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@千種城―三重郡菰野町千草 【MAP】
戦国期の北伊勢は「北勢48家」という国人領主により分割統治されていたが、やがてその中に序列が生じた。千種城主である千種氏は、梅戸氏・赤堀氏と並んで有力とされた家である。『勢陽雑記』が言うように群雄割拠する国人領主達を千種氏が束ねていたとは考えにくいが、他家より優位であったのは間違いない。それは家筋のおかげ(北畠氏と同系)ではなく、六角氏の後ろ盾があったからである。1556年(弘治2)に六角義賢は千草越えで北伊勢に攻め込んだ。六角方の小倉三河守は宿野川原を陣地に3千の兵で千種城を攻めた。これに対し城主千種常陸守忠治は、萩沢備前守に宿野川原へ夜襲をかけるように命じた。峠越えで疲労していた上、奇襲を受けた小倉隊は大損害を受け、一旦兵を本隊へ引き上げた。城攻めがこう着状態となると義賢は、跡継ぎのない忠治に重臣後藤但馬守の三男(賢豊の弟)を養子に出して和議を結ぼうとした。六角氏が北勢を制した後、その代官として北勢を実効支配できる好機と考えた忠治はこれを受け入れた。六角氏と千種氏は千種城を拠点に北勢に勢力を拡大していった。
後藤家より千種家の養子となった千種太郎左衛門忠秀であったが、忠治に実子忠基が誕生すると自分の立場に危うさを感じ出した。そして永禄6年3月忠秀は狩りから戻った忠治と忠基に対し入城を拒否して追放した。忠治と忠基は支城の潤田城へ駆け込み、六角氏へ救援を求めた。この頃、重臣後藤賢豊の横暴に業を煮やした六角義治が子の壱岐守共々成敗するという「観音寺騒動」が起こり、後藤氏憎しの義治はすぐに援軍を送って来た。これに忠治の娘の嫁ぎ先である萱生城春日部俊家も近隣の縁者を募り忠秀討伐に加わった。また千種氏配下である国人衆も「よそ者」忠秀には協力しなかった。結局、城出た忠秀は負傷したため自決した。ここに改めて忠基が千種家当主の座についた。この後、忠基は滝川一益・織田信雄の配下として働くが、小牧長久手の戦いにおける加賀野井城の攻防戦で戦死したといわれる。この為甥の顕理が跡を継いだが、大坂夏の陣で戦死して千種家嫡流は断絶した。
【探索のヒント】県道626号千草永井線と県道762号朝明渓谷線の交差点を西へ300メートル行った左にある丘陵先端が城跡です。城跡は東から西へ三つの曲輪からなっています。丘陵先端、東の曲輪は方形で南にある土塁@内に民家があります。この北西に虎口があり、大手道と考えられます。西隣り(以降真中)の曲輪とは大堀切Aで区切られていました。真中の曲輪は城の案内看板B横の階段を上がった所Cです。その西に三つのうち最も広い曲輪Dがあります。今は広場となり車も止めることができます。真中の曲輪と西の曲輪の間には土塁E堀Fがあり土橋Gで繋がっています。西の曲輪の南Hから西に建つ碑Iの後ろにかけて土塁が残っています。なお南西の土塁には櫓台状のものJがありますが、本来の遺構ではないという事です。ところで私は駐車場への道が細くて車で登る勇気がなく、丘陵北の広場に止めました。
【駐車場】山頂に駐車場 公民所前に駐車スペース
【電車】近鉄湯の山線「湯の山温泉駅」
【バス】菰野コミュニティバス菰野根の平線「千草公会所」
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【寄り道】金ヶ原城―三重郡菰野町千草2851【MAP】
千草城の南の丘陵にあるこの城は、位置的に考えて千草城の支城と考えられる。
【探索のヒント】千草神社が城跡です。北側は10メートルの崖になっています。朝明川から枝分かれした小川がこの北側に幾筋も流れているので、水田ができる前は湿地だった可能性もあり、守りは南を中心になされていたと思われます。本殿@がある場所主郭で、駐車場となっている東側Aは堀であった可能性もあります。遺構は北西南に土塁Bが残っています。南の土塁には切れ目Cが確認できるのでここが虎口と思われます。南から西にかけての土塁の外には空堀Dがあり、このため食違虎口Eとなっています。
【駐車場】専用駐車場
【電車】近鉄湯の山線「湯の山温泉駅」
【バス】菰野コミュニティバス菰野根の平線「千草公会所」
@A
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【寄り道】向城―三重郡菰野町千草【MAP】
金ヶ原城の西100メートルの同じ丘陵上にある。現在、二つの城の間には県道626号が走っているが、千種城の支城として連携あるいは一体となっていた可能性がある。
【探索のヒント】国道306号線から県道626号線に入り、道なりに進むと右へ大きくカーブします。その直後、右折した右側に城跡があります。車はこの坂道に路駐します。山の中へ入る細い道@はあるのですが、チェーンが張ってあり立ち入り禁止の札が掛かっています。何か人を寄せ付けない雰囲気ですが、行ったのが1月3日で明らかに人が居ないので入って行きました。しばらく行くと左側に大きな土塁Aがあります。それに沿うように堀Bも設けられていました。一旦ここから出てさっきの坂を下って行くと右側に家庭菜園の出入り口あります。ここから城跡の方へ行くと雑木林の中にさっきの土塁と堀Cの続きがあります。縄張り図を見ると食違い虎口があるようですが分かりませんでした。
【駐車場】路上駐車
【電車】近鉄湯の山線「湯の山温泉駅」
【バス】菰野コミュニティバス菰野根の平線「千草公会所」
@ A
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【寄り道】瑞光山禅林寺―三重郡菰野町下村【MAP】
 666年(天智5年)藤原鎌足が創建。のち天台宗に属し、大強原山盧遮那寺と号し、七堂伽藍を有した。千草忠顕(−1336)が死ぬ数年前に大日如来を本尊に再興させたが、応仁乱で焼失(お寺の説明)。町教育委員会の解説は、忠顕は家臣の武田宿禰主計頭昭信に命じて、ここに禅林寺城を建てたが、正平年間(1346-1369)に忠顕の四男顕経が、千草城を築城して、禅林寺城は廃城となったとする。
千草常陸介治庸(千草家五代目。忠顕の五男)は、1503年11月善照大光禅師を開山として、臨済宗瑞光山禅林寺として再興、千草家の菩提寺とする。禅林寺は、忠顕の称号禅林寺宰相にちなむ。戦国期の北勢争乱で寺は寺領を失い、1568年には信長の伊勢侵攻で兵火に遭った。1649年桑名長寿院の鉄叟和尚を招いて再々興。この時妙心寺派となる。
なお禅林寺大日如来像は、1555年に住僧旭巒玄東の発願して、仏師左京正により彩色修理され、町指定有形文化財に指定されている。
千草忠顕は、中納言六条有忠の次男だったが、公家でありながら武芸を好み、かつ放蕩が過ぎたため、絶縁されてしまう。その後、後醍醐天皇の近臣となり、鎌倉幕府の打倒に活躍した。建武の新政では、結城親光・楠木正成・名和長年と権勢を振い、「三草一木」といわれた。建武の新政から離脱した足利尊氏を、新田義貞・北畠顕家と共に九州へ駆逐したが、戻って来た足利軍の尊氏の弟直義と比叡山で戦い戦死した。明治維新後、忠臣として再評価され、大正8年に従二位を贈られた。
【探索のヒント】三重県道14号菰野東員線「下村交差点」の北西にあります。駐車場は、お寺の西側、川沿いにあります。山門@前の道は桑名道と言います。かつての本堂(方丈)には、廃城になった菰野城の一部が移築(表玄関、方丈内部の欄間などに見られました)されましたが、老朽化に伴い2008年に解体され、現在は新しい本堂Aになっています。本堂の向かって左に聳える千草忠顕卿追遠碑Bは、再評価の結果、位階を追贈された忠顕を称えるため、昭和2年に千草城碑と一緒に建てられました。
【駐車場】専用駐車場
【電車】近鉄湯の山線「菰野駅」
【バス】菰野コミュニティバス鵜川原川北線「下村中」
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【寄り道】三岳廃寺跡―三重郡菰野町菰野【MAP】
807年、雄峰の鎌・御在所・国見の三岳を崇める山岳信仰を背景に最澄が創建したといわれる。源平合戦の兵乱により一時衰退するが、文永(1264〜1275)に再興し、北勢の天台宗系寺院を統括した。権現堂・薬師堂・不動堂・鐘撞堂があったと伝わる。織田軍の兵火により、寺は灰燼に帰したと言われる。
【探索のヒント】御在所岳登山道の裏道で登って行きます。国道477号線鈴鹿スカイラインの蒼滝トンネルの東側出口脇と蒼滝橋の東側脇に駐車スペースがあって、普通登山者はここに駐車します。
約1時間で三岳寺跡@へ到着します。三岳寺跡紹介で必ず見る手洗石Aは「小さっ!」が第一印象です。この前を抜けて進むと稜線上へ行く石段Bがあります。当時のものではなく、豪雨災害で流されたので急遽積み直されたという事です。石段を登ると鐘撞堂跡の看板が建っているのですが、すぐ後ろが崖でここに建物があったとは感がられません。考えられるのは左C右Dの稜線上ですが不明です。後日確認したところ、この看板はあくまでも「地元の言伝え」を基に建てたもので、確実な根拠があってのものではないという事です。これは三岳寺跡についても同じです。ただ三岳寺跡に近くなると登山道に石仏がいくつか見られるのは気になる所です。
【駐車場】登山道入り口と蒼滝橋東側他
【寄り道】冠峰山三岳寺―三重郡菰野町菰野【MAP】
1687年菰野藩主土方雄豊が開基の、薬師如来を本尊とした平松山温泉寺が前身。1720年延暦寺末寺として認められ、冠峰山三岳寺と寺号を改めた。本尊の薬師如来坐像は、信長の焼き討ち前に、三岳寺より密かに運び出され、中菰野村の横山如水が保管していたと横山如水の子孫宇佐美亮邑が書き遺している。亮邑によると、大坂冬の陣後、初代菰野藩主土方雄氏が、薬師仏を祀った草堂が温泉寺であるとする。なお三岳寺に安置される不動尊像も、焼き討ち前に運び出されて、金剛寺に一時預けられて、再興三岳寺に戻された。
【探索のヒント】湯の山温泉の中心部から県道577号湯の山温泉線を西へ行くと三岳寺を示す案内標識が要所要所にあります。本堂横に遊歩道があり、展望台もあります。
【駐車場】専用駐車場
【電車】近鉄湯の山線「湯の山温泉駅」
【バス】三重交通「三交湯の山温泉」
 
【寄り道】三岳寺―三重郡菰野町千草【MAP】
千草忠基(千種城主・千草忠治の養子または実子)が出家、頓乗と名乗って道場を開いた。1677年に浄安寺となり、1711年頃冠峰山三嶽寺と改めた。太鼓楼は1688年当時の住職円海全雍によって建てられた。
【探索のヒント】
【駐車場】専用駐車場
【電車】近鉄湯の山線「湯の山温泉駅」
【バス】菰野町コミュニティバス千草根の平線「千草公会所」
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A采女城―四日市市采女町内部【MAP】
城主の後藤氏は西別所の後藤氏とは別系統で藤原秀郷または藤原利仁の流れをくむと言われる。1187年後藤基清が采女の地頭となったのがこの地での活動の始まりという史料がある。「太平記」に1360年仁木義長に従い佐々木氏頼軍に討ち取られた伊勢の地侍の中に後藤弾正の名がある。1480年北伊勢進出を図る長野氏に対抗する北畠氏・北方一揆連合軍が采女城で戦いとなり連合軍が損害を出しているが後藤氏の立場は不明である。時代が下り16世紀に六角氏が北伊勢に進出を図るとそれに従っている。信長が攻めて来た時の城主は後藤采女正藤勝。信長に降伏後、高岡城攻めに加わる。その後、信長に降った関氏の与力となるが1572年(元亀3)2月蒲生氏郷に従軍中、戦死する。その子方綱は1584年の小牧長久手の戦いで戦死。
【探索のヒント】四日市立内部東小学校の西側の丘陵が采女城です。四日市立内部小学校から内部川を渡ったところに入口@があります。
8年ぶり(2011.3)に来ました。登り口の少し西に駐車できるスペースがあり、さらに西に行った内部川と足見川の合流付近に数台停められる場所があります。登り口から約5分で虎口Aへ到着します。ここで道が左右に分かれます。左側へ行くと5の郭Bに行きます。南から西に土塁を備えています。5の郭の南には堀を挟んで曲輪Cがあります。さらに南へ行くともう一つ曲輪がありますが全く整備されていません。5の曲輪を北へ左手に空堀Dを見ながら土橋を行くと主郭Eになります。主郭の北の2の郭Fへも堀で区切られています。その北には物見櫓のあったとされる土塁G、堀、そして3の郭Hと続いてます。3の郭の西の尾根にも4の郭I、斜面を下ってさらに曲輪がありますが整備されているのは4の曲輪までです。虎口を右へ行くと8の郭Jがあり、この城跡で唯一、視界が開ける場所Kです。
山全体に曲輪を配した非常に立派な城跡でした。主要曲輪には土塁と堀が周囲に巡らされ、独立性を高めている感じを受けました。
【駐車場】路上駐車
【電車】近鉄内部線「内部駅」
【バス】三重交通51系統「内部小前」
 
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B楠城―四日市市楠町本郷字風呂屋【MAP】
楠城を守る楠十郎員孝(貞孝)は奮戦したが、無勢に多勢。間もなく開城して、高岡城への案内役をした。のち信雄の家臣となる。天正12年加賀井の戦いで、八代城主十郎正盛は秀吉方に捕らえられて、処刑。ここに楠氏は滅亡する。
楠城は1369年に伊勢国司の北畠顕泰が築城、諏訪十郎貞信が初代城主になった。1412年四代城主となったのが楠正威で、楠正成の正流といわれている。正威は南朝の武士として戦い、比叡山で戦死した。以降楠氏が代々城主を勤めた。七代城主正具は神戸城主神戸具盛の娘を娶り、神戸城の守りの拠点の一つとなった。ところでここの案内板(2016年5月のものには記載なし)によると正具は信長に徹底抗戦して撃退したが、北畠氏が降伏すると城は孤立無援になって、石山本願寺の蓮如に救いを求めて、これが石山合戦の原因となったとある。
【探索のヒント】県道502号楠河原田線「本郷北交差点」を南へ行き、信号を過ぎた二つ目の十字路を右折して約5百m行った左側に立派な樟@があります。そこに碑Aが建っています。昔から周辺は田圃で、明確な城跡はありません。立地は、東が伊勢湾、西に鈴鹿川、南に鈴鹿川派川が流れる三角州の端に当ります。ここらら西へ150m行った所Bには、楠村神社Cがあります。城主一族から崇められていたそうです。
【駐車場】駐車スペースあり
【電車】近鉄名古屋線「北楠駅」
 
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【寄り道】大円山正覚寺―四日市市楠町本郷【MAP】
楠城の歴代城主の菩提寺。 1361年鎌倉建長寺派の白圭が開らく。信長の兵火に焼かれ、松平定綱が再建する。ここにある楠十郎の碑には、楠氏の概略が書かれているが、城跡のものと少し違っている。城主楠十郎の祖先正信(諏訪十郎。幼名千代丸)は、1336年10月25日上諏訪に生まれた。母は楠木正成の側室。1358年将軍足利義詮の命により上洛。三重郡内四郷7千石を与えられこの地に入府。百騎を従える将となった十郎は、城を構え、楠十郎と名を改めた。1568年十郎元成は信長に従う。1582年3月秀吉に攻められ滅亡。以上は寺に残された記録から明らかになったことである。
【探索のヒント】楠城跡から徒歩で北へ600メートル行くとあります。県道502号楠河原田線「本郷北交差点」から西へ行くと「サークルK」があり、その手前で北の側道へ入ると左前方にお寺があります。山門@を入って、左の地蔵前にあるのが歴代城主の墓Aで、その隣の楠十郎の碑Bに云われが書かれています。
【駐車場】駐車場あり
【電車】近鉄名古屋線「北楠駅」
 
【寄り道】華峰山海宝院華台寺跡―四日市市楠町本郷【MAP】
推古天皇の頃、聖徳太子に託して七堂伽藍を建立させたと伝わる。この辺り一面梅林で、芳香に満ちていたので華峰寺とした。信長の兵火により焼失。
【探索のヒント】県道502号楠河原田線の本郷橋の東から、土手の道を南へ向かい、すぐに土手を下ります。すると土手に立て札@がぽつんと立っています。
【駐車場】路駐
【電車】近鉄名古屋線「北楠駅」
 
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C高岡城―鈴鹿市高岡町茶山【MAP】
高岡城は神戸城の出城である。城主は神戸友盛の家老山路弾正。鈴鹿山脈から派生する丘陵の東端城にあり直下に鈴鹿川が流れる。楠城を落とした信長は高岡城を包囲して城下に放火し、略奪、暴行を繰り広げ城方に恐怖心を植え付けようとした。しかし名将といわれた山路弾正はこれに屈せず徹底抗戦を続けた。そんな時西美濃三人衆が武田信玄と手を結んだとの情報がもたらされた。仕方なく信長は陣を解いて桑名まで後退、北伊勢の押さえに滝川一益をおいて尾張へ戻った。
山路弾正の父正幽は神戸友盛の娘婿である。弟に盛郷(川木九之丞、長尾一勝)・正国(将監)・正俊がいる。信孝が神戸家に養子に入って3年後(1571年)、信長の命により友盛が蒲生定秀の日野城に幽閉されるとその年の12月28日山路兄弟と平野城主伊東茂右衛門が神戸城の乗っ取りを図った。計画は発覚して弾正と伊東茂右衛門は殺害されたが弾正の兄弟達は逃亡した。そのうち盛郷はこの後高岡城主となった小島兵部少輔(信長側室坂氏の子で信孝の異父兄)の援助を受け高岡城で暮らした。その後福島正則に仕え69歳で没した。正国は柴田勝家の甥勝豊の家老となり賤ヶ岳の戦いに参加。勝豊が秀吉に降参したため正国は秀吉方についたが佐久間盛政の誘いを受け柴田方へ寝返った。盛政隊敗退の折、加藤清正によって討取られた。
小島兵部少輔は本能寺の変後、岐阜城に移った信孝に代わり神戸城に入るが天正11年賤ヶ岳の戦いの折、織田信雄の家臣林与五郎に攻められ追放となる。
【探索のヒント】鈴鹿川左岸の丘陵@の東端が城跡で、現在は高岡城跡公園Aがあります。高岡公園駐車場は、高岡橋を丘陵側へ渡り左へ行くと右にJRを跨ぐ橋があるのでそれを渡ります。左の道幅が広い方が高岡台へ行く道で、右の車一台分の幅の道が駐車場へ行きます。他の方も書いていますが、対向車が来ない事をただ祈るばかりの道でです。だから私は、高岡橋を渡った道幅の広い場所に車を置いて徒歩でこの道を行きました。
城の遺構は、丘陵上の西と東と公園のある南にあります。西の遺構は、駐車場へ行く途中、最初の不法投棄禁止の看板の向かいの森林の中にあります。宅地開発が行われる以前は、この丘陵はもっと西へ延びていました。森林の中の南へ向かう堀Bは、この丘陵を分断するためとされます。堀の西(右)の個人果樹園は、曲輪Cと考えられ、溝で分断された南も繋がっていたと思われます。堀の東(左)の2m半ぐらいの斜面の上にも曲輪Dがあり、その中央部分に更に高い曲輪Eのある2段構造です。上の曲輪の北東には帯曲輪Fがあります。上の曲輪からだと下の曲輪との高低差と広さGがよく分かります。この曲輪は、古墳を利用したとされます。。
駐車場から左の竹林の方へ行くと、右に古墳を利用した曲輪Hが二つありあります。二つ目の古墳の前は広い曲輪Iで、右には南東の尾根上にある曲輪群があります。ここにも古墳Jを取り込んだ二段の曲輪Kと一段下がって、尾根の先端に広い曲輪Lがあります。
Iの曲輪からやや左に曲がりながら進むとまた古墳を利用したと思われる曲輪Mとなります。そしてこの先、丘陵の東端にも古墳を利用した曲輪Nが奥へ二つ並んでいますが、積まれた柴を越えるのが面倒なので、ここで止めました。
現在展望台Oとなっている公園も曲輪でした。遺構は東側に集中しており、土塁P帯曲輪(通路に利用)Qがあります。それと縄張り図を見ると、駐車場と展望台の間の道の両側に竪堀があるのですが、それらしいモノの画像Rを載せておきます。
なお、探索中に出会った地元の人が、主郭部分は西の曲輪Dと教えてくれましたが、同一尾根上に堀切一つ隔てて主郭があるとは思えませんでした。ここは伊藤徳也氏が推定されているように、駐車場から竹林の間に主郭があったのはないかと思います。
【駐車場】高岡城跡公園駐車場
【最寄りの駅】JR関西線・伊勢鉄道「河原田駅」
【最寄りのバス停】三重交通バス四日市鈴鹿線「北高岡」
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D神戸城―鈴鹿市神戸5丁目【MAP】
高岡城を囲む陣中で和睦した友盛と信長が対面する時、茂福合戦・塩浜合戦・神戸城攻防戦の友盛の武勇伝を北勢の国人衆から聞かされた織田の家臣たちは先を争い友盛の顔を見ようとしたという。この講和が成ってようやく高岡城の山路弾正は開城したと言われるが講和の話は弾正から友盛へ具申されたともいわれる。
この時、友盛は六角氏の家臣蒲生定秀の娘を娶っていた。北勢で抵抗する神戸氏を味方につけるため定秀が打った手であるが関盛信も定秀の娘を娶っていたので長年対立してきた神戸氏と関氏さらに六角氏は蒲生氏を中心に結び付いていた。
信長と友盛の和議はこれに亀裂を入れる結果となった。六角氏のもとへ人質に出されていた友盛の叔父で福善寺の僧円貞坊は和議に怒った六角義賢に塩責めのあと放逐され狂人となって神戸に戻ってきた。義賢に殺されると思った円貞坊が狂ったふりをして逃げて来たという説もある。また、跡継ぎのなかった友盛は関盛信の子勝蔵を婿に迎える約束になっていたがこれが反古となった。このことが後々大きな問題となる。信孝には尾張から幸田彦左衛門、岡本太郎左衛門らが警固のため付き添い、神戸氏側は三宅権右衛門、坂口縫殿助、山下三右衛門、立木重兵衛、川村氏らを信孝付とした。こうして11歳の信孝の神戸家での人生が始まった。だが、友盛はこの養子縁組に疑問を感じるようなった。信孝が家督を継げばそれは神戸家だけでなく関一族の一つが消滅するではないか。さらに今まで培った家臣団、領民が赤の他人に奪われるではないか。それは自然と信孝への接し方に表れる。これは信長の知るところとなった。
信孝が養子になって3年後の元亀2年正月。信長は蒲生定秀に命じて友盛夫妻を日野城に幽閉、強引に隠居させ信孝にその所領すべてを引き継がせた。友盛の幽閉が解かれたのは11年後、信孝の四国攻めの直前だった。留守居役として沢城に入れられたのである。
本能寺の変後、神戸城は戦の結果でめまぐるしく城主が変わる。小島兵部少輔→林与五郎→生駒親正→滝川雄利→水野忠重→滝川雄利といった具合だった。初代神戸藩主一柳直盛のあと幕府直轄領となるが石川総長以降、城主が世襲されるようになった。石川三代(総長・総良・総茂)、本多七代(忠統・忠永・忠興・忠「・忠升・忠寛・忠貫)である。そして明治維新を迎えた。
【探索のヒント】神戸城跡は公園になっていて鈴鹿市の名所旧跡とういうことで駐車所も完備しています。現在残るのは1580年信孝が築いた五重の天主と二つの小天守があった野面積みの天守台@A堀Bです。天守台の石垣には墓石、礎石、宝筐印塔が含まれています。天守は1595年滝川雄利の時に解体され桑名城に運ばれ、大手門は四日市市の顕正寺、太鼓櫓は鈴鹿市の蓮花寺に移築されています。
江戸時代本多忠統により大改修がなされましたが信孝時代のものを踏襲したと考えられています。二の丸・三の丸は現神戸高校、西の曲輪は現神戸公園です。
沢城(鈴鹿市飯野寺家町)Cは神戸城南西、県道54号鈴鹿環状線「商工会議所東交差点」を西へ行った「大阪カルビ三重鈴鹿店」の裏手に碑があります。城跡の北側は県道に面しているので店が立ち並んでいますが南側は水田が広がっています。沢城の時代は兵農がさらに未分離で一般武士は戦時以外は農業を営んでいたのではないかと考えられます。
●神戸城
【駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】近鉄鈴鹿線「鈴鹿市駅」
【最寄りのバス停】三重交通鈴鹿市内線「神戸6」
●沢城【MAP】
【駐車場】なし
【最寄りのバス停】三重交通鈴鹿市内線「鈴鹿農協本店」
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【寄り道】龍光寺―鈴鹿市神戸2丁目【MAP】
神戸家の菩提寺である。信孝の神戸城移転に伴い龍光寺も現在の場所へ移った。家康の父広忠が11歳の時、叔父の松平信定に暗殺されそうになり匿われた寺、秀吉に敗れた滝川一益が出家した寺としても有名である。
1422年11月29日、伊勢湾から西条の沢山に霊光が飛来した。国司北畠満雅がこの件を称光帝に報告した。これは東海龍王の瑞光で、国家安泰のため西条沢山に寺を創建するようにと占われた。これを受け称光天帝の命で1423年正月、時の神戸城主神戸実重を普請奉行、満雅が開基、悦叟大忻禅師を開山として、六十余坊を有する天沢山龍光寺が創建された。その後の戦乱のため寺は衰退したが、1554年、後奈良帝により南禅寺に準ずる寺格として復興した。こうした歴史を持つ龍光寺だから多くの文化財を有している。
ここで大まかに神戸氏の歴史を振り返る。 関盛政(盛忠)の時代その領地は鈴鹿・河曲郡(現在の亀山市と鈴鹿市)に及んだ。1367年この広い領地を治めるため子供を5か所(神戸・国府・亀山・鹿伏兎・峯)に配置した。
長男盛澄は神戸二十四郷は与えられ沢城を築いた。2代実重(高野家「家譜」は神戸家の祖とする)・3代為盛と関家の血筋であったが為盛に子がなかったので国司北畠教具の孫(北畠材親の二男または政郷の末子で相国寺侍童であった)を養子に迎え、具盛と名乗らせ神戸氏4代目となった。為盛が教具の娘を夫人としその孫を後継者としたことで神戸氏と北畠氏の絆は強くなった。具盛は二人の娘を神戸家重臣で高岡城山路紀伊守と楠城楠正具に嫁がせ、次男具氏を赤堀氏(浜田・羽津ではない)に養子に出すことで周辺勢力と強く連携した。また約2百年続いた沢城から神戸城へ本拠を移したのも具盛といわれる。
その子5代目長盛は35歳で死去するまで弟の赤堀具氏、義兄弟の楠正具と協力して北勢を守った。だが北畠氏との関係から六角氏の被官となっていた関盛雄とは不和であった。
6代利盛は23歳で亡くなるがこの人物が神戸城を築城したのではないかともいわれる。母は北畠具教の配下となった長野藤定の娘である。1557年3月柿城救援のため利盛が出陣した隙を突かれ家臣に神戸城を乗っ取られた。この時、城奪回のため祖父藤定は軍を送ってくれた。
信長の伊勢侵攻当時の当主が具盛である。4代目と同じ名前なので区別するため友盛とされる。土師福善寺住職だったが兄利盛の死によって還俗した。友盛には家臣高野可夕(家康の伊賀越えに協力)から養女にした鈴与姫がいた。鈴与は関盛信の息子勝蔵を婿に迎えるはずだったが信孝が婿となり信孝は神戸氏を名乗る。1581年の信孝の自害で神戸家は断絶する。直後、織田信雄の家臣林与五郎の神戸城攻めで沢城の友盛は与五郎の息子十蔵に鈴与を嫁がせ和議を結んだ。今度は林が神戸を名乗った。だが翌年、蒲生氏郷に攻められた十蔵は討ち死に与五郎も尾張へ去った。この時、友盛は安濃津城の織田信包のもとへ逃れ、そこで死去するが神戸家の断絶を憂え従弟の高島勝政の子政房を養子にした。政房は神戸外記と名乗ったという。この子孫が「伊勢軍記」を著した。
【探索のヒント】龍光寺には2代実重から7代友盛の位牌はありますが信孝のものはありません。駐車場はお寺の北@東Aにあり南のすずか幼稚園の駐車場を利用できます。伊勢路に春を呼ぶ毎年3月の第2土・日・月の大涅槃会では多くの人たちで境内Bは賑わいます。
龍光寺を訪ねた際、神戸氏、龍光寺のことが詳しく書かれた「昇龍の影」Cを著者で住職である衣斐賢譲氏から頂きました。この場を借りましてお礼申し上げます。機会があればぜひ皆さんに読んでいただきたい本です。
【駐車場】専用駐車場3か所
【最寄りの駅】近鉄鈴鹿線「鈴鹿市駅」
【最寄りのバス停】三重交通鈴鹿市内線「神戸6」
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【寄り道】福蔵寺―亀山市関町木崎417【MAP】
1583年信孝は家臣の大塚俄左衛門長政に信長の菩提を弔う寺の建設を命じた。大塚は比叡山より長円法師を招き、神戸氏縁の人たちの援助を得て寺を建立した。正式名称天台真生盛宗清浄山福蔵寺。
秀吉との戦いに敗れ野間の大御堂で自害した信孝の首を大塚は龍光寺で弔ってもらおうとした。だが神戸城周辺には羽柴軍が駐留していたので断念した。
【探索のヒント】東海道53次47番目の宿場である関宿にあります。観光地なので駐車場に困りません。関中学校の南にある「観光駐車場」が便利です。ここから歩いて5分もかかりません。山門@を入って本堂前に首塚Aがあります。ここを訪れた方はお寺の斜め前にある「前田屋製菓」の甘さ控えめの餡入りもち「志ら玉」をぜひご賞味下さい。
【駐車場】観光駐車場を利用
【最寄りの駅】JR関西線「関駅」 
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E国府城―鈴鹿市国府町【MAP】
関盛政の二男盛門が平安時代に国府があった地に城を築き国府氏を名乗った。盛門のあと武蔵守→山城守→佐渡守→佐渡守→盛直→盛邑→盛種と8代続く。神戸氏が信長と和睦すると国府氏は信孝の与力となり雑賀攻めに従軍、四国攻めは当主であった盛種が幼少ということで家老の国府市左衛門が名代として打田新右衛門と共に参陣していた。本能寺の変を知ると国府市左衛門は従軍していた関盛信にここは伊勢へ引き上げた方がよかろうと提案、賛同した盛信と信孝軍から離脱した。
山崎の合戦後、織田家中は信雄・秀吉派と信孝・勝家派に分かれ、他の関一族と同じく国府氏は秀吉についた。だが1583年正月関家重臣岩間八左衛門が主である関一政に反旗を翻そうと国府盛邑・盛種父子を誘った。かつて仕えていた信孝に組するのに何の不都合があろうかということで、他の関一族同様秀吉方から柴田方へ寝返った。伊勢方面は滝川一益のもと秀吉の攻撃に備えた。だがその裏をかいた秀吉の進軍の前に一益は敗退、国府城は早々と開城した。
【探索のヒント】鈴鹿川を北に見下ろす丘陵全体@が城跡と考えられています。県道41号亀山鈴鹿線から県道54号鈴鹿環状線に入り突き当りの平井商店を左折します。ゆるやかな坂を登りきる手前に土塁Aが確認できます。駐車場はないので坂を登りきった左側が広場になっている前に路駐しました。丘陵の内部は住宅と畑になっています。住宅の方は地形が分かりにくいですが畑には堀跡B土塁Cが確認できます。丘陵の北は雑木林でこちらにもかろうじて土塁と堀Dが確認できますがほとんどは土地の人も立ち入らないぐらい荒れています。案内板Eのある後ろあたりに深い堀があります。
【駐車場】なし 路駐
【最寄りのバス停】三重交通亀山国府線「本郷」
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F峯城―亀山市川崎【MAP】
江戸時代、諸国の実情を把握するために幕府より派遣された巡見使が利用したことから巡見道と名付けられた街道を見下ろす丘陵上に関盛政五男政実が1367年築城した。この街道は北は関ヶ原へ抜ける中山道、南は東海道と繋がる幹線道路で伊勢神宮への参宮道としても利用された。
天正2年の第二次長島一向一揆攻めに信孝の与力として参陣していた城主八郎四郎盛祐が討死しその弟盛治は8歳だったので信孝の傅役岡本良勝が城主となった。これは峯氏の所領が信孝のものとなったことを意味する。
本能寺の変後、織田家と関家それぞれの跡目争いから関家家老岩間八左衛門と国府盛邑・盛種父子は滝川一益に協力して峯城を襲撃、岡本を南伊勢に追放した。そして秀吉の伊勢攻めに備え滝川詮益を守りにつかせた。
一益は越前の柴田勝家と秀吉を挟撃するつもりだったが、勝家が雪で動けないうちに一益を討ってしまおうと秀吉は1583年2月7日佐和山城に集結した秀吉軍7万5千に伊勢出陣を命じた。部隊は三隊に分けられ、蒲生氏郷、長谷川秀一、堀秀政、蜂屋頼隆、筒井順慶、森長可、池田信輝、織田信包、津川義冬らで構成された峯城攻撃隊は鞍掛峠を越えて巡見道(当時はこの名前ではない)を南下して城を包囲した。峯城の南を流れる安楽川は当時はかなり蛇行しており河岸は所々に葦草が密集した沼沢地があり、東の御幣川は天然の堀となり包囲軍を阻んだ。さらに熟練した滝川軍の鉄砲隊も攻撃を仕掛ける包囲軍を悩ませ、結局城が開城したのは4月17日だった。すでに賤ヶ岳では勝家が破れており時勢は秀吉に向いていたが、詮益は早々と亀山城から退いた一益が立て篭もる長島城で再起を図るため兵3千を連れ城を退去した。
ところで信孝の家臣だった岡本信勝がどうして一益に攻められたのかが疑問であった。そこで亀山歴史博物館の亀山館長にお伺いしたところ、伊勢市岡本家の記録によれば岡本良勝は伊勢の人で関氏、北畠氏とは昔から縁があった。清州会議の結果、信孝が美濃へ移ったが良勝は峯城に残ったのはこうのように伊勢の事情に明るかったからである。そしてこれをきっかけに信孝から離れたらしい。秀吉はその良勝を味方につけることに成功した。その代償は伊勢の代官職であった。だが通説だと賤ヶ岳合戦後、味方である良勝の母は信孝の生母と共に磔刑にかけられ整合性がない。だが先の岡本家の記録だと筋が通る。すなわちこのような事実はない。良勝の母は犠牲になっていないということである。
【探索のヒント】国道306号線の「八島橋東詰交差点」を西へ八島川を渡ります。「JA鈴鹿」前の二差路の手前を右折して農道へ入ります。注意しながら左の山を見ていると白い看板@が見えます。ここで左折、橋を渡って広くなっている所に路駐します。
2010年9月に行った時、下草の手入れがされていなかったので登り口が分からず、登れそうな所を見つけて登りましたが、城跡までたどり着けませんでした。
2011年3月、とあるブログで「亀山市まちなみ文化財室で峯城を整備した」というのを見て、再度訪問しました。文化室では峯城に関する資料を用意しているのでぜひ手に入れて下さい。
現地では昨年はなかった峯城入口の案内Aがありました。山に沿った小道を進んでいくと昨年は行く手を阻んでいた下草が刈り取られていて、登り口を示す標柱Bに簡単に辿り着けました。ここから城域まで10分足らずで、南北100メートル東西50メートルの平坦地Cに到着します。その西側が天守台Dと言われています。その下には石積みがあったEと考えられています。天守台と広い曲輪は空堀Fで隔てられています。天守台から北へ進むと右手に4段の曲輪Gがありその先に虎口Hがあります。ここまでが峯氏時代の峯城と考えられています。その先、一旦谷筋へ降りて再び北へ向かうと高圧線点検の道へ出ます。虎口Iを過ぎた平坦地Jが峯氏以降に作られた遺構で、鉄塔が建っている所には櫓があったと推測されています。
峯城の南、国道306号線「八島橋東詰」の北東角にある西願寺Kは峯氏の祈願所です。
【駐車場】路駐 
【最寄りのバス停】亀山市バス東部ルート「川崎農協」
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G鹿伏兎城―亀山市加太市場【MAP】
伊勢・関と伊賀・柘植の国境の加太を関盛政の四男盛宗は本拠とし鹿伏兎氏を名乗った。加太を東西に通る大和街道は大和と伊勢を結ぶ主要街道で、壬申の乱・義経の上洛・家康伊賀越えなどにその名が登場する。
鹿伏兎氏は関宗家と行動を共にし応仁の乱でも宗家と同じ東軍に属した。戦国期、関盛信が六角氏と同盟した関係から六角氏の重臣平井定武の娘と浅井長政の婚礼に鹿伏兎氏9代目宗心が関家の名代として出席した。この時、長政と宗心は昵懇の間柄となり、信長の配下であったにもかかわらず、1570年姉川の合戦が起こると宗心は弟の定義と叔父の坂定住に鹿伏兎家を託して長政援軍に向かった。そして佐々成政、酒井忠次、小笠原長忠らと果敢に闘うも討死した。
宗心の遺児、四郎盛氏(15歳)と六郎(14歳)は父の敵を討つべく鹿伏兎家と縁を切り、1571年の長島攻めで一揆軍に加わり退却する織田軍の氏家卜全を討ち取った。だが織田軍の反撃を受け兄弟共々討死した。これにより鹿伏兎家嫡流は廃絶した。
なお、別説として兄弟は1574年7月の第三次長島攻めで信孝軍に加わっていて戦死したというものもある。
いずれにしても、嫡流が絶たれたので定義が城主となった。だが十二郷あった所領は加太領のみとされ、それ以外は信孝のものとなった。これも兄弟が一揆側に加担した罰なのか、本来なら消滅してもおかしくない鹿伏兎氏を存続させた見返りなのかは不明である。
定義は本能寺の変後のポスト信長争いでは早々と反秀吉の立場で鹿伏兎城に籠城、嫡男定基を伊賀方面に配備した。ところが秀吉は本隊を率いて亀山城を直接攻撃、落城させた。本隊に加わっていた蒲生氏郷は定義に降伏を促すが聞き入れてもらえなかった。その後、国府城・関城・峯城と陥落し鹿伏兎城だけが残った。事ここに至り、定義を含め鹿伏兎一族は城を脱出、四散した。このため鹿伏兎氏の所領とその家臣は信包が引き継いだ。
その後、定義は京都で没したが嫡男定基は信包に仕えたおかげで鹿伏兎城へ戻ることが出来た。次男定俊は加太で出家するがその子重宣は松平定勝に仕え桑名へ移った。重宣の子孫は途中嫡流が断絶するも明治維新迎えることが出来た。
【探索のヒント】鹿伏兎氏の墓@がある神福寺Aから鹿伏兎城へ登るのが紹介されていますがこのルートは本来は山の管理用の道で城へのルートは後付けされたものです。
最も安全に行くにはJR関西線「加太駅」から線路に沿って西へ向かいます。途中で国道25号線に出ます。このまま道なりに行くと左に消防庫があり道を挟んで反対側の畔道Bを山側へ入っていくと関西線に出ます。線路を渡りC山道を進み、池の右側の道を登って行きます。道はハッキリとついているので迷うことはりません。三十三体の石仏Dまでくればあとわずかです。ここから2から3分登ると道が分岐していて「左鹿伏兎城」の標識Eがあります。私が行った時、この標識が無く辺りを探すと落ちていました。とりあえず立て掛けておきましたがまたひっくり返ってそうな気がします。
分岐点を進むと右側に石垣F案内板Gがあります。畔道から約25分でした。山頂は思ったより広い作りでした。主郭部Hは比較的高い土塁で囲まれその東から南にかけて曲輪を配しています。井戸のある曲輪Iは主郭の東側で数段低い位置にあります。主郭と井戸の曲輪の南には巨大な土塁があり下草がなければ歩けそうです。尾根を利用して設けられた土塁を南へ下ると神福寺の裏へでます。下るだけでも大変だったのを考えるとよく皆さんここを登ったなぁと感心します。
【駐車場】なし 駅そばに駐車スペースあり
【最寄りの駅】JR関西線「加太駅」
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H亀山城―亀山市若山町
関一族の出自については諸説あり確定されたものはない。共通しているのは関氏が伊勢平氏の祖平維衡の子孫信兼説や伊勢に配流された平資盛の孫実忠説のように平家であったことである。鎌倉幕府より関谷二十四郷の地頭に任命され関氏を名乗った実忠だったが他の地頭同様、自分は任地に赴かず目代を置いた。1247年隠居するため実忠は関谷久我に居を移し1264年亀山城を築城、1年後城内で死去した。1333年北条家が滅亡すると6代盛政は鎌倉から関谷へ移り、亀山城を修築しここを本拠と定めた。盛政は「関氏中興の祖」と謳われたごとく鈴鹿・河芸九十六郷を支配するまでになった。この領地は五人の子に分割統治させ神戸・国府・鹿伏兎・峯を名乗らせた。そして関宗家は三男盛繁が継いだ。
関家15代盛信は六角氏との関係もあり信長に与することを拒んだ。その根底には伊勢平氏を祖とする関家が格下の織田家と同列になることへの抵抗があったのかもしれない。時勢には逆らえず信長と手を結ぶことになったが、信孝への接し方や六角氏と同盟していたことに難癖をつけられ、1574年春神戸友盛同様、蒲生定秀の日野城に幽閉された。当然、盛信の所領とその与力衆は信孝に与えられた。与力衆は信孝に仕える者、浪人する者と分かれたが葉若九郎左衛門だけが日野に行き盛信のそば近くで仕えた。1582年信長の怒りが解けて盛信は友盛と共に故郷に帰ることが出来た。だがゆっくりする間もなく盛信は信孝と共に四国攻めに出発した。そして本能寺の変の発生。一族の国府市左衛門がこの混乱に乗じて織田から離れましょうという誘いに乗った盛信は亀山に帰国した。山崎の合戦後、市左衛門は処罰されたが盛信はお咎めなしだった。関宗家のこの地での影響力を考えてのことだった。
翌1583年正月。盛信は次男一政、葉若九郎左衛門を伴い、秀吉の元へ年賀の挨拶に出向いた。信孝の美濃転封後の所領安堵の礼を兼ねてのものだった。だが彼らの留守を狙って不穏な動きが城内で起こっていた。盛信の嫡男盛忠は第三次長島攻めの際、蒲生軍に加わり討死した。そこで次男一政が跡継ぎとなったのだがこれに異を唱えた岩間八郎左衛門は三男盛吉(盛清、勝蔵)を擁立しようとした。盛吉は柴田勝家の甥勝豊のもと北陸方面に従軍していた。そのため勝家との繋がりがあった。「秀吉・盛信」対「勝家・盛吉」の対立構図が出来上がった。滝川一益は重臣の佐治新助益氏を亀山城代に送り込んだ。ちなみに佐治新助はサントリーの創業者鳥井信治郎の妻クニの実家佐治家の祖であり、次男敬三が佐治家に養子に行って佐治敬三(サントリー会長)となった。
滝川軍は秀吉軍の行軍は鈴鹿峠越えと踏んで人員を配備した。ところが秀吉の率いる3万5千の軍勢は馬落としと形容される難所安楽越を通って手薄な敵砦を撃破して亀山城、峯城、関城を包囲した。亀山城を攻めるのは山内一豊。堅牢な亀山城と佐治新助の指揮により山内軍は攻めあぐねた。だが犠牲を払いながら東南にある隅櫓を占拠、これを境に戦いの趨勢は変わった。落城後、佐治新助は捕えられたがその武勇により一益の元へ逃がされた。
秀吉による天下統一がなされ蒲生氏郷配下であった一政は1590年氏郷の会津転封により亀山を離れた。そのあとには峯城主であった岡本良勝(宗憲)が着任するが戦乱のため荒れ果てた城を捨てその南東に新たな城を建設した。関ヶ原合戦で西軍についた良勝は改易され一政が戻ってくる。しかし.1618年改易、近江蒲生郡へ移る。その後城主は石川氏→板倉氏→大給松平氏→板倉氏→石川氏と変わり明治維新を迎える。
【探索のヒント】岡本良勝が建てた亀山城@を1636年に本多俊次が大改修したものが現在の姿です。大改修に当たり堀尾忠晴が丹波亀山城の天守閣解体を命じられたのに伊勢の方を解体したため、建物なしになっていた天守台に多門櫓Aが建てられました。天守は将軍が宿泊に使ったので城主は二ノ丸御殿BCに住みました。明治時代の廃城令によりほとんどの建造物が壊されましたが2006年二の丸付近の築山D埋門と土塀E帯曲輪土居Fが復元されました。
関氏が建てた亀山古城は若山城とも呼ばれていました。県道647号白木西町線を西から来ると市立図書館・歴史博物館を過ぎて斜め左へ入る道があります。入ってすぐ左の角に亀山古城の碑Gと案内板があります。これ以外では古城を示すものは残っていませんが、亀山公園しょうぶ園入口横のテニスコートH太鼓櫓跡Iの下には空堀がありました。
●亀山城【MAP】●亀山古城【MAP】
【駐車場】亀山公園駐車場
【最寄りの駅】JR関西線「亀山駅」
【最寄りのバス停】亀山市バスさわやか号「亀山中学校」
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【寄り道】新所城―亀山市関町新所城山【MAP】
天正年間に関盛信が築いたとされる。関実忠築城説もある。信長の神戸攻めにはその名は出て来ないが、大和街道と東海道の合流地点に築城されているので重要拠点であることには違いない。2006年に鈴鹿関と思われる築地遺跡が発見され、万里の長城を思わせるような築地が新所城方面にまで伸びていたのではないかということで発掘がされている。
天正11年の秀吉の亀山城攻めの時、滝川一益の家老の木全忠澄の子で一益の養子となった忠征(法忠)が守っていた。秀吉軍の猛攻にも耐えたが賤が岳で柴田勝家の敗北したのを受けて開城した。その後、忠征は秀吉・秀長・家康に仕える。関ヶ原合戦後、小早川秀秋の重臣となるが秀秋が乱心すると出奔してしまう。放浪中に築城術を学んだ忠征は家康に召抱えられ、駿府城・名古屋城の普請奉行となった。なお、忠征の名は家康に召し抱えられてからである。家康の死後は徳川義直の直臣となる。
【探索のヒント】国道1号線と国道25線の分岐点である「新所町交差点」の南東にある城山が城跡です。鈴鹿関の発掘で城山を含めて整備がされています。なお、路駐がしにくいので関中学校の南にある観光駐車場を利用して下さい。
城山への入口@は「新所町交差点」から国道1号線を亀山方面へ約7百メートル行った右側、山へ向かう舗装された小道の先にあります。尾根ごとに曲輪が配置されているので全部で4つあります。高低差があまりないのでそれほど大変な山歩きにはなりません。最初の曲輪Aを東へ行くと切岸のある曲輪Bがあります。視界が開けるCのは西へ行った曲輪Dへ入る手前だけです。ここからしばらく山道を北西へ行くと空堀Eがあり、虎ロープの張った急な坂を登ると「新所城跡」の札のかかった曲輪Fへ出ます。この下あたりに矢穴のある巨石Gが転がっています。
民家の畑の北端Hから山へ入る道があり、鈴鹿関に関連する発掘Iが行われています。さらに道を進むと石積みJKが続きます。そして4つ目の曲輪Lですが最も北の石積みの後にあるのですがこちらからは登れません。北へ迂回してパンの配送センター側から登るといいと思います。
【駐車場】観光駐車場
【最寄りの駅】JR関西線「関駅」
【最寄りのバス停】亀山市バス西部Aルート「長徳寺前」
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【寄り道】正法寺山荘―亀山市関町鷺山【MAP】
12世紀にすでに創建されていた寺院を京都大徳寺の東渓和尚が関氏12代盛貞に乞われて1505年に臨済宗の拈崋山正法寺として開基した(『劉邦大得善寺記録』)。亀山城が政治・軍事施設とすると正法寺山荘は文化人を招くための別荘であった。その代表格が連歌師宗長である。盛貞の招待を受けた宗長は1525年4月22日から6月5日まで亀山に滞在して、正法寺山荘で連歌会が何度も開かれた。すでに隠居していた盛貞の隠居所とはいえ背後が羽黒山、山荘の三方が崖という地形を目の当たりにした宗長の印象は城であった。
永禄10年2月25日〜29日に里村紹巴が正法寺に滞在している(『紹巴冨士見道記』)ので盛信の代になっても山荘は機能していたと思われる。その翌年の信長の伊勢攻め以降、北伊勢は戦乱に巻き込まれ寺院は荒廃したとされるが、むしろ元亀4年から天正10年まで盛信が幽閉されていたのでその間に荒廃した可能性が強いのではないだろうか。天正18年に会津へ移った一政が慶長9年に大徳寺正受院住持の東嶺和尚とこの地を訪れ「旧跡」という扱いで詩歌を作っている。すでに寺院や山荘として機能していなかったということである。
【探索のヒント】春は桜、秋は紅葉の名所として有名な正法寺山荘跡ですが行ったのが盛夏の8月。下草がすごく地形がわずかにわかる程度。更に至るところにクモの巣。この季節は誰もここに立ち寄らないようです。
中央土壇@の北・東・南に土塁を配し通路で繋がっています。中央土壇にはその通路へ出るための石段Aが残りその先には一段低い曲輪があるのですがクモの巣と下草のため断念しました。山荘跡にはしょうぶ池Bという水源が今も水を湛え、3か所の井戸にもまだ水が湧いています。宗長がここを訪れ城主盛貞(可似斎と号す)と連歌会を開いた事を示す歌碑Cがあります。駐車場脇に五輪塔や墓碑Dがありますが発掘調査で見つかったもの集めたもので誰のものなのかは不明です。この山荘の主盛貞の墓も不明です。
小野川沿いには正法寺のほか4つの寺がありましたが現在は関氏の菩提寺である瑞光寺Eだけとなっています。1371年曹洞宗の太源宗真(曹洞宗主流派の嵯峨派でナンバー2太源派の祖、この年の12月27日死去)により創建されました。その後、戦火により焼失しましたが関盛信によってここに再建されました。本堂には平資盛、関盛貞(何似斎)・四郎種盛(盛貞嫡男)・盛信の位牌が安置され、盛信の五輪塔もあります。
また境内には権現柿Fという柿の木があります。家康が幼馴染の永隆が住職をしているということで訪問、この柿を食したことからこの名がついたということです。本能寺の変後、鹿伏兎城から白子へ向かう途中にもここへ立ち寄っています。
【駐車場】あり
【最寄りの駅】JR関西線「関駅」
●瑞光寺 【MAP】
【駐車場】観光駐車場利用
【最寄りの駅】JR関西線「関駅」
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I平田城―鈴鹿市平田本町【MAP】
武田信玄と交流のあった平田城城主平田賢元は加太主馬、弓削玄蕃、稲生外記などの援軍を受け織田軍に立ち向かうが大敗し自刃する。嫡男元綱は城を脱出し郎党を集め復讐せんとするが1580年病没する。
足利義教が将軍の1433年(永享5)、山門奉行飯尾為種らが延暦寺領を横領したと寺から訴えが起こされた。これに対する幕府の対応に不満を持った門徒衆が蜂起、幕府はこれを鎮圧するため諸侯に出陣を命じた。これを「永享の山門騒動」という。この時、平田喜国はその働きを認められ奄芸・鈴鹿・三重郡を与えられ海善寺城を築いた。30年後直隣は鈴鹿川から水を引き水田開発を行うため新たな城を築いた。これが平田城である。直隣の弟、綱泰は足利義尚が新百人一首を選定した時に詠進するほどの和歌の名人であった。
【探索のヒント】平田城は開発により遺構は消滅、推定地(平田町字御門垣内)だけです。「イオンモール鈴鹿ベルシティ」から県道643号三行庄野線を北へ進み、「鈴鹿高校東交差点」を通り過ぎてすぐ、「ヒットポイント」で右折します。農地の左前方に木の茂み@があります。ここが御門垣内の北の端で土塁があります。住宅街に入り突き当りを右折すると川俣神社へ行きますが、その裏にある水路Aが堀跡です。車は川俣神社付近に停めるといいでしょう。
【駐車場】路駐
【最寄りの駅】近鉄鈴鹿線「平田駅」
【最寄りのバス停】三重交通53系「鈴鹿高校前」
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