織田信長が稲葉山城攻略に腐心していた頃、伊勢地方はそこを統一する突出した勢力はなく、北伊勢は自治都市「十楽の津」の桑名衆①、古来よりその名のある「四日市」北部とその北の国人集団北方一揆②、同じく「四日市」北部の室町幕府奉公人の十ヶ所人数③、「四日市」の中南部の赤堀氏・浜田氏・後藤氏などの国人④に、中伊勢は亀山から鈴鹿の関盛信と津の雲出川までの長野具藤に、雲出川以南の南伊勢は国司北畠具房に分割支配されていた。しかしその構図が常に安定していたわけではなく周辺の六角氏や斎藤氏を巻き込んでの内紛も起こっていた。
永禄10年(1567)春時点で中美濃と西美濃の勢力を味方につけた信長は間もなく成せる美濃併合に備え足元の安定を図るべく北伊勢の統一に乗り出した。これに抜擢されたのが六角氏に仕えていた経歴を持つ滝川一益であった。3月一益は中江城を拠点に北伊勢の国人に衆を取り込んでいった。8月の信長自ら出陣した北伊勢攻めに一益の時に抵抗した国人たちも次々と織田の軍門に下って行った。その勢いのまま信長は南下を続け、神戸城の支城高岡城を囲んだ。しかし城主山路弾正の強固な抵抗に遭い城攻めは停滞、そんな時、西美濃三人衆が武田信玄と手を結んだという情報が入った。慌てた信長は一益を桑名城⑤に置き北伊勢の監視にあたらせ帰国して行った。 |