富田長繁の反乱
経過
 
  天正元年(1573)8月朝倉義景を倒した織田信長桂田長俊(前波吉継)義景直領を与え越前守護代とし、降参した土橋城朝倉(土橋)景鏡安居城@朝倉(安居)景健・は本領安堵、鳥羽城A魚住景固は旧領に加え丹生郡を、金津城溝江大炊助堀江氏旧領を加増された。 ところが信長に寝返ったにもかかわらず思ったほどの恩賞にあずからなかった人物がいた。龍門寺城主富田長繁である。主家の朝倉一族でなく同僚の桂田長俊の破格の待遇を不満に思った長繁は同じく長俊の圧政に苦しんでいた民衆を味方につけ挙兵した。天正2年正月18日のことである。志比の庄で起こった一揆は周辺の民衆が加わり総勢3万3千人に膨れ上がり19日には長俊のいる一乗谷に南北から攻め込んだB。手勢4〜5百では支えきれないのは分かっていたが長俊は果敢に撃って出て戦死し、一乗谷山から三万谷へ向かった長俊の家族らは翌日には一揆勢に捕えられ殺害された。
 勢いに乗った一揆は織田の奉行三人がいる北の庄へ向かった。木下祐久・津田元嘉・三沢少兵衛が住む朝倉土佐守邸Cを攻める一揆に安居景健織田三郎景胤(弟七郎景泰と共に朝倉姓から織田姓に改名)が長繁と交渉して岐阜へ戻ることを了解させた。岐阜へ戻った三人の報告により信長木目峠に砦Dを設置させ、さらに小谷城木下秀吉には北国街道の警備を命じた。織田の奉行衆を追放した長繁24日魚住景固を自宅に招きこれを謀殺した。こうして挙兵からわずか一週間で越前をほぼ手に入れた。しかしこの長繁の暴走ともいえる行動に一時協力した者たちも次第に離れて行った。
 こうした越前の混乱に乗じて本願寺顕如越前を本願寺教国とするため正月下旬尾山御坊から七里頼周越前に派遣した。頼周来援直後河合の庄百姓八杉の一揆が藤巻Eで隠棲していた乙部勘解由左衛門尉義綱を、2月上旬西の庄の一揆が三留城F三富孫六郎景信河合の庄の一揆が舟寄村G黒坂備中守与七を襲撃した。粗方の武家勢力を排除した頼周2月中旬13万5千といわれる一揆を指揮し自称越前守護代富田長繁排除を開始した。まず2月13日長繁の家臣増井甚内新光寺城Hで、さらに毛屋猪助朝倉土佐守屋敷で討ち取った。そして14日には一揆勢は長繁府中を完全に包囲した。しかし歴戦の勇士長繁がやすやすと一揆ふぜいにやられるわけにいかなかった。16日早朝、帆山河原の敵陣を急襲して2〜3千を討ち取った。17日今度は反本願寺派の門徒の協力を得て北の庄に進軍、水落付近で一揆勢と激戦となるがこれを撃退した。さらにその夕刻織田方から離反した安居景健・織田景胤長泉寺山の砦Iを攻めた。しかし攻めきれず一旦後退、山の麓で陣を張った。18日早朝、長繁は敵砦の攻略に向かった。ところが家臣の小林三郎二郎により長繁は背後から鉄砲で銃撃され落馬、首を取られてしまったJ。24歳であった。 
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