| 経過 |
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| 元亀元(1570)年9月湖西を南下して京へ侵入しようとした朝倉・浅井軍は摂津から近江へ戻ってきた織田信長軍との戦いを避け比叡山にある砦に立て篭もった。それを支援したのが延暦寺@である。天台宗の各地の寺院領が信長に押領されていることへの不満の表れであった。 9月24日信長は延暦寺の僧10人ほどを呼び寄せ「押領している寺の土地は返還する。だから連合軍の支援は止めてもらいたい。だが僧籍にある身として一方に肩入れできないのであれば中立を守ってもらいたい」と言った。さらに稲葉一鉄に命じてそれを朱印状にして僧達に渡した。そして最後に信長はこう付け加えた。「もしこの二つの条項のいずれも飲めないと申すのなら、延暦寺並びに山王十一社(日吉大社)Aをことごとく焼き払うからそのつもりで回答するように」と。しかし延暦寺は回答をよこさなかった。 元亀2年9月信長は湖南の一向一揆勢を退治すると11日石山城Bへ入った。ここで前年信長のプライドをズタズタにした延暦寺への攻撃が話し合われた。その夜織田軍2万5千は密かに坂本Cの町を包囲した。 12日午前6時織田軍は町に攻め込んだ。突然の出来事に右往左往する住民を織田軍は容赦なく切り捨て、町に火を放った。琵琶湖側は織田軍で満ち溢れているため逃げ道は比叡山しかなかった。山道Dを逃げる僧や住民を追って織田軍は避難所である延暦寺に攻め入り、そこから逃れようとする僧や避難住民を悉く殺戮した。信長は予告通り、延暦寺・坂本の里坊・日吉大社を焼き払い、僧や住民三、四千を殺害したE。 延暦寺攻撃と同時に堅田にも織田軍は攻撃を開始していた。延暦寺からの逃亡者を捕らえるのと同時に堅田の真宗勢力Fを一掃するのが目的であった。宇佐山城主として湖西の監視を任された明智光秀は堅田に近い雄琴城G主和田秀純に9月2日付けの書状で延暦寺・坂本・堅田を壊滅させ、さらに反信長の仰木城Hの仰木氏を葬るのに協力を求めている。 この殲滅戦は反信長勢力だけでなく中立の宗教勢力・公家にも衝撃を与えた。焼け野原となった坂本を与えられた光秀は坂本城Iを築城、町の再建に乗り出した。 |