした地図を片手に杉江地区の堤防を歩き回りました。堤防は県道117号線が走り交通量はかなり少ないですが路駐は無理なので河川敷へ降りるための道のゲート前か堤防下の道へ停めましょう。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】桑名市コミュニテュバス「杉江集会所
 
G一之江
【探索のヒント】
 
H殿名
【探索のヒント】
 
@A
I大鳥居砦―桑名市多度町大鳥居【MAP】
水谷與三兵衛尉盈吉が約2千5百人の一揆と立て篭もる。ここを攻める柴田勝家、稲葉一鉄・貞通、蜂屋頼隆は大鳥居砦の南の今島に陣を張った。多度神社参拝のための船着場がありそこに大きな鳥居があったのが大鳥居の名の由来とされる。この船着場は当然砦への物品輸送にも利用されていたが織田水軍はここを封鎖して食料の搬入を阻止した。また海上から大鉄砲で砦に昼夜問わず砲撃を続けた。絶え間ない砲撃で精神的に疲れ餓死者が出だした一揆勢は信長に降服を申し出たが受け入れられなかった。大雨になった8月2日、夜陰に紛れて一揆勢は砦から脱出した。しかし付近を警戒していた柴田軍に見つかり次々と切り殺された。その数1千(信長公記)とか2千(桑名志)とされる。その遺体から切り取られた鼻や耳は船に積まれ信長のもとへ運ばれた。
【探索のヒント】三重県遺跡情報公開しシステムの地図によるとこの付近に砦がありました。今は農地でその面影はありません。国道258号線「下野代交差点」を東へひたすら向かいます。両側に農地が広がりAやや道が左へ曲がった@辺りが砦の東端です。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】桑名市コミュニティバス「大鳥居」
 
@A
B
C
J長島城―桑名市長島町西外面
現長島中部小学校・中学校。美濃平尾眞徳寺連枝住職證榮が美濃の門徒衆を引き連れ長島城に篭城した。篠橋砦から逃げてきた人々も収容したため約5千人が長島城に篭もっていたことになる。信長の狙いはそこにあった。食料が調達できない状況で更に籠城者が増えたため長島城は飢餓地獄となった。さらに病気も蔓延して籠城3ヶ月目には2千人が死亡した。残る3千人も餓死寸前だった。盟約を結んでいた甲斐武田勝頼の援軍も来そうに無かった。一揆勢は信長に降伏を願い出た。信長がこれを受け入れると篭城していた人々は輪中から退去するために船着場に向かって歩き始めた。そして退去者が船に乗ろうとしたまさにその時、船着場近くに身を潜めていた織田軍が一斉に襲い掛かった。銃撃される者、切り捨てられる者、川に落ちて溺死する者など退去者のほとんどが死んだ。銃撃された中に證榮の姿があった。この信長の裏切りに生き残った退去者7、8百が抜身一丁で織田軍に切り込んでいった。この戦いで信長の叔父信次、兄信広、弟秀成、従兄信成、妹婿佐治信方などの一門衆、古くから仕える荒川新八郎を含む馬廻衆など信長に近い者たちが切り殺された。織田軍を相手に暴れまわった生き残りの一揆勢は無人の陣所に駆け込むと身支度を整えて川を越え、多芸山・北伊勢方面から大坂へ逃げていった。この不手際に激怒した信長は残る中江城・屋長島砦に過酷な処分を下した。

1482年伊勢工藤氏の一族伊藤重晴が藤原道家の古城跡に再築城。以降、押付・殿名・篠橋・加路戸に砦を築いて長島一帯を支配した。その後伊藤氏の圧政に耐えかねた領民が本願寺門徒衆と共に長島城を攻めて伊藤氏を追放、願證寺が代わりに長島を支配下に置いた。これ以降長島で本願寺門徒衆が増えていく。1561年長島城は鯏浦の服部友定に預けられたが1568年正月、信長の謀略にかかり友定は自殺に追い込まれた。
【探索のヒント】国道1号線「長島橋交差点」を長島川沿いに北へ進むと左側に学校@が見えてきます。学校の前の川沿いに駐車スペースがあるのでここで車を停めてゆっくり散策できます。この川は長島城の堀跡Aとも言われています。老木の前に長島城の絵図面Bがあります。学校の前の橋を渡り、そろばん塾の前の細い道を通って少し広い道へ出たら左へ行きます。しばらく進むと右に入る道があるのでここを入ります。すると目の前にあるのが長島城の大手門Cです。明治9年蓮生寺(長島町又木77−3)に払い下げられました。
●長島城【MAP】
【駐車場】あり 【最寄の駅】JR関西本線「長島駅」近鉄名古屋線「近鉄長島駅」
●蓮正寺
【MAP】
【駐車場】あり 【最寄の駅】JR関西本線「長島駅」近鉄名古屋線「近鉄長島駅」
 
K屋長島砦
【探索のヒント】
 
@A
L中江城―桑名市播磨【MAP】
上之輪神社が推定地。中江式部が2千の一揆と立て篭もった。長島城での信長の騙し打ちに怒った門徒衆が織田陣地になだれ込んで織田方に多くの死傷者が出た。最後の最後まで自分に逆らい味方に損害を与える一揆ずれに信長の怒りは頂点に達した。砦の周りを何重もの柵で囲ませ決して砦から逃げ出せないようにすると砦に火を放った。砦内の者たちは全て生きながらにして焼き殺された。
中江城はもともと清和源氏森氏の末裔の城であった。森正久の時、尾張織田信秀と対立。信秀に城を囲まれると信秀の家臣生駒家長が正久の助命を願い出て、正久父子は生駒家に預けられた。嫡男正利は犬山城織田信清に仕えた。斉藤義竜が明智城を攻めた時救援のために城へ入るが討ち死にしてしまう。森家を継いだ弟正成は岩倉織田信安に仕えたが信長によって信安が滅ぼされると今度は信長に仕える事になった。その後伊勢方面で働く事になる。1567年中江城を与えられ城主に返り咲くことができた。永禄10年の北伊勢攻めでは前線基地になっている。この後正成は信雄のもとで各地で転戦、長島攻めでも活躍している。正成の三男清十郎正好が城主の時、長島の一揆に呼応した桑名の国人後藤・佐藤・毛利・渡辺・近藤・安藤・伊藤らに城を奪われた。
【探索のヒント】東名阪自動車道「桑名東IC」を下りて国道258号線に入らず直進、県道105号福島深谷線に入ります。JRと近鉄線の高架をくぐって少し行くと右側に上之輪神社@があります。駐車スペースの有無が不明なので高架を出たすぐ左にある工事現場に駐車しました。由来書がないのでどういった神社かは不明です。南北を川に囲まれた地形Aが砦跡を感じさせます。
【駐車場】なし 【最寄の駅】近鉄養老線「播磨駅」
 
@A
Mその後の一向宗
信長と長島一向宗徒との戦いは織田軍は氏家卜全や信長一門衆を失うなど名立たる武将が犠牲になったが
門徒衆は2万人が犠牲@になったという。そのうち名前の分かっているものはごくわずかでほとんどが農民や地侍など無名のもの達であった。
長島の殲滅戦から辛くも難を逃れた僧は北陸の真宗教団で過ごしていたが、信長の死後長島で寺を再興しようと戻ってきた者たちがいた。信長の戦い中俗名を名乗っていた長崎新蔵は
善明寺(長島町中町A、平野知忍は深行寺(長島町殿名)B、飯田九蔵は光栄寺(長島町遠浅)C、岡本庄助は源盛寺(長島町平方)D、山内七助は安養寺(鈴鹿市)E、水谷兵右衛門は中島寺(南濃町)Fを興した。これらは1690年正式に本願寺から長島六坊に認められた。
【探索のヒント】「長島一向一揆殉教之碑」は又木願證寺にあります。桑名方面からだと国道1号線の「長島橋」の手前を右折、細い道を気にせずに進んでいくと左側に願證寺の臨時駐車場があります。その横の更に細い坂道を下ると願證寺へ到着します。
善明寺は同じく国道1号線で「長島橋」の北「又木交差点を左折、始めの十字路を左折した所です。
●又木願證寺【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】三重交通バス「長島」
●善明寺
【MAP】
【駐車場】あり【最寄の駅】JR関西本線「長島駅」近鉄名古屋線「近鉄長島駅」