@A
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D
@桑名―【MAP】
奈良・平安時代の東海道は、都から伊賀国や近江国を経て伊勢国に入り、尾張国へ向かっていた。主要街道には、荷物や手紙の取り次ぎ所として駅家が設置されており、伊勢国には、鈴鹿駅・河曲駅・朝明駅・榎撫駅があった。榎撫駅は桑名にあり、木曽三川を船で渡って、尾張国の馬津駅に入った。
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
@A
【寄り道】慶長の町割り
桑名は各地にある伊勢神宮の領地―御厨・御園からの神饌米や御贄の集配地や尾張や駿河などの物資輸送基地として発展し、財を成した商人が集まり武家からの干渉を受けない自治都市を作り上げた。また八風峠や千草峠を越えてきた近江商人の中継地点でもあった。その自治都市として独立した桑名に1510年中伊勢の長野氏が攻め込んできた。桑名の住人は逃散し長野氏も関を設け桑名への立ち入りを制限した。すると船での輸送がストップ、伊勢神宮へ送られる物資が桑名で足止めとなった。困った伊勢神宮は長野氏に占拠を止めるよう再三要請、その結果長野氏は桑名から引き上げることになった。武力を用いず武家を退却させた桑名衆の実力が垣間見られる話である。
「十楽の津」と呼ばれる桑名湊により発展してきた桑名の町は、揖斐川の氾濫被害を避ける為に川の西側の高い場所に形成されてた。忠勝は全く新しく町を作り直す無駄を省くため、この町に東海道を通すことで城下町を作ろうとした。その結果、城近くにつくる侍屋敷群は町より東側、すなわち海抜の低い場所に作ることになった。これが桑名の町が大火に見舞われた時、城内に飛び火して天守閣を消失する結果を招いた。
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
@ A
【寄り道】赤須賀城―桑名市元赤須賀【MAP】
弘治・永禄期に水谷長左衛門正吉が築城。1571年に信長に降る。この年は第一次長島攻めの時なので、それに関連して攻められたのか。慶長の町割りでこの辺りは侍屋敷となった。
【探索のヒント】「慶長の町割り」によって城は消滅しました。桑名市の文化財埋蔵分布図によれば、貝塚公園の東の元赤須賀町@にある市営元赤須賀住宅の南の道を東へ行った突当たりの手前の木の生い茂ったお宅Aが城跡のようです。
【駐車場】なし 九華公園駐車場利用
【電車】JR関西本線・近鉄名古屋線「桑名駅」
三岐鉄道北勢線「西桑名駅」
【バス】三重交通バス市内A・B循環線「立教小学校前」
@ A
BC
A北方一揆・大木氏 大木城―員弁郡東員町大木【MAP】
 1453年の管領細川勝元からの書状が、大木駿河入道沙弥智観から北方一揆にもたらされた経緯から、この時期、北方一揆の中心が大木氏であったと考えられている。最初この書状を受け取った梅戸三河入道が、自分は隠居したのでこの件(守護一色氏の九鬼氏退治に一揆は中立でいてもらいたいという依頼)は、大木氏が窓口になっていると返事している事もこの説を裏付けている。だが40年後の1493年の記録では、所領を没収されている。この前年に足利義材の六角征伐が行われた事、その義材が所領没収前に明応の政変で失脚した事との関係が推察されている。なおこの所領は間もなく返還されている。天文年間になり、六角氏の北伊勢侵入が始まると、大木孫太郎賢仲は六角氏と結んで朝倉氏や横瀬氏と戦っている。
信長の侵攻時、大木兼能が城主と考えられるが、伝承では受領名が土佐守、安芸守、駿河守、舎人助があり、同一人物または別人と混乱している。滝川一益に降伏して信長に従った兼能だったが、天正4年一益から不信感を抱かれたため出奔した、と現地案内板にあるが、地誌では戦いに敗れこの地を去ったとある。この後、熊本で佐々成政・加藤清正に、子孫は細川氏に仕えている。ちなみに第三次長島一向一揆攻めで、織田信広(信長の庶兄)を討取ったのは、大木駿河とされるが、青木駿河と書かれているものもある。
【探索のヒント】員弁川左岸の丘陵端にあります。県道556号大泉東停車場北大社線沿いの大木神社の南側の道を道なりに、集落の中を進むと城の碑@があります。この背後の高台が主郭と考えられます。この遺構の北から東に堀Aその内側に土塁Bを備えた城域は、45×50mとされていますが、西側は竹林で確認できません。南の石積みCは後世のもですが、土塁は元のものかもしれません。なお、以前は100m南東の集落内の道沿いに土塁が残っていました。
【駐車場】なし
【電車】三岐鉄道北勢線「大泉駅」
@A
B
【寄り道】猪名部神社―員弁郡東員町北大社【MAP】
大木城の城主であった(1206年当時)員弁三郎行綱が、猪名部氏(伊勢の現住豪族と摂津国猪名川の豪族が合体した姓で、これを基に601年に猪名部郡が生まれ、713年に員辨郡に表記変更)の祖神伊香我色男命を祀る猪名部神社に、1192年流鏑馬の神事を奉納。これが今に続く大社祭の流鏑馬神事の始まりである。もう一つの「上げ馬神事」は、伊勢守護暗殺の嫌疑で捕らえられた員弁行綱が、平家の残党若菜五郎盛高が真犯人と分かり解放された事を祝ったもので、1203年から続いている。
【探索のヒント】大社祭は、4月の第一土・日に開催されます。もちろんこの日に行ってはいませんが、神社周辺の道はそれほど広くないので、車なら中央公園の駐車場に止めて、徒歩で行った方がいのかもしれません。本殿@は前方後円墳上に作られているのが珍しく、神社内最大の高塚古墳Aは猪名部氏の墓です。馬にまつわる祭礼が有名な神社らしく、神楽殿Bには馬の絵馬や馬霊碑、神馬像があります。
【駐車場】中央公園駐車場
【電車】三岐鉄道三岐線「北勢中央公園口駅」
      三岐鉄道北勢線「東員駅」
【バス】東員町コミュニティバス南部線城山(または笹尾)先回り「木村坂」
@ A
【寄り道】山田城―員弁郡東員町城山1丁目【MAP】
笹尾山にあったので、笹尾城とも言われる。 青木駿河守安豊が城主の時(1574)、織田軍に攻められ落城した(『員弁郡誌』)。山頂の540坪部分に、土塁や古井戸、城門跡があったが、団地造成に伴い消失。その前の昭和57年に発掘調査がなされ、屋敷跡や戦国期の日常土器、中国銭が見つかっている。
【探索のヒント】国道421号線「北山田西交差点」で、山の方へ登ります。そのまま道なりに進んで行ったポプラ公園@碑Aが建っています。公園内は土塁のようなものがありますが、全く関係ありません。
【駐車場】路駐
【電車】三岐鉄道北勢線「東員駅」
【バス】東員町コミュニティバス南部線城山(または笹尾)先回り「城山口」
@A
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A北方一揆・萱生氏 萱生城―四日市市萱生町【MAP】
春日部左衛門尉(大膳俊家)が城主の時、滝川軍の攻撃を受けた。『勢陽五鈴遺響』によれば数日で落城したと記し、『伊勢軍記』には8年も持ち堪えたとしている。
萱生城跡に建つ暁学園のHPに落城までの様子が描かれている。滝川軍が攻めてくると分かると高井民部少輔、小串次郎左ヱ門、赤堀藤五郎、草薙出雲守、大矢知遠江守、海老藤七郎、太田幸左衛門、水越伝右衛門ら北方一揆や国人衆と城兵合わせて3千はこれに備えた。8月2日一益は本陣を城の向かいの丘陵に置いて攻撃を開始した。しかし城の抵抗が激しく持久戦に持ち込むことにした。一月もすると城内の兵糧は不足し出した。9月21日この状況を打開しようと草薙・小串・海老・赤堀隊373人は夜陰に乗じて一益本陣を急襲しようと城を出た。しかし奇襲に備える分部・山県・白井隊がこれを撃滅した。手傷を負った小串は猪飼城に戻るが死亡。草薙は討死。海老・赤堀は遁走した。これが城に伝わると俊家は太田幸左衛門を使者に立てて、一益へ降伏を申し出た。
北方一揆の一つ春日部氏は伊勢平氏の富田進士家資を祖とする。家資は伊勢・伊賀の平家残党による三日平氏の乱の首謀者の一人で、伊賀守護大内惟義により討たれた。春日部氏は萱生城・伊坂城・星川城を拠点に北方一揆内では梅戸氏に次いで力を持っていた。
萱生春日部氏が力を持った背景には千種家との姻戚関係が大きいとする見方がある。永禄の初め頃、千種忠治が萱生城を攻めたが、守りを固めた城は容易に落ちなかった。その間に北畠具教が忠治討伐に動き始めたので、忠治はピンチに陥った。忠治は俊家に娘を俊家に嫁がせることで和議を結んだ。これにより両家は同盟関係となり、北伊勢に影響を持つようになる。
【探索のヒント】暁学園のある山@が城跡です。北を流れる朝明川は山の麓にぶつかるように流れていたと言われます。また東のバス通りに沿った川は、山寄りの今家の建っていない所を流れていた可能性もあるそうです。
学校建設前、山頂は幅30メートルもの巨大な堀で二つの曲輪に分かれていました。整地された今もその堀跡は体育館前の地形Aに見られます。現在校舎が建っている所Bには、周囲に5〜10メートルの堀を備えた25メートル四方の壇があったので本丸と考えられています。
造成により残された遺構は少しですが、萱生城殉難者供養碑Cを建てられた有志の方たちにより史跡の保存活動が行われています。史跡としては本校舎北側の髪のびの井戸D山神の碑E柱止めの基石Fがあります。髪のびの井戸は落城話によくある、城に詰めていた女房衆が身投げをした井戸として伝わります。この女房衆の怨念を鎮める為に山神を祀っているのかもしれません。
遺構とは認定されていませんが、学校総務課の方から土塁と思われると言われたのが、髪のびの井戸から体育館の方へ行った所にある焼却炉の横の土盛Gです。これ以外にも伊藤徳也氏が「再発見 北伊勢国の城」で曲輪跡と推定されているのが、髪のびの井戸へ行く途中の坂道の北の斜面H駐車場の奥I、正門の石段を登りきった左側の藪の中Jです。
【駐車場】学校駐車場(許可を得て下さい)
【電車】三岐鉄道「暁学園前駅」
【バス】三岐バス山之一色線「暁学園前」
 
A北方一揆・伊坂氏 伊坂城【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
 
A北方一揆・星川氏 星川城【MAP】
春日部若狭守資房が城主とされる。 平重盛(小松内府)の曾孫である進士宮内少輔家資が、春日部を称する。滝川一益の攻撃を受け、城から脱出した資房は、桑名の森忠に身を隠した。曾孫の伝八郎盛雄の時、大強原郷川北へ移り、百姓となった。
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
 
【寄り道】進士信俊翁頌徳碑―三重郡菰野町川北【MAP】
川北村で帰農した盛雄は、再び進士を名乗った。進士家は、1726年川北村が五井藩領となった時、大庄屋を命じられ、幕末に五井藩が廃され吹上藩に代わると、その伊勢多気郡・河輪郡・三重郡の領地、18村7700石の郡奉行となる。この時の当主が、進士信俊である。顕彰碑はこの信俊が行った偉業、たとえば戊辰戦争における東征軍が伊勢を通過する時に、吹上藩に成代わり、物資や金品の援助をした事、阿弥陀寺廃寺跡を保存や学校、役場の建設などの文化事業を援助したことなどを称えるために建てられた。
【探索のヒント】禅林寺から北へ360m行った個人宅の庭にあります。元はこのお宅から西へ130mの所にあった阿弥陀寺跡に、1903年建てられました。写真撮影のためお宅を訪問したところ、快く許可していただいた上、家に招いていただき、進士家の話を聞かせて頂くことができました。
【駐車場】路駐
【バス】菰野町コミュニティバス鵜川原川北線「鵜川原支所」
 
@A
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A北方一揆・梅戸氏 梅戸城―いなべ市大安町門前【MAP】
室町幕府は、 員弁川流域の在地領主を守護の下に置いた。これを北方一揆と呼び、春日部氏・南部氏と同じく伊勢平氏富田進士家資を祖とする梅戸氏が、その中心と言われる。1453年に出された細川勝元の北方一揆への命令書が、十ヶ所人数の朝倉常栄から梅戸三河入道にもたらされた記録が根拠となる。また1473年応仁の乱で西軍だった北伊勢の国人・土豪が、東軍の工藤長野氏とその援軍斎藤妙椿の攻撃を、梅戸氏の梅津城で迎え撃っていることからも、梅戸氏が在地領主を束ねていたことがうかがえる。この戦いは、美濃方が3百余人の犠牲を出したが、10月29日城を落としている。だが11月後半、北畠氏の援軍を得た一揆勢は反転攻勢に出て、12月末までに美濃勢は退却した。
だが応仁の乱後、梅戸右京亮が同じ一揆の萱生弥三郎と共に幕府奉公衆に取り立てられ、この一揆は消滅されたと考えられる。幕府とつながり、北勢で更に存在感を高めた梅戸氏は、自然と周辺国の争いに関わることになり、1488年は近江で京極高清に敗れた京極経政・多賀経家を受け入れ、1495年は美濃の内紛で、石丸利光から援軍要請を受けている。
1532年から始まる天文年間になると、梅戸家は南近江守護六角定頼の弟を梅戸高実として養子に迎えた。六角氏は伊勢平定の野望を実現するため、梅戸氏を足掛かりにしようと考え、梅戸氏は、長野(工藤)植藤が実効支配する桑名を手に入れ、桑名−八風街道の権益を一手に握るためであった。1536年から梅戸氏と長野氏は戦いを始めるが、六角氏の後押しもあり、梅戸氏が優勢であった。劣勢に立った長野氏は本願寺証如を頼り、その斡旋で桑名は梅戸・長野の共同支配で決着した。2年後、長野氏は軍事行動に出るも勝てず、共同支配が続いた。
その2年後、1540年9月六角義賢が北勢に侵攻して来た。この時、梅戸高実は大木賢仲と千草城に立て籠もり、長野植藤・朝倉賢茂・横瀬氏を撃退している。この戦いに敗れた長野氏は、桑名から撤退することになり、梅戸氏がようやく桑名を手に入れることができた。1561年高実が死亡すると、嫡男高宗が1554年亡くなっていたため、次男実秀が跡を継いだ。信長の伊勢侵攻で梅戸氏は、滅ぼされたとされる(『三国地誌』『勢陽五鈴遺響』)が、『織田信雄分限帳』には、梅戸次郎左衛門が、朝明郡長井の郷に140貫を与えられた記録がある。
【探索のヒント】 光蓮寺の駐車場から見て、南西の丘陵上@が城跡です。ウォーキング・コースAで登るのですが、途中右に入れる道があり、尾根伝いにも登れます。林が途切れた目の前に、切岸Bが出現します。この曲輪(13m×13m)上には、右から登るのですが、ここが虎口とされます。この曲輪の北の広場Cが次の曲輪です。東の一段下がった所に帯曲輪Dが確認できます。私は分からなかったのですが、この広場は南北にわずかの段差があって、25m×25mの南曲輪と20m×43mの北曲輪に分かれています。北曲輪の北には土塁Eがあり、ここに城の碑Fが建っています。本来のウォーキング・コースは、城の西の谷筋Gを通って碑へ到着しますが、この谷筋は堀であった可能性もあります。北勢に勢力をもった梅戸氏にしては、簡素な城跡です。今丘陵上は削られていますが、かつてはここにも何らかの施設があったかもしれません。
【駐車場】光蓮寺駐車場利用
【電車】三岐鉄道「大安駅」
@A
【寄り道】笠間山光蓮寺―いなべ市大安町門前【MAP】
736年に行基により創建されたと伝わる。当初は真言宗の寺であった。平安後期の作という県指定有形文化財の木造薬師如来坐像が本尊で、これも行基の手によるとも言われる。応永年間(1394-1427)に、本尊を残して寺は火災により焼失した。その後、心清和尚に帰依した梅戸高実の尽力により、臨済宗妙心寺派の寺として再興された。今ある「門前」という地名から、当時の光蓮寺がかなり大きな寺であった事が窺える。信長の侵攻を受け、主な堂塔は焼かれたと言われるが、1583年伊勢の滝川一益を攻めた羽柴秀吉が境内に陣を張り、門前に「軍勢押入乱妨之事」を禁じる札を建てたというので、寺として存立していたという事である。それでも本堂の再建は、1704年まで待たなければならなかった。この本堂は茅葺のものだったが、1991年に建て替えられるまで残っていた。
【探索のヒント】光蓮寺@は、三岐鉄道「大安駅」から南へ880m行った線路際にあります。梅戸高実のものと伝わる宝筐印塔Aは、線路に沿った道を北へ少し戻った墓地の奥にあります。事前に連絡していれば、薬師如来坐像や秀吉の禁制札を見ることができます。なお禁制札は記された日付や古さ加減から、本物ではないと判定している方がおられます。
【駐車場】光蓮寺駐車場
【電車】三岐鉄道「大安駅」
@A
BC
【寄り道】八風街道番所跡―いなべ市大安町門前【MAP】
近江と伊勢を結ぶ主要街道の一つ八風街道は、朝明川左岸(田光−平津−富田)の本街道と右岸(田光−梅戸−大社−馬道−桑名)の脇街道があり、尾張に近い脇街道の方が交通量が多かった。梅戸氏は、この脇街道に番所を設け、街道の権益を一手に取り仕切っていた。
【探索のヒント】光蓮寺から約300m南、白いガードレールの向こうに丘陵@があります。この丘陵に沿う水路に、青くペイントされた鉄が建っています(赤丸辺りA)。ここから雑木林へ入り、道はありませんが、左の方へ行きます。すると右の方に碑と道らしきものBがあります。この碑が八風街道番所跡Cを示すものです。
【駐車場】光蓮寺駐車場
【電車】三岐鉄道「大安駅」
@A
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【寄り道】田光城―三重郡菰野町田光【MAP】
田光城は田光川の左岸にある鈴鹿山脈から派生した丘陵上にあり、並行する八風街道の監視をしていた。平安中期に梅戸氏の祖とされる田光隼則により築かれたといわれる。戦国期に六角氏が伊勢へ侵入した時に落城するが、梅戸氏を継いだ六角高実が田光の重要性を認識していたので再興した。永禄11年の信長侵攻により再び落城した。
【探索のヒント】田光川に面した@多比鹿神社A本殿の裏手が城跡です。こっちから行った方が楽だったのに、本殿横の土塁上Aを進んで城跡へ入りました。この土塁は見張り台と思しき狭い曲輪Cに続いています。この曲輪を含めここには5つの曲輪が西へ段々に配置されています。C曲輪の東の最も低くなった所に南北に長い曲輪Dがあります。北の虎口Eを出た正面には東西に曲輪FGが並んでいます。CGF曲輪の間を通る城道は一旦左へ曲がってHから主郭Iへ入ります。北に井戸跡J北から東にかけ石積みされた土塁Kが遺構として残っています。また西にある庄屋の諸岡家墓地Lは櫓台と思われています。以上が城跡とされていますが、この西にある土橋Mを渡ると左右(南北)に何らかの遺構があります。左(南)の遺構は方形で周囲に石積み土塁Nがあります。ここに来て初めて田光城跡の札Oを見ました。右(北)の遺構は3つの方形遺構が北へ下がりながら連なっています。一番南Pが最も広い遺構です。この遺構で目に付いたのが北側にある窪みQです。この窪みと下の遺構Rの間には石組Sがあるので水を貯めていたのでしょう。これほどの遺構ですが『三重の中世城館』の縄張り図には記載されておらず、今回非常にお世話になった『再発見 北伊勢の城−伊藤徳也氏著』には記載されていますが、本来の城との関連には疑問を持っておられます。
【駐車場】田光公民館駐車場
【バス】菰野町コミュニティバス神森福王山線・潤田福王線「田光」
 
@A
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【寄り道】大井田城―いなべ市大安町大井田【MAP】
大井田は伊勢神宮の御厨であった。ここにあった大井田城は、築城者及び築城廃城時期は不明であるが、永禄年中は、梅戸氏家老栗田左衛門が居城したと言われる。『桑名誌』では、因(印)道信(心)入道の城としていることから、栗田=因道心とも考えられている。その最後のついては、信長によって梅戸氏と共に滅んだとか、同僚の讒言のため死んだと言われる。
【探索のヒント】大井田城は、三岐鉄道「大安駅」の駅前から北勢へ約300mにある丘陵@にありました。丘陵前の交差点を西へ城山通りを登って行くと、右に城跡を説明する立看があります。車はそこへ止めることもできますし、さらに西へ行くと左に待避所があるのでそこでも止められます。立看からだと道があり、石段Aを登ると梅林公園になっている、城跡で最も広い曲輪Bに出ます。しかし大井田城の遺構はここだけでなく、公園の西側の雑木林の中にもあります。そこへは城山通りを西へ登った「味専家びっくはんど」の裏側から行った方がいいと思います。
お店の裏手にある雑木林の入口には、クランク状の土塁Cがあります。林の中は全く手入れされていませんが、多くの土塁Dが確認できます。できるだけ宇賀川に沿ったところを東へ行くと、土塁の区画が小さくなり、突然目の前に1mを越える土塁Eが現れます。この上が公園になっています。土塁に沿った堀状の道を行くとさっきの立看へ行きます。また、城山通りを挟んで南の丘陵にも、土塁で区画された遺構Fがあります。
因道心を祀った首塚Gと墓の道心塚Hは、国道306号線の「田光交差点」から北へ3百m行った左の茂みの中にあります。または国道の西を並行する道(巡見道)を、田光川を渡ってしばらく行くと、道が左へ曲がった所から国道へ下りる階段があり、その先の茂みです。道心塚はすぐに分かります。首塚は国道に面した所にあります。
【駐車場】なし 路駐
【電車】三岐鉄道「大安駅」
●道心塚【MAP】
【駐車場】田光公民館駐車場
【バス】菰野町コミュニティバス神森福王山線・潤田福王線「田光」
 @A
B十ヶ所人数・南部氏 富田城―四日市市富田3−1
富田(とみだ)城はここを領地とした進士家資、その子基度の屋敷だった。1204年の三日平氏の乱では、基度がここに立て籠って鎌倉幕府軍と戦った。
1446年南部頼村が信濃国松本から移って来て北畠氏に属した。その後、頼宗・頼武・頼列・甲斐守兼綱と続く。兼綱は織田軍に攻められ戦死したとする説と翌永禄12年の木造城攻めの時に流れ矢に当って戦死したとする説がある(『伊勢名勝志』)。なお、十ヶ所人数に「なんぶ」とあるが、幕府奉公衆として番帳にその名はない。

【探索のヒント】四日市市立富田幼稚園@辺りが城跡と言われます。そこから県道8号四日市鈴鹿線を南へ2百メートル行った「生川歯科」の東隣の長興寺Aには、永禄7年5月南部甲斐守兼綱の城跡である現在地へ移転して来たという案内板があります。戦死した兼綱が埋葬されたお寺です。近くに車を止められる場所がなかったので、「イオンモール四日市北店」を利用しました。
●四日市立富田幼稚園【MAP】
【駐車場】なし
【電車】近鉄名古屋線「近鉄富田駅」 JR関西本線「富田駅」
●長興寺【MAP】
【駐車場】専用駐車場
【電車】近鉄名古屋線「近鉄富田駅」 JR関西本線「富田駅」
【寄り道】富田の一本松―四日市市東富田町3【MAP】
鎌倉時代から生える松は、茂福合戦(永禄3年)では神戸軍が、信長の伊勢攻め(永禄11年)では滝川軍が、伊勢湾から富田浜へ上陸する時の目印とした。1780年に起こった富田の大火でも焼けなかったが、伊勢湾台風の高潮により枯れてしまった。現在の松は2代目である。
【探索のヒント】国道1号線「近鉄富田駅口交差点」から100メートルほど南へ行った川を渡る手前にあります。交通量の多い国道1号線なので路駐は諦め、「イオンモール四日市北店」に車を止めて歩きました。
【駐車場】なし
【電車】近鉄名古屋線「近鉄富田駅」 JR関西本線「富田駅」
@A
【寄り道】大矢知城―四日市市大矢知町【MAP】
一色義直・義春が伊勢守護時代の小守護代に大矢知氏の名前が見える。幕府奉公衆ではないが、『三国地誌』によれば萱生一族、『伊勢名勝志』『勢陽五鈴遺響』『三重県風土史蹟』は南部氏の分家としている。いずれにしても進士家資を祖とする春日部一族には違いない。大矢知(南部)遠江守経頼が城主の時織田軍に降り、その後、柴田勝家の配下となったとされる。
【探索のヒント】城跡は県道9号四日市員弁線の「大矢知町北交差点」の北西にある丘陵@が城跡です。今は四日市市応急給水拠点の施設Aが建っています。かつては朝明川が丘陵のすぐ下を流れて天然の堀の役割をしていました。
【駐車場】路上駐車可
【電車】三岐鉄道「大矢知駅」
 @A
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B十ヶ所人数・冨永氏 長深城―員弁郡東員町長深【MAP】
暦応年間(1338−1341)に冨永筑後守富春が築城し、代々冨永氏の本拠となる。地誌などでは、永禄11年または天正年中の富知の時に、信長の攻撃を受けて滅んだとされる。だが「織田信雄分限帳」の「長源」や小牧長久手の戦いで戦死した「長ふけ」なる武士を、冨永氏と考えられるという意見もある。また城跡に天正9年に善正寺を開いた敬稱院釋祐順は、城主の一族という。
冨永氏は、三河国設楽郡富永保を本貫とし、三河在庁官人伴一族設楽氏の庶流である。鎌倉期以降に足利氏の被官となり、幕府奉公衆の二番と五番に冨永姓が見られる。そのうち筑後を称する二番が、長深城主の冨永氏とされる。なお名古屋市東区の冨永山養念寺住職冨永氏も、長深城主の子孫となっている。この場合、本姓は大伴で、北畠家に仕えて源姓となった。長深城を築いた筑後守の諱は、勝家。冨春は法名。勝家の祖先をたどると、4代前の顕利は北畠顕家に仕えた奥州宮城郡の人で、次の勝氏が伊勢で北畠氏に仕えている。その次の満長は、北畠満雅の命で甲賀移り、勝家の一代前は応仁の乱で戦死。勝家の代に再び伊勢に戻っている。勝家の3代後の勝秀の時、一益に攻められ開城。加藤清正に従って、文禄の役で釜山で戦死。その子勝吉は、織田秀信に仕えて、関ヶ原の前哨戦で、新加納十王堂前で討死している。
【探索のヒント】員弁川右岸の標高42mの丘陵上@に城はありました。現在お寺の西は道Aになっていますが、昔は西も丘陵と繋がっていました。善正寺Bの建っている所が主郭です。北側の建物の裏Cには、虎口らしきものがあったようですが、今は分からなくなっています。また境内南側に土塁の一部が残っていましたが、集会所を建てた時に破壊されてしまいました。しかしその時に地中から石積みの一部が発見され、本堂前の碑の周りに置かれていますD。また柿の木の植わっている東側の土盛Eは、土塁跡とお寺で伺いました。今宅地になっているお寺の東も曲輪でした。最近、北や東の斜面が崩れ、それを手当てしているため、だんだんと城の遺構が消えているそうです。
【駐車場】専用駐車場
【電車】三岐鉄道「北勢中央公園口駅」
【バス】東員町コミュニティバス南部線城山(または笹尾)先回り線「西守」
 @A
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B十ヶ所人数・海老名氏 下野城―四日市市山城町【MAP】
下野山城、源治山城ともいう。建武年中、足利尊氏より内宮領霜野御厨のこの地を与えられた見永藤七郎秀宗が、築城したと言われるが、海老名氏が正しい。
鎌倉幕府御家人であった海老名四郎左衛門は、尊氏につき新田義貞と戦い、その子信濃守は室町2代将軍義詮が、仁木義長に館を包囲された時、義詮の脱出を助けた3人の近習の一人であった。
こうした働きにより海老名一族は、代々幕府の名誉職を与えられた。奉公衆としては2番と4番に海老名氏の名があるが、伊勢海老名氏は2番の系統で信濃守を官途とした。なお下野城主としては、藤左衛門の名が残っている。

【探索のヒント】朝明川を見下ろす台地(通称キントキ山)の端の城跡@は、三岐鉄道により東西に分断Aされています。川に面した東側へは踏切の手前Bから入ると楽で、上下2段ある帯曲輪の下の方へ行けます。私は線路脇から入ったのでいきなり斜面を登る羽目になりました。これを下りると堀Cが逆「コ」の字型にあります。これを東へ登ると初めて平坦で広い場所Dに出ます。西側の遺構は、県道64号上海老茂福線「山城西交差点」から「市営あさけが丘団地」へ向かいます。住宅地へ行く階段の手前に、雑木林の中へ入る道があり、これをひたすら進むと信明総墓とある石碑Eがあります。この先、明確な道はありませんが、家を左手に見ながら突き進んで行きます。すると行き止まりになっています。ここで右を見ると先へ進めそうなので、さらに進みます。すると山城跡の碑Fがある平地に出ます。ここがもう一つの源治山城の遺構です。西から南にかけて土塁Gが残り、その外側に山の下へ繋がっている堀Hがあります。ここからは三岐鉄道を挟んで東の遺構がある山Iが見れます。ここが源治山城で、どのような役割だったかは、不明です。
【駐車場】県道622号線の路肩 マックスバリュー駐車場
【電車】三岐鉄道「山城駅」
【バス】三岐バス山之一色線「団地下」
 
@A
BC
D
E
F
G 
H 
IJ
KL
MN
O 
B十ヶ所人数・朝倉氏 保々西城―四日市市西村町【MAP】
伝承城主は、 朝倉詮眞、朝倉備前守(隆眞)。茂福城茂福盈盛(茂盛)、中野城中野藤太郎、富田城南部兼綱と共に、永禄11年10月に信長に滅ぼされたと伝わる。
【探索のヒント】最初に行ったのが、9月でした。北勢中央公園の野球場スコアボード裏@から入ったので、クモの巣と下草に辟易して途中断念しました。そして3月中旬、再度訪問しました。城跡への入口は先の野球場側と公園外の南東側Aにあります。東屋の左の谷筋Bが大手と思われます。ここを登りきると分岐点Cです。左へ進んで碑Dの左側、両側に深さ3m以上の空堀Eがある土橋を渡ると主郭Fです。主郭へは、谷筋の左(南)側の尾根を登っても行けます。土塁のある曲輪Gを二つ過ぎると、主郭Hに到着です。でも先の主郭へは、薮が邪魔で行けませんでした。
分岐点を右へ行くと、この城跡の特徴といえる方形郭群を通り、野球場側へ抜ける道Iがしっかりとついています。野球場側から入った場合、まず出会う遺構は土塁Jです。城は、南は朝明川を見下ろし、北は深い谷の平野に突き出した半島状の丘陵Kの先端にあります。この土塁は城を守るため、丘陵の付け根を横断していたと考えられます。従って今土塁が分断しているのは虎口ではないと考えられます。土塁を過ぎてしばらく行くと、左の雑木林に低い土塁Lがあります。9月は入る気分にもならなかった場所ですが、今回は踏み込みました。土塁を右手に見ながら進むと、横切る土塁と虎口Mがあります。ここを通り奥へ行くと土塁に囲まれた曲輪Nがあります。家臣団の居住空間と考えられ、ほとんどが主郭の北に、通路に面してO碁盤目に分かるだけで10個あります。
【駐車場】野球場そばに駐車場
【電車】三岐鉄道「北勢中央公園口駅」
 
@A
BC
DE
FG
HI
JK  
B十ヶ所人数・朝倉氏 市場城―四日市市市場町【MAP】
主郭部分とそれを取り巻く方形郭郡の構造で、保々西城との類似性が指摘され、保々西城の朝倉備前守が城主とされる。保々西城が丘陵を利用した構造であるのに対し、市場城は既存の集落に築城されたのではと言われる。また集落を通る街道を見張るような位置であることから、保々西城の支城とも考えられている。1992年以前は主郭の周辺に家臣団の住居跡と考えられる土塁跡が多数あった。
【探索のヒント】県道14号菰野東員線「今田橋南詰交差点」から北に250メートルの所に緑のテントの家があります。この横の細い道に入ります。土地改良区事務所の手前を左へ曲がると墓地があり車はここへ止めます。その墓地の右横の雑木林が市場城@の主郭です。入口は墓地の横にあり土橋Aを渡ります。井戸の碑Bを見て、中心部Cへ入るとほとんど手入れされず荒れ放題です。縄張り図を見ると主郭を囲む土塁は東Dと西にあるのですが、真中を通って西へ行く気にもならず、東側の土塁上を行くことにしました。ここには朝倉城跡E稲荷神社Fの碑があり、さらに進むと深い堀Gが土塁外に確認できます。この土塁が切れた部分が北の虎口Hです。この外側にさっきの堀を分断する土橋Iがあります。こちらが大手口とされます。この主郭は東・北・西に土塁と堀を設けていますが、南側は朝明川を天然の堀として利用しているので崖となっています。
城跡の東には家臣団屋敷があったであろう土塁Jが残っています。内部Kへ入れますがやはり整備されているわけではありません。
【駐車場】墓地駐車場利用
【電車】三岐鉄道「北勢中央公園口駅」
 
@A
B  
B十ヶ所人数・朝倉氏 茂福城―四日市市茂福町25【MAP】
朝倉下野守盈盛から掃部助盈豊まで数代が城主だった(『三重の中世城館』)。盈豊は永禄11年までに滝川一益の与力となっていたが、元亀2年2月5日一益の矢田城(長島城とも)へ呼び出され、大手門付近で殺害された。六角義賢に通じているという噂があったからだ。供回り28人も討取られた。この時遅れてやって来た小川勘右衛門は、敵から盈豊の首を奪い返し保々荘へ逃げた。一益は兵2千を以て茂福城を攻めた。城を守る盈豊の叔父下津入道宗貞は城兵380余人と共に城を討って出て全滅した。この後一益は山口氏を目代に置いた。この出来事は永禄10年とも言われる。盈豊には2歳の男子がいたが、家臣の林玄證の手により洪恩寺に逃がされた。この男子は玄證の娘と結婚して林三郎左衛門と名乗った。
【探索のヒント】県道64号上海老茂福線「八田三交差点」で国道1号線へ入り、桑名・名古屋方面へ向かいます。そして最初の信号を右折して道なりに行くと近鉄名古屋線の踏み切りの手前左側に碑@が建っています。その後ろの茂みが土塁跡Aです。ここは城の北西角にあたるという事で近鉄を挟んで反対側から見ると土塁の外に堀跡Bが確認できます。城跡はかなり前から宅地開発されこれ以外の遺構は確認できません。
【駐車場】土塁前に駐車
【電車】近鉄名古屋線「近鉄富田駅」
 
@A
【寄り道】茂福盈豊の首塚と茂福一族の墓―四日市市市場町【MAP】
小川勘右衛門宗春は、敵から取り戻した盈豊の首を懐に、敵の追撃をかわし大樹寺の前に埋めた。これが今も残る。
室町幕府奉公衆である十ヶ所人数ひとつ、伊勢朝倉氏の本貫は、三河と言われる。幕府番帳には、三つの伊勢朝倉氏が載るが、在京(左京亮系)と、伊勢在国の伊勢朝倉2家(備後守系と兵庫助系。両家の関係は不明。)に分かれる。また番帳以外の古文書や土地の伝承では、この二系統以外に、勘解由左衛門・下野守・備前守・阿茶丸・兵部大輔賢茂の名が見られる。この中で、朝倉備後入道常英は、幕府や醍醐寺との連絡、北方一揆への命令を行っている記録がある。十ヶ所人数は、それぞれが幕府に従っており、一揆ではないが、この記録からは、朝倉氏が他の十ヶ所人数(海老名氏を除く)より上位であったとも考えられる。
伊勢朝倉氏の居城は、朝明川の両岸に四つある。その内、保々西城・市場城・茂福城は、茂福朝倉氏(以下茂福氏)のものである。茂福氏は、保々御厨が本領であるが、内宮領茂福御厨を所有することで、十ヶ所人数に数えられる。先に挙げた番帳・古文書・伝承に載る、勘解由左衛門尉貞義(貞茂と同一人物か?)、下野守宗棟、下野守維俊が、茂福氏と考えられるが、矛盾を含んでいるため確定されたものではない。
天文9年、六角氏が梅戸氏と共に長野稙藤を攻めると、朝倉賢茂は同じ十ヶ所人数の横瀬氏と長野氏を助け、梅戸氏の千草城を攻めている。結局、長野氏が北勢から撤退すると、賢茂は六角氏と和睦している。その後、信長により朝倉氏は滅ばされたと伝わるが、『織田信雄分限帳』には、桑名郡額田郷に2百貫の領地を持つ茂福氏が載っている。
【探索のヒント】大樹寺の南西にある「人権プラザ小牧」の前にあります。駐車場があって、その奥に朝倉掃部助盈豊の首塚@、植え込みの奥に茂福一族の墓Aが並んでいます。ただそれぞれが誰の墓であるかは、不明という四日市教育委員会の回答を頂いています。
【駐車場】史跡前にあり
【電車】三岐鉄道「保々駅」
 
@A
【寄り道】大樹禅寺―四日市市市場町1005【MAP】
朝倉氏に招かれた臨済宗妙心寺派の桃隠玄朔が開いた。開山時は七堂伽藍を有し、一大修養道場として近郷の禅寺を統括する存在であったが、滝川軍により灰燼に帰す。だが信仰の火は衰えず、茅葺の掘立小屋が建てられ、布教は続けられた。やがて信者からの寄進を受けて、現在の堂宇が建立された。
【探索のヒント】県道14号菰野東員線「城下橋北交差点」を東へ。三岐鉄道をくぐってすぐ左折。左にカーブした先の十字路を右折して間もなく左に山門@があります。本堂Aへは、この先から車でも入って行けます。境内には樹齢300年というシイノキ「大樹寺のスダジイ」があるのですが、関心がなかったので、スルーしました。
【駐車場】駐車スペースあり
【電車】三岐鉄道「保々駅」
 
@
AB  
C国人・赤堀氏 赤堀城―四日市市城東21【MAP】
 赤堀氏の本貫は上野国赤堀郷で藤原秀郷を祖とする。上野国の赤堀氏は赤堀三郎左衛門入道勝謂と香林小次郎直秀の二家があった。勝謂が1353年上野国赤堀郷貢石村と伊勢国野辺御厨の地頭を安堵された2年後直秀の父時秀が赤堀又太郎時秀と名乗っている。この頃、勝謂が伊勢へ移っている可能性がある。しかし史料上に赤堀氏の名が現れるのは1371年が初めてなのでその確証はない。
 伊勢で赤堀氏は守護土岐康政・持頼の被官として働き順調に発展、かなりの所領を知行されていた。しかし1428年称光天皇の皇位継承問題から発生した正長の乱により一時的に衰退した。足利義満の死後、両統迭立の約束が反故にされ後小松―称光―後花園と北朝側の天皇が続いた。称光天皇の跡目と見られていた南朝の小倉宮はこれに反発、南朝側の有力者伊勢国司北畠満雅のもとへ出奔した。満雅は将軍後継者争いに敗れた鎌倉公方足利持氏と連携、幕府に反乱を起こした。伊勢では幕府方に長野一族が付き、北畠方には関一族・赤堀氏が付いた。戦いは持氏が幕府と講和し満雅も戦死したため、北畠方は圧倒的に不利となった。翌年、幕府の攻勢の前に赤堀氏は管領畠山満家を頼り降伏したというのが顛末である。
 赤堀氏は文明年間(1469〜1487)に浜田氏・羽津氏・赤堀氏に分かれたとされる。しかし15世紀後半は浜田氏と羽津氏、16世紀は浜田氏と赤堀氏が史料でその存在は確認されているが三家そろってという状況はない。
【探索のヒント】昔の地籍図を見ると字城西と字城東にまたがって城があったようで、城西町にあった50メートル四方の草地ではないかと思われていました。今ではすっかり住宅地に変わり、町名以外に明確な遺構は残っていません。ただ松本街道沿いの歩道にある赤堀城跡の碑@、城西町A城東町Bの水路が堀跡の可能性があります。
【駐車場】なし 碑の撮影なら路駐可
【電車】近鉄内部線「赤堀駅」
【バス】三重交通バス東日野四日市港線「城西町」「常盤農協」
 
@A
BC
C国人・浜田氏 浜田城―四日市市鵜の森1−13【MAP】
『三国地誌』によれば文明年間(1469〜1487)に、赤堀城主田原肥前守景信の三男美作守忠秀が浜田城を築き、その後紀伊守藤綱、遠江守元綱、重綱と続いた。元綱が城主の時に滝川軍の攻撃を受け、元綱は戦死、嫡男重綱は美濃へ逃れた後戦死した(『勢陽五鈴遺響』)。
浜田城主は赤堀浜田氏と言われ、赤堀氏の分家のような印象を受けるが、浜田氏が赤堀氏の惣領家の可能性もある。それは1544年栗原(赤堀の旧地名)にやって来た連歌師宗牧が、牧月斎(赤堀卜月斎入道と同一人物か)の城(赤堀城か)で連歌の会を催した翌日、浜田出羽守の申し出に応じて浜田城へ出向いた時の話からである。出羽守は先祖伝来の宝刀を見せ、竜宮からの褒美と伝わるこの太刀はその霊験で城の危機を何度も救ったと話し、毎月一日は赤堀一族が集まり潔斎して刀に供え物して拝む慣わしについて語ったという。つまり浜田城は宝刀が保管し、それを拝むため一族が集まるのだから惣領家の城と考えるのである。赤堀家は神戸具盛の二男具氏を養子に迎えたと言われるので、十分に考えられることである。
1559年に長野城長野藤定が浜田氏を攻めようとした塩浜合戦で協力した浜田氏と赤堀氏だったが、『北畠具教書状』によれば年次不詳だが恐らくこの後対立したらしい。その後、赤堀氏の動向が不明なのに対し、1584年まで浜田氏は存続している。ただし織田信雄配下で桑名郡額田郷に知行替えとなっている。
【探索のヒント】鵜森神社@城跡Aです。今残るのは碑の後B本殿裏Cの土塁だけです。国指定重要文化財である、田原藤太秀郷縁の「十六間四方白星兜鉢」は毎年10月10日の祭礼の時に見ることができます。
【駐車場】なし コインパーキング利用
【電車】近鉄名古屋線・内部線「近鉄四日市駅」
 
@A
BC
C国人・羽津氏 羽津城―四日市市羽津山町22 【MAP】
田原景信の長男宗盛が築いた城。宗盛は一色義春の被官となる。羽津氏はこの地で6代続いた。しかしその事績については不明なことがほとんどで、羽津元秀の名が挙がる1482年の羽津浦に関所を設けたことによる伊勢神宮との対立と長松御厨の所有をめぐって浜田氏と長松氏がもめた時の介入、1560年神戸友盛と関盛信の代理戦争で、関方の羽津近宗(国虎)が神戸方の朝倉盈豊の茂福城を攻めた茂福合戦ぐらいである。茂地福合戦を最後に羽津氏の記録は無くなる。城は小牧長久手の戦いで、織田信雄と対峙した秀吉が陣を置いたとするのが最後である。
【探索のヒント】羽津城山公園@が城跡です。城跡のある丘は近鉄名古屋線で南北に分断されていますが、橋でつながっているAのでどちらからでも上がれますが、車の場合は駐車スペースのある北をお勧めします。碑B土塁Cがあるのも北側です。
【駐車場】あり
【電車】近鉄名古屋線「阿倉川駅」
@A
BC
D
D桑名城―桑名市吉之丸【MAP】
桑名城の前身は伊藤武左衛門実房が1513年に築いた東城と言われる。実房の桑名伊藤家は伊藤(平・藤原)悪七郎景清を祖とする桑名衆であった。信長の第一次伊勢攻めでいち早くその旗下に入り、永禄12年に伊藤実重・実元が奉行人として取り立てられた(『阿弥陀寺文書』)。また本能寺で討死した伊藤彦作も桑名伊藤一族と言われる。
伊勢を拝領した滝川一益は本拠を長島城・矢田城とし、桑名には代官が置き東城は廃城となった。秀吉時代、桑名を与えられた秀次は一柳右近を代官に任じた。1591年右近は神戸城天守閣を東城跡に移築してここを中心に築城した。しかし1595年秀次事件に連座して右近は桑名を去ることになる。この後支配者が次々代わり、1601年現在の桑名の基礎を築く本多忠勝が入府する。忠勝は築城に当り城下町を取り込む惣構えを計画した。本丸は前とほぼ同じ場所で、神戸城天守閣は櫓に利用してその北東に四重六層の新たな天守閣を築く。本丸とそれを取り囲む二の丸・内朝日丸・三の丸の周囲は揖斐川から引いた水堀を設け、城の周囲には武家屋敷群を建てその西側に城下町を再編しその外側は揖斐川を利用した水堀で囲むというものである。この工事は1610年忠勝が死去するまで続いたという。1613年に忠勝の孫忠刻(千姫の夫)が姫路に移った後に城主となった松平(久松)定勝は、さらに吉之丸・外朝日丸を拡張した。
【探索のヒント】九華公園@が桑名城です。神戸城天守が移築された所が本丸南西の神戸櫓跡A、鎮国守国神社の北西には天守台跡Bがあります。ここにあった天守閣は1701年の桑名の大火で焼失、再建されずにその南にあった辰巳櫓Cが天守代わりとなりました。初代藩主本多忠勝像Dは吉之丸コミュニティパークにあります。
【駐車場】吉之丸コミュニティパーク駐車場
【電車】近鉄名古屋線・JR関西線「桑名駅」
     三岐鉄道北勢線「西桑名駅」
【バス】「田町」桑名市コミュニティバス「K-バス」東部ルート
@A
【寄り道】浄土寺―桑名市清水町【MAP】
1610年10月18日本多忠勝は死去した。桶狭間合戦の大高城兵糧入れの初陣から57回に及ぶ合戦ではかすり傷一つ負わなかった猛将の死は、隠居後の小刀の傷が原因と言われる。戦場を駆け回り主君家康に殉じて死ぬことこそが武士であると考える忠勝は、桑名藩初代藩主という役割は自分の存在が無になると感じたかもしれない。その空虚感を払拭するため大規模な城と城下の整備に乗り出したとは考えられないであろうか。
浄土寺は「慶長の町割り」以前は現・田町付近にあった西山浄土宗の寺で、1049年海中から出現した地蔵尊を安置したのが始まりと言われる。その頃桑名の町は町屋川(員弁川の下流の呼称)が作った三つの中州―北から自凝洲崎、加良洲崎、泡洲崎―に分かれていた。このうち田町は自凝洲崎にあった。今に残る三崎通りはこの中州の突端を意味する「岬」に由来する。所在が不明である三崎城もこの中州にあったと考える人は、浄土寺はその跡地に移転したと考える。ちなみに三崎城は『三国地誌』に東城・西城(不明)と合わせて桑名の三城と書かれている。城主は矢部五郎兵衛尉主繁、嫡男右馬允で信長に従った。
【探索のヒント】浄土寺@の境内に駐車場はあります。入った左正面の鳥居の向こうが本多忠勝の墓Aです。鳥居をくぐってすぐ左に忠勝に殉じた梶忠勝、右に中根忠実の墓があります。梶忠勝は家康の使い番から忠勝の与力となり、以降本多家の家老職を勤めました。中根忠美は二俣城主で本多忠勝の妹を妻としていました。家康の直臣でありながら忠勝の家臣でもありました。信長の異母弟織田信照が同一人物という説もあります。信長生存中は尾張中根南城主で、本能寺の変後沓掛城主となった人物です。信雄に従っていたので小牧長久手の戦いでは徳川方でした。1594年熱田神宮に長刀を奉納した記録はありますが、それ以降の動向は不明です。従って同一人物説を裏付けることはできません。
浄土寺の昔話で有名なのは「幽霊飴」です。「まんが日本昔話」にも登場した話で桑名だけの話ではありません。浄土寺の門前にあった「飴忠」という店に、夜な夜な薄気味悪い女が飴を買いに来ました。店の主人がその女の後をつけると浄土寺の墓地に消えました。これを住職に報告、墓地を調べたら新しい土饅頭の中から赤子の泣き声がし、掘り出すと件の女の遺骸に抱かれた赤子が見つかりました。身重で死に埋葬された女が墓の中で産んだ子に飴を買って与えたのだという話です。これに由来して地蔵盆には幽霊飴が寺では販売されます。
【駐車場】境内に駐車場
【電車】近鉄名古屋線・JR関西線「桑名駅」
     三岐鉄道北勢線「西桑名駅」
【バス】「田町」「船馬町」
    桑名市コミュニティバス「K-バス」東部ルート
 
@A
BC
BC
【寄り道】薦野(菰野)城―三重郡菰野町菰野【MAP】
一益は信長より拝領した北勢5郡の内、三重郡の代官を南川治郎左衛門に命じた。水沢城の石川右馬大夫が築城した菰野城が代官所となった。天正11年、秀吉との戦いに敗れた一益に代わり、織田信雄が新領主となると家臣の土方雄久に菰野7千石を与え代官とした。天正15年に雄久は犬山城へ移るが、領地はそのままであったため、関ヶ原合戦の論功行賞で雄久の嫡男雄氏に菰野1万2千石が与えられた。慶長10年(5年説あり)、雄氏は初代菰野藩主として着任。以降12代雄永まで270年間土方氏は藩主を勤めた。
雄氏は旧代官所を改修して藩邸とするが、当初は京で生活をしていた。なお、菰野城の堀は、織田信雄の娘八重の嫁入り直前に掘られたと言われる。それは、八重が堀のない城へ入るのを拒絶したためとされる。寛永年間(1624〜1645)に藩主となった雄氏の子雄高は、改修した藩邸の東側に、それまで周辺の村に分散して住んでいた家臣を集め城域とした。また城の東を城下町とするため、町の区画整理を行った。1660年三代目雄豊は、藩邸を全面改修した上、城域の外周を柵で囲み、木戸を南北と東に設ける大改修を行った。
最後の藩主雄永は、明治2年4月版籍奉還を願い出て、菰野藩知事となった。菰野藩は、明治4年7月菰野県となるが、11月には安濃津県に組み込まれて消滅した。
【探索のヒント】城跡には、菰野町立菰野小学校が建っています。小学校の前身は、雄永が作った藩校顕道館で、菰野町役場菰野支所にありました。明治5年学制発布により廃止、同6年1月6日菰野学校が創設され、同31年現在地に移転しました。
菰野城を表す碑@
は、学校の南西部、近鉄湯の山線と並行する道沿いAにあります。この道は大手道で、藩士の屋敷建ち並んでいました。この碑が建つ石積みBは、明治2年に雄永が妻となる益子を迎えるにあたり建てられた二層の角櫓の基礎の分です。この時、藩邸の西側に振子川Cと接続する堀Dが急遽掘られました。 なお二層の角櫓は農家の土蔵へ、馬屋の一部も農家へ、藩邸の一部は禅林寺へ、門は金蔵寺C【MAP】に移築されました。
【駐車場】第三区民栄会館前駐車場
【電車】近鉄湯の山線「中菰野駅」
【バス】菰野町コミュニティバス「菰野川原町」
 
@A
BC
【寄り道】真如院見性寺―三重郡菰野町菰野【MAP】
菰野藩安泰を願い正八幡社(明治4年より広幡神社)に次いで、土方雄高が創建した臨済宗妙心寺派の寺院で、土方家の菩提寺。雄高は開山を決めるにあたり、母の玉雄院(信長の孫)の勧めで、織田家と縁のある熱田龍珠寺の良嶽に推薦してもらう事にした。良嶽は弟子の紹省三霊を推挙。紹省三雲は、弟子の越伝と愚極を連れ菰野へ向かった。菰野で雄高と玉雄院に対面した紹省三雲は、寺は菰野城の恵方であった辰巳(東南)の力尾山の麓に建てること、どのような建物が必要かを説明した。それに同意した雄高は、早速建設に着工。見性寺として、1644年に完成した。その後、二世住職となった越伝は、1654年7月に長崎崇福寺へ来航した隠元隆gに会いに行った。これは臨済正宗の高僧隠元の力を借り、当時衰退していた臨済宗を再興しようするためであった。その後、越伝の布教活動もあり、見性寺には多くの黄檗僧と若き修行僧の行き来が見られた。1669年、庫裏を焼失する火事が起こり、留守を預かっていた愚極は、その失態を悩み、法類の熱田乾徳寺と稲葉寺凌雲寺に相談。その結果、凌雲寺の瑞渓和尚が、3世住職に就いた。1673年に寺を去った愚極は、松阪の東禅寺の開山となる。
【探索のヒント】寺への道は細いのでご注意下さい。駐車場は、寺の東隣の広場です。現在残る山門@方丈A・・庫裏は、火災の後、1726年に再建されたものです。山門を入って左に裏山へ登る石段があります。これを登って行くと右に2代藩主雄高以降の土方一族の墓所B、その向かいには、初代藩主雄氏の正室八重と4代豊義の正室艶の墓Cがあります。
【駐車場】専用駐車場
【電車】近鉄湯の山線「菰野駅」
 
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【寄り道】力尾城―三重郡菰野町菰野【MAP】
南川治郎左衛門に代わり、菰野に着任した土方雄久は、力尾城を本拠とした。力尾城の築城時期や築城者は不明。土方氏は、大和源氏の祖源頼親の流れを汲む。頼親の次男頼房が大和国宇智郡宇野庄を本拠としたことから宇野氏を名乗る。その6代後の秀治が、同国土方郷に住して土方を名乗る。9代房治は伊勢北畠氏に仕え、11代治資が尾張に下向して、斯波氏に仕えた。12代長兵衛が津島に住んだというので、この頃織田信秀と接触があったかもしれない。13代久治は名古屋に生まれ、信長に仕えた。弘治2年の長良川の戦いで、道三の救援に信長と向かうが、大浦で義竜軍との戦い戦死する。その跡を継いだのが雄久である。雄久は養子で、尾張古渡の住人志水又右衛門家勝の子勝直である。
【探索のヒント】見性寺の裏山が力尾城跡で、、御在所へ向かう道を見下ろせます。門を入った石段@を登ると道が続いていて、その両側に地蔵が置かれ、西国八十八ヶ所めぐりとなっています。城を示す表記はなく、通路以外は下草だらけ、クモの巣と藪蚊に辟易してじっくりと見て回る気が失せました。冬から春先がお勧めです。見性寺の裏山の鞍部に6つの曲輪があるそうです。確認したのは主郭となる部分Aその南の曲輪Bです。で、翌年の4月に再度行きました。かつて主郭の西に丘陵が続いていて、西のピークには曲輪がありました。今はその間の丘陵と曲輪のあった山の一部が削られて見ることはできません。今主郭の西に残るのは、櫓台状の曲輪の一部Cぐらいです。また主郭の南の曲輪の外側に帯曲輪Dが西に伸びていましたが、途中で途切れています。
【駐車場】専用駐車場
【電車】近鉄湯の山線「菰野駅」
 
@A
BC 
【寄り道】福村氏城―三重郡菰野町宿野【MAP】
源義経の重臣の一人伊勢三郎義盛の館跡と言われる。 父俊盛から住み、義盛はここ(福村)で生まれたという。義盛は義経の逃避行に同行せず、伊勢に戻り、守護の山内首藤経俊と戦うが敗れて自殺する。その後、高木主膳がここに住んだという。
【探索のヒント】カーナビを頼りに行きました。狭い道で路駐などできませんが、幸い城跡に隣接する集合住宅の駐車場に車を止められました。現況は民家です。西・南@・北に堀があり、土塁を巡らせていたそうです。東側Aから見ると若干周囲より高くなっているのが分かります。ここの住人(初め不審人物に間違われました)から、北側の石積みBはかなり古いものだから是非見えて行ってと言われました。また井戸跡Cも2カ所あります。
【駐車場】なし
【電車】近鉄湯の山線「菰野駅」
【バス】菰野町コミュニティバス「宿野」
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