@
@安居城― 【MAP】
【探索のヒント】
 
 
@A
A魚住景固館―鯖江市神明町5丁目
城主魚住景固は「一乗谷四奉行」に数えられる朝倉家の重臣であった。国人堀江景忠の反乱の鎮圧や信長の金が崎城攻めに対する朝倉本隊の先陣、若狭で信長に味方した粟屋勝久の国吉城攻めなど務めた。1573年夏まで小谷城に近い丁野城で指揮を執っていたが義景最後の出陣の時は府中に戻っていた。義景から中河内へ出兵命令が出たが拒否、府中に留まった。義景が大野へ退却すると嫡男彦三郎を敦賀の信長の許へ送り「義景は景鏡の本拠大野へ向かっていますが景鏡、平泉寺含め義景に味方するものは最早一人もいません。信長公におかれましては安心して府中までお進みください」と伝え、降伏している。だが20日に府中へ入った信長はその日上杉謙信に宛てた手紙では「魚住も景鏡も成敗するつもりだ」と書いてある。そうとも知らず景固は大野へ向かっていた。結局、景固は信長に許され所領も加増され優遇された。
しかし安寧な日々は続かなかった。桂田長俊を討ち滅ぼした富田長繁は何を思ったか景固排除に動いたのである。一説には暴走した長繁を諌めたのが原因だと言われる。いずれにしても景固と次男彦四郎は朝食に富田邸に招かれしこたま酒を飲まされ、次に秘蔵の名刀があるのでお目に掛けたいと奥座敷に誘われたところを切り殺された。嫡男彦三郎一家は鳥羽邸にいたが襲撃してきた冨田勢に惨殺されてしまった。
景固の祖父景貞は播磨の赤松氏に仕えていたが嘉吉の乱で赤松氏が没落、流浪の末朝倉孝景(英林)に仕えることとなった。景貞のように孝景の越前平定過程で他家から仕官して来た者や代々朝倉家に仕えた地侍は内衆と呼ばれ朝倉氏の領国支配の根幹をなす直臣団であった。
景固の居城として名前の挙がっている鳥羽城は英林孝景の叔父将景の城だった。将景の娘は孝景に嫁ぎ氏景を生むが、孝景と将景は対立して越前守護斯波義敏と守護代甲斐常治の戦い―長禄合戦で敵味方に分かれ戦うことになる。この戦いで将景と嫡男景正が戦死したため将景の曾孫景富が跡を継いだ。この一族は鳥羽を地盤にしていたので鳥羽姓も名乗った。
この景富から3代後の与三景忠の時、信長の第二次越前攻めに遭った。柴田勝家・丹羽長秀の攻撃を受け城兵6百人が討ち死にしたが景忠は無事城から脱出、府中で抵抗活動に入る。
一般的に義景の死を以て名門朝倉氏は滅亡したと表現されるが朝倉一族が全滅したわけではない。そこで生き残った朝倉一族は再度越前に返り咲こうと活動するのである。景鏡・景健・景尚・修理進・景茂が戦死や死亡、出家で朝倉家再興の権利を手にしたのは越後に逃げていた景嘉であった。上杉謙信の後ろ盾で越前復帰を狙っていたが1578年謙信の死により不可能となった。丁度その頃と推定される書状が『吉川家文書之二』に残っている。差出人は朝倉宮増丸。詳細は不明だが朝倉一族らしい。内容は「牢人を集め越前に攻め込み府中に身を隠す与三景忠を朝倉家当主に据えたいので毛利一族並びに足利義昭の協力を得たい」というものである。これは毛利が上月城攻めで織田方を破ったのを受けて頼ったものとみられる。結局、大名朝倉の再興はならず江戸幕府幕臣として朝倉氏が残っただけである。
【探索のヒント】魚住景固の居城跡は確定されていません。でも「鯖江市史」と「福井県の中近世城館跡」によると推定地は2か所になります。前者は魚住備後守景固館で福井鉄道福武線「鳥羽中駅」付近としています。明治9年の地籍図から東西55メートル南北60メートルの方形の縄張りで主要街道の北陸道がある西側に虎口と周囲の空堀、その内側の裾幅8メートルの土塁があったことが確認できます。ちょうど長浜市の三田村館のような感じです。居館の東にあった黒津川は今も流れていますが明治9年とは流れが変わっている可能性もあります。鯖江市まなべ館の方の話では何年か前までは駅北側に土塁跡らしきものは残っていたそうです。黒津川の流れがほとんど変わっていないのなら地籍図から鳥羽小学校のプールの北の農地@になります。後者の本は「日本城郭体系」などの資料から国道8号線「御幸交差点」を南へ行った日華化学鯖江物流センター付近Aを景固の鳥羽野城推定地として紹介しています。もちろん遺構はありません。
●魚住景固館【MAP】:【駐車場】なし 
【最寄りの駅】福井鉄道福武線「鳥羽中駅」

●鳥羽野城【MAP】:【駐車場】なし
【最寄りの駅】JR北陸本線「北鯖江駅」
 
@A
BC
B三万谷―福井市三万谷町【MAP】
前波吉継は一乗谷奉行人だった兄の景当が1570年11月の近江堅田の戦いで戦死したためその跡を継いだ。景当には勝秀がいたが消息不明で、のち秀吉のお伽衆となっている。
政務執行官である一乗谷奉行人は同名衆の朝倉掃部助家・玄蕃助家と内衆の魚住家、河合家、小泉家、前波家の事実上六家の中から二人から四人が交代で選任された。この中で前波氏だけが早くから朝倉氏に仕えていた根本被官であった。朝倉家3代貞景時代の記録にも奉行として前波氏の名が挙がっているし、義景主宰の1561年の三里浜犬追物興行、1562年阿波賀河原の中秋の曲水宴の一大イベントに吉継は参加している。
そのような高待遇であった吉継が何故義景を裏切ることになったのか。その真偽は不明だが「義景の鷹狩りに遅参したうえに義景の前を下馬せずに通ったため勘当され、それを恨んだ」「吉継の嫡男が信長に内通しているとの讒言を信じた義景の怒りを買ったため」「兄景当の跡目を望んだことが義景の勘気に触れた」という説がある。だが朝倉政権の中枢にあった吉継にはこれ以上義景に従っていても展望は開けないと感じたのかもしれない。元亀元年には春から秋まで毎月のように北近江に出陣するもののこれといった成果はなく朝倉家にとっては消耗ばかり。当然財政的にも厳しくなっていく様子は政権内にいる人間なら分かっていたはずである。しかも恩賞が出ないとなれば厭戦気分が高まっても当然である。
『朝倉始末記』に「およそ軍に財がなければ、城を保つことはできず、また軍に恩賞がない時は、武士は集まってこない。香餌の下には必ず懸魚があり、重賞のもとには必ず勇夫ありというが、この(前波・富田)寝返りも恩賞のないためである」とあるのが理由ではなかろうか。
息子二人(孫太郎・弥五郎)と信長に寝返った吉継は織田軍の越前侵攻の先導役として活躍する。そしていち早く寝返った功績により越前守護代となり主家朝倉氏を臣下に置く立場となった桂田長俊と名を変えた成り上がりの吉継は傲慢になり欲に溺れた生活になった。当然これに眉をひそめる者も出てきた。そうした不穏な動きに気づかず12月上旬、信長に謁見するため京へ向かった。しかし帰りに眼病を患い、一乗谷に戻った頃には失明同然になった。人々は天罰が下ったのだと噂した。
年が明けてすぐに反桂田を旗印に富田長俊とその同調者、それと一揆勢が一乗谷に迫った。富田長俊は毛家猪助・増井甚内の兵と府中の一揆勢5万を指揮して上城戸から、大野郡・志比庄・坂井郡・本郷・棗の一揆勢3万3千は下木戸から一乗谷へ攻め寄せた。一方の吉継の手勢はわずかに3〜5百。最早結果は見えていたが盲目同然の吉継は甲冑に身を包み、上城戸の富田勢の迎撃に向かった。しかしあっという間に討ち取られ、詰め城である一乗谷山城から搦め手から三万谷に逃げた一族郎党も村の一揆勢に囚われ惨殺された。なお、信長が毛利攻めに出陣した1582年安土城二の丸番衆の中に前波弥五郎という名がある。吉継の子と言われている。
【探索のヒント】前波吉継の館@は瓜割清水の前の道を南へさらに進んだ右側の石灯籠や庭石がたくさんあるお宅です。一乗谷Aの吉継一族・郎党が逃亡を謀った三万谷は一乗谷城の東側、搦手のあった方角です。搦手は蔵作へ行くのですが時期は雪深い福井の冬なので美濃街道へ早く出れる三万谷の方を選んだのでしょう。一乗谷城搦手へ行くのに便利な林道美山線から林道釜淵線Bを1キロ下ると集落Cがあります。集落といってもほとんど田圃です。市波へ行けば町になっています。
●前波吉継邸【MAP】:【駐車場】一乗谷史跡公園駐車場
【最寄りのバス停】京福バス東郷線「朝倉館前」
●三万谷【MAP】:【駐車場】路上駐車 
 
@A
C朝倉土佐守館―福井市中央1丁目【MAP】
『朝倉始末記』は木下助左衛門祐久・明智十兵衛光秀・津田九郎次郎元嘉、『信長の判物』には木下祐久・羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益・三沢少兵衛・津田元嘉の名が奉行としてある。秀吉・一益は小谷城攻めに戻り、光秀も10月には越前を離れているということから木下・三沢・津田の三名が残ったものと思われる(藤井譲治氏)。
朝倉土佐守は信長の第一次越前攻めでは兵2千を率いて金ヶ崎城救援に駆け付け、堅田の戦いでは浅井朝倉軍の大将となった朝倉景行である。刀禰坂の戦いで秀吉隊の手にかかり戦死したという。なお、景行は正しくは景種で『河口庄勘定帳』、『朝倉義景亭御成記』の朝倉二郎右衛門尉も景種のことである。
織田三奉行の後、ここに入った毛屋猪助の館は足羽川の南側にあったとされ旧町名に猪之助町というのがあった。この邸は櫓もあげていたそうである。
ついでに九十九橋について。天正3年北ノ庄城主となった柴田勝家がそれまで木造の橋だったのを「半石半木」、すなわち橋の南半分を石造、北半分を木造とするための工事を足羽山麓の石工彦三郎に命じた。福井特産の笏谷石を足羽山から採掘しそれを加工する職人が住んでいたので足羽山麓には石場町・石坂町という町があった。彦三郎はその石坂町の石工大工の棟梁であった。勝家は21人の職人を用意し、うち10人は建設現場で残り11人は採掘現場で石橋が出来るまで専従せよと彦三郎に命じている。ところで通説では「半石半木橋」は敵が攻めて来た時に木造部分を落として侵入を防ぐためといわれているが『稿本福井市史』には他の理由として@川の北側は洪水が起こりやすいので橋が壊れても構わないように木造にしたA本当は全部石造にしたかったが北側は流れが速くて工事が困難となり木造にしたB世間の人をびっくりさせようとしたC川底から笏谷石の層が露出していたのでそれを利用したなどをあげている。
福井工業大学では調査・研究をして、川の南側―石造部の橋脚は間隔が狭いのに比べ、川の北側―木造部のそれはかなり広く作られていることに注目した。足羽川は三国湊と福井市内を結ぶ水運の大動脈で船の往来が多かった。船は水量の多い北側を通るので橋脚の幅は広く取らなくてはならない。しかし石橋は多くの橋脚でその重さを分散する必要があるので船が安全に通過できる間隔をとれない。そこで出た推論は勝家は石橋を架けたかったが先の理由から船の通る部分は橋脚間隔を広く取れる木造にせざるを得なかったのではなかったのかというものである。
【探索のヒント】土佐守館=北庄城はその所在が不明で柴田勝家の北庄城@と関係も不明です。越後下向途中の細川政元一行が土佐守館に一泊した記録(『冷泉為広卿越後下向日記』)があります。北陸道を木田・石場と通り北庄大橋を渡って館に着いたというものです。北庄大橋は九十九橋Aですがその先が全く不明です。北陸道が主要街道ということを考えると街道からあまり離れていなかったのではないでしょうか。
北ノ庄城跡は柴田神社になっています。駐車場はないので周辺のコインパーキングを利用するのが普通ですが神社前に3台ほどの駐車スペースはあります。市の許可をもらっている車だけが停められるのですが平日で短時間なら構わないと教えられました。JR福井駅から歩いて行けるところにあります。
【駐車場】なし 但し周辺に駐車場有
【最寄りの駅】JR北陸本線「福井駅」
 
@
D木の芽峠― 【MAP】
【探索のヒント】
 
 
@A
B
E藤巻館―永平寺町藤巻【MAP】
藤巻館には乙部勘解由左衛門義綱が隠棲していた。乙部氏は河合庄領主として朝倉氏の給人を務めていた。しかしかなり困窮していたらしい。禁裏領所であった河合庄の年貢が払えず、朝倉家奉行人河合五郎兵衛が金策に駆け回って代わりに支払ったという記録がある。こうした貧困状態から領民に過酷な使役を課していたのか、義景が滅んで本拠中角館から志比庄藤巻へ移り、姓も南部と改めて旧地との縁を切った義綱を河合庄の長百姓八杉が一揆を扇動して襲撃した。(辻川達雄氏説)これに対し義綱は逃亡、藤巻館は八杉の住居となった。この八杉なる人物は義景が一乗谷退去の折、福岡石見守吉清に託した二人の姫のうち姉の方を匿い大坂本願寺へ送り届けた八杉木兵衛ではないかといわれている。姉は教如の内室となったが妹は消息不明である。
乙部氏の館(中角館)はえちぜん鉄道三国芦原線「中角駅」を挟んで東西700メートル南北500メートルの地域の中角遺跡にあった。周溝墓や古墳が41基が発掘されている福井県下最大級の墓域である。木曽義仲が上洛の時、兵が飲んだ土器をここに埋めさせたという記録がある。
【探索のヒント】国道416号線を「牧福島交差点」を南へ入り、えちぜん鉄道勝山永平寺線を渡り国道158号線へ入る直前を左折します。そのまま山側に中学→小学校→図書館と見ながら道なりに進むと左側に鹿島神社があります。道を挟んでその向かい側の山の麓が藤巻館@です。地籍図では勘解由殿とあります。その山の南側に「永平寺大野道路」が建設されましたがその時の調査で土塁や平坦地が確認されています。残念ながら現在は立ち入り禁止になています。この道は交通量も激しくないので路駐は可能です。
中角館跡(福井市中角町)Aはえちぜん鉄道三国芦原線「中角駅」の東側にありました。九頭竜川右岸の堤防工事で白山神社と数件の民家の移転はありましたが地籍図と現地は大きな違いはないので推定は出来ます。ただ現在は民家と水田になっているので遺構はありません。駅の西側に駅利用者のための駐車場があります。ここから約500メートル東へ行くと光福寺と言うお寺があります。ここには乙部氏が退去したあとの中角館
にあった大石を運び出したところ、毎夜その大石が元の場所へ戻りたいと泣いたという伝説のある夜泣き石Bがあります。県道5号福井加賀線(芦原街道)の中角橋北側の側道からお寺の前に行けます。境内に駐車可能です。山門をくぐって右にあります。
●藤巻館:【駐車場】なし 路駐可能
【最寄りの駅】えちぜん鉄道勝山永平寺線「越前竹原駅」
●中角館【MAP】 :【駐車場】中角駅専用駐車場
【最寄りの駅】えちぜん鉄道三国芦原線「中角駅」
●光福寺【MAP】:【駐車場】境内に駐車
【最寄りのバス停】京福バス27系大学病院―新田塚線「中角」
>
 
@A
BC

DE
FG

F三留城―福井市三留町 【MAP】
初代朝倉孝景(敏景)の六男景儀の子景冬が三留城を築いたとされる。景冬は1555年加賀一向一揆との戦いで戦死し子の景信が跡を継いだ。富田の反乱では朝倉一族ということで一揆の襲撃を受けて一族は全滅した。これには長繁の家臣増井甚内も関係している可能性もある。以上は福井市のHPに載っていることで福井市に合併する前の清水町の町史では景冬の後を継いだのは弟の景総、景総の子景久としている。
三留城は五位山にあったとされ山頂には平削地残っている。居館は現正寿寺にあった。正寿寺は景久の子千代雅丸が父祖の供養のため建てたものである。
【探索のヒント】福井市方面から県道6号福井四ヶ浦線で「竹生交差点」まできます。ここで左折、次の「三留交差点」直前の右側の山が五位山@です。2010年6月に最初の訪問寺は軽装だったので山頂行きは諦めましたが10月再訪して登りました。昔は山に広場があって祭りに使っていたそうですが今はそれもなくなり、また山頂へ行く道もあったのですが家が建って通れなくなり地元の人は登らなくなったと山の持ち主に聞きました。なんとか登れないかと通りかかった人に聞くとJAと庄屋さんの家Gの間の道を行くと右側に墓地へ行く道があるのでその辺りから登れたとのこと。その通りに墓地を通り過ぎると右に山へ入って行く道がありその先に祠Aがあります。この左側からの登って行きました。登りきった地点が最高地Bで南側は一段低くなった平坦地Cになっています。遺構らしものは分かりませんでした。
JAの斜め前にあるのが正寿寺Dです。本堂横に墓地があるのですがその裏手に回ると景冬の五輪塔Eがあります。正寿寺は前住職が亡くなられて娘さんが管理していますが普段はここにいません。この娘さんが三富姓なのですが朝倉一門かどうかは不明です。
正寿寺の前の道を南へ行くと気比神社Fがあります。桂田長俊(前波吉継)に焼かれ一向一揆に焼かれましたが1592年に北ノ庄城主となった堀秀治により再建されました。
ついでですが先の書いたお庄屋さんのことですがこの付近の土地は全部この方のものでした。正寿寺同様、跡を継いだ方はいますがこちらには住んでいません。
なお、WEB地図だと「公民館」と表記されているのが「三留構造改善センター」となっているので車を止めにくく田圃横に路駐しました。
【駐車場】なし 路駐可能
【最寄りのバス停】京福バス76系西田中・宿堂線「三留」
 
@A
BC
D
G舟寄館―坂井市丸岡町舟寄(日東シンコー内)【MAP】
黒坂勘解由左衛門(備中)景久の館で景久が1572年7月に死亡(信長公記では1570年6月28日姉川合戦で戦死)したのでその子与七ら三兄弟が住んでいた。
河合庄の一揆に対し三兄弟、黒坂兵庫助・弥次右衛門、小木入道、田谷寺楽蔵坊・歓喜坊らが討って出て激しい戦闘を繰り広げたが全員討取られた。一揆の百姓たちがその首を総大将七里頼周のもとへ持って行ったところ「命令もしていないのに武士を殺害するとはけしからん」と逆にその百姓たちは成敗された。この一揆が百姓の自由行動ではなくあくまでも本願寺の統制下で行われているということを見せつけるためであった。
黒坂三兄弟が跡を継いで間もなく滅ぼされたので事績としては父の景久の方が残っている。1552年朝倉宗滴の加賀一向一揆攻めでは堀江景忠の配下として活躍、1570年の信長の第一次越前攻めでは兵5百で加賀との国境風谷峠を守っている。
余談だが一説で黒坂景久は姉川の戦いで戦死しているが討取ったのは小笠原氏助隊だった。その中で活躍したのが七人いた。所謂「七本槍」である。信長はその中の一人渡辺金大夫に「日本一の槍」との感状と脇差を与えている。理由は本陣から見ていて一番目目立ったから。実は七人は姉川を渡りそのうち五人は堤を下りて朝倉軍に接近、金大夫他一名は堤上を進んでいた。信長本陣からは堤の上しか見えず、金大夫は朱の逆笠に金の短冊が付いた指物を身に着けていたので信長の目に止まった。もう一人門奈左近右衛門の恰好が地味すぎて目立たなかった。姉川合戦屏風でも金大夫は目立っている。なお金大夫は勝頼の高天神城攻め後、武田軍に従う。織田軍の高遠城攻めで銃撃され戦死している。
【探索のヒント】舟寄城の跡には現在日東シンコー@が建っています。1970年福井市内にあった会社が移転先としてここを選びました。この周辺同様、ここも田圃でした。そして建設工事を始めると地中から石塔Aが出てきました。丸岡町との話し合いで石塔の管理は会社がするということになりました。碑Bがあるだけで遺構は何も残っていません。地籍図で館の規模は東西110メートル南北80メートルで西側は館内に東と南は館外に10メートルの土塁があったと思われます。また北陸道が館の西にあったこと、地籍図に館の西側が「館ノ前」、東側が「館ノ後」とあるので館は西向きに建てられていたと推測されています。碑や石塔は正門右にありますが見学するには受付に申し出て下さい。
舟寄館のある「たかむくの里」では毎年旧盆の8月15日に「舟寄踊り」が行われます。姉川の合戦へ赴く前夜、舟寄の住人が景久の武運長久を願い、士気を上げるため踊ったのが起源と伝わっています。北陸の唯一の幹線道路北陸道Cが通る舟寄集落には自衛のため舟寄館と長崎城がありさらに敵の行軍を妨げるように街道を九十九折(七曲り)Dにしています。信長が街道の改修を行ってのち、七曲に沿って宿や商店ができ参勤交代で北陸道を利用する大名は必ず利用する宿場町となりました。
【駐車場】日東シンコ―駐車場
【最寄りのバス停】京福バスJR丸岡・本丸岡線「笹和田」
●北陸道七曲り【MAP】:【駐車場】なし 路上駐車
 
@A
BC

DE
FG
H新光寺城―福井市片山町 【MAP】
本願寺と浅井長政から再三催促されようやく越前を出発した朝倉義景が大嶽城へ入ったのが1572年7月29日である。ところが8月9日には富田長繁が郎党と共に織田陣地へ逃げ込んでいる。この郎党の一人が増井甚内である。鎌倉時代に創建された真光寺本堂を甚内は屋敷として使っていた(「越前国城蹟考」)。

真光寺は鎌倉時代に創建され丹生郡に5つの末寺を持つこの地区では最大の真言宗寺院だった。甚内の屋敷であった以外にそうした背景もあり、一揆勢に破壊の限りを尽くされ再建されることはなかった。かつては高さ20メートルと推定される五重の塔があったが室町末期火災のため焼失(これが一揆によるものかは不明)後、4メートルの石塔が再建された。
「信長公記」には富田長繁と寝返った人物として増井甚内の名はなく戸田与次郎の名前が挙がっている。戸田も甚内同様長繁が信頼する有力な家臣だった。今回の一揆の標的になったのかどうか不明だが翌年越前に攻め込んだ織田軍の中に同名を見ることができるので、生き残っていた可能性もある。
【探索のヒント】前回中途半端で終わっていたので三留城へ行く前に再訪しました。福井市中心部から県道28号福井朝日武生線を西へ。「田尻栃谷南交差点」を直進、「島寺交差点」を左折後「島寺南交差点」を左折、正面が新光寺城のあった山@です。西光寺の墓地駐車場は2台ほどしか停められないので路駐した方がいいかもしれません。「史跡 片山真光寺跡塔址」の看板に従って墓地横から坂を登って行きます。復元された石塔のある平坦地に五重塔Aがありました。塔跡左側の茂みから城跡へ行く小道があります。登るより降りるのが怖い急な坂を登りきった所に祠Bがあります。片山真光寺奥の院の推定地です。この左にさっきの道と比べると楽な山道があり山頂へ向かいます。10分足らずで城域になります。切岸C竪堀Dを左右に見て山頂へ到着。本丸跡には竜神神社Eがあります。神社の裏手には横堀があるのですが茂みで確認できませんでした。増井屋敷は片山八幡神社の北側の農地Fです。新光寺城と三留城間には遮るものがないので目視できます(画像は三留から新光寺)G。三留城へ一揆が攻め寄せるのを見た新光寺城では一気に緊張感が高まったことでしょう。
【駐車場】なし 路駐可能 
 
@A
B
I長泉寺山―鯖江市長泉寺町 富田長繁の忠臣たちを次々葬った一揆勢は七里頼周に先導されて府中を包囲した。その内訳は
 湯尾峠―新道・杣山・葉原・鯖波の門徒衆2万 
 鯖江の西から大虫―社庄・織田荘・厨・本郷・棗三郷の門徒衆3万5千
 浅水から北の庄―和田本覚寺、大町専修寺に率いられた北袋・南袋・志比庄・河合庄の門徒衆5万
 帆山河原―宅良・三尾野郷・北村の門徒衆3万
敵は想像を絶する大軍とはいえ「異類異形のいでたち、旗の紋の風情、言葉もさらに及び難くぞ見えにける」(朝倉始末記)寄せ集めの百姓集団。指揮系統などあるはずもないと判断した長繁は夜も明けきらない寅の刻(午前4時ごろ)、手勢7百を率い最も近くにいる帆山河原の一揆勢に奇襲をかけた。完全武装の長繁軍に対しまともな装備をしていない一揆勢はたちまち壊滅した。
初戦で快勝した長繁は永代3千石の恩賞を約束して府中の町衆1千5百と真宗三門徒(鯖江誠照寺3千・横越証誠寺2千・中野専照寺不明)の協力を得て北ノ庄の奪回に向かった。これに対し頼周は一揆軍4隊でこれに当たらせた。しかし先の戦いと同じく戦い慣れた富田軍の前に数を頼りに対抗した一揆勢はたちまち追い散らされた。
富田軍と一揆軍が戦った水落には長泉寺山があった。712年白山信仰の祖泰澄が白山姫神を勧請、玉林寺を創建した山でその後山中から泉が湧きだしたので寺の名は長泉寺と名を変えられそれが山の名前となった。976年天台宗に改宗した長泉寺の朝倉時代の寺領は数千石で32坊を有し平泉寺同様、各寺坊は土塁に囲まれていた。この長泉寺山上には一揆勢に寝返った安居景健、織田景胤が陣を張っていた。 長繁はこれを攻撃すべく夕刻になっていたが山へ攻め登った。しかし砦の抵抗は激しく景健方は守将の荒木兄弟を失ったが冨田勢を退けた。夜になり兵の消耗も激しくなったので長繁は一旦撤退、麓で一夜を明かして翌早朝、再度攻撃を仕掛けた。その時一発の銃弾が長繁を背後から貫き、長繁は落馬、絶命した。撃ったのは小林三郎二郎吉隆。桂田長俊に仕えていたが長繁と一揆が一乗谷を攻めると早々と長繁に寝返った者である。
【探索のヒント】日野川の右岸、村国山の南麓が帆山です。「太平記」で金ヶ崎城を攻める足利高経が謀反した瓜生氏に背後を突かれるのを避けるため武生の居城に戻ったところをその瓜生氏に襲われ大敗、斬られた首がさらされたのが帆山河原@でした。帆山橋近辺は車もよく通るので路駐は無理です。私は歩くのを覚悟で円照寺前に車を止めました。河川敷は遊歩道があるので川のそばまで行けます。
鯖江7代藩主間部詮勝が領民の憩いの場として作った嚮陽渓が前身の西山公園を含む標高112.6メートルの独立した山が長泉寺山Aです。そして現長泉寺町が寺の敷地でした。国道417号線建設に当たり、山を削ったので多くの遺構がなくなってしまいましたが鯖江市役所裏には山城の一部が残っています。遊歩道Bから逸れた所に遺構があるそうですが草枯れの季節にならないと分かりにくいということです。西山公園には駐車場が完備されています。遺構がある方は市役所の駐車場を利用します。
●帆山河原【MAP】 :【駐車場】なし
【最寄りの駅】JR北陸本線「武生駅」
【最寄りのバス停】越前市市民バス国高北日野ルート「帆山町」 
●長泉寺山(西山公園)【MAP】
【駐車場】無料公園駐車場5か所
【最寄りの駅】福井鉄道福武線「西山公園駅」
         JR北陸本線「鯖江駅」
【最寄りのバス停】鯖江市つつじバス中央線「西山公園」
 
@A
J富田長繁供養塔―鯖江市長泉寺町1丁目 【MAP】
富田長繁の反乱理由として前波吉継と比べ待遇が悪かったことへの不満。伊勢長島攻めの撤退中に一揆の攻撃を受け、信長が窮地に陥ったのを毛屋伊助が抜群の働きで救ったことに対する恩賞を前波に依頼したところこれを握りつぶしたばかりか、富田は府中城主として能力がないという報告を信長にしていたことに対する怒りが一般的にあげられる。
だが朝倉家の奉行である前波の寝返りと一般家臣の富田のそれとでは意味合いが違う。それが処遇の違いになったことは富田にも分かっていたはずである。やはり他の武士層と同じく前波の振る舞い(富田には家臣の恩賞の件で増幅した)に我慢ならなかったのであろう。武士の誇りが反乱の理由なのに対し、一揆の方は『朝倉始末記』にあるように過酷な税と使役が理由であった。武士側の本懐は前波一族を滅ぼして遂げられたはずだったが一揆は他国者織田三奉行も標的にした。前波襲撃には特に動きを見せなかった朝倉一族だったがこれには素早く反応した。
義景を滅ぼしたが信長は越前を統治するには時期尚早を判断した。それは加賀一向宗が健在だったからである。長島攻めで2度も煮え湯を飲まされた信長は越前に自軍を駐留させて一向宗が攻撃してきた場合、損害が出るのを回避したかった。そこで朝倉氏とその家臣団を越前に残し一向宗への防波堤にしようとした。その為には国内が一枚岩になってもらわなといけない。前波を守護代に抜擢した意図はここにあった。前波と朝倉氏が同等となったことで二頭体制で国を治めることにしたのである。それはお互いが信長の意向に背かないよう監視し合うという関係にもなる。つまり自分たちの立場は信長にどう気にいられるかということになる。こうしたことがあり一揆が土佐屋敷を包囲した時、朝倉景健・朝倉景胤は一揆と交渉して景健警固のもと三奉行の美濃帰国を可能にしてくれたのである。
この後、『朝倉始末記』の記述に従うなら富田は舎弟を信長に人質を出して守護職を拝領している。また朝倉氏には手を出していない。暴走した富田ではあるが越前は信長のものであり朝倉氏は自分の主家であるという武士の常識は残っていた。武士支配の構図を維持しようとする富田は加賀一向宗に扇動された一揆にとってはもはや同士ではなく敵であった。
【探索のヒント】富田長繁の墓碑(首塚・供養塔)@は長光寺合戦で長繁が戦死した場所と思われる所に戦死から264年後の1837年(天保8)7月8日に子孫である富田延美氏により建てられました。碑文によれば戦死直後に松3本が植えられた塚があり、供養塔を建てる頃にはその松が鬱蒼と茂っていたそうです。1889年(明治22)子孫の富田循良氏によって足羽山産出の笏谷石によって修繕されました。戒名は「中道院現住秀運法院」。
供養塔は歯塚大権現のお堂の前にあります。国道8号線「長泉寺交差点」を西へ行きます。信号を通り越した次の辻を左へ入ります。少しゆっくりぎみに行かないと見落とすぐらい目立たない碑Aが右側に建っています。道幅が狭いので路駐が出来ないので権現前のスペース(ここは医院の駐車場)に停めさしていただきましょう。長泉寺が戦火で焼かれた後、焼け残った経典などを集めて埋め経塚を作りました。その後経塚の上にお堂が建てられました。
歯塚は箸塚ともいい、村人が歯痛に耐えられずお箸をこの経塚に供えて拝んだところ痛みがひいたという言い伝えがあります。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】福井鉄道福武線「西山公園駅」

 

SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO