@延暦寺―大津市坂本本町4220
後白河法皇は平清盛に山門焼き討ちを命じたが叶わなかった。「鴨川の水とサイの目と山法師(叡山の坊主)は思い通りにはならない」後白河法皇の嘆きである。
奈良興福寺の「南都」に対し延暦寺は「北嶺」と呼ばれ、共に朝廷・寺・武家に関係なく敵対する相手には実力を以って対抗する武闘派の宗教組織であった。
これを苦々しく思っていたのが室町6代将軍足利義教である。籤引により天台座主から還俗し将軍となった義教は五山の禅僧を重用して宗教勢力の掌握を図った。しかし延暦寺は思い通りにはならなかった。1433年幕府に対し十二か条の要求を突きつけ、通らない時は神輿を担いで強訴すると脅してきた。義教はこれを拒否するが幕府内の穏健派は義教を説得、これを受け入れさせた。しかしこの対応が気に入らないと叡山は450年前から対立する園城寺に火をかけた。今度ばかりは義教の怒りは収まらなかった。義教は諸将に出兵を命じ自らも出陣した。これに驚いた叡山側は首謀者円明院兼宗を差し出し解決を図った。これを受け入れた幕府は兵を引いた。しかし翌年関東公方足利持氏に通じた叡山が将軍呪詛を行っているという情報を義教が掴んだ。義教の怒りは頂点に達した。六角氏、京極氏に命じて叡山攻めを敢行した。本格的な攻撃に僧は日吉大社から神輿を根本中堂へ移して立て篭もった。今度こそ叡山の息の根を止めると息巻いた義教だったが諸将の賛同を得られなかった。仕方なく兵を引いた義教は「罪を認め悔い改める者は許す」と叡山側に通告した。すると金輪院弁澄らが出頭してきた。しかしこれは罠だった。義教の前に引き出された弁澄らはすぐに斬首に処された。これを知った僧達は再び抗議のため根本中堂に立て篭もった。だが義教の強硬姿勢は変わらず前途を悲観した僧達は根本中堂に火を掛け焼身自殺した。この火が他の山上寺院に飛び火し根本中堂と共に焼け落ちた。この年8月延暦寺は義教によって再建されるが以前のような過激さは姿を消した。洛中で叡山のことを話すことは禁じられ違反者は斬首となった。8年後の嘉吉の乱で義教が暗殺されると延暦寺は再び武装化し他から干渉されない存在となった。
2度目の焼き討ちは1499年。1493年明応の政変で室町幕府の実権を握った管領細川政元が亡命中の足利義稙の入京に協力した叡山を攻撃した時である。この時も根本中堂は灰燼に帰した。
そして今回の信長による叡山焼き討ちである。この直前信長は吉田兼和に「南都と北嶺を焼いた者に祟りはあるのか」と聞いた。兼和が「そのような例はありません」と答えると信長はホッとしていたという。叡山は信長によって跡形も無く焼かれたと言うのが通説である。しかし昭和51年から始まった滋賀県教育委員会による発掘調査で大規模な火災の痕は発見できなかった。また多聞院英俊の日記には「延暦寺は荒廃していて根本中堂に灯明が2、3個点いているのみ」とあり、「信長公記」には根本中堂と山王二十二社、霊社、僧坊をことごとく焼いたとある。これにより信長が叡山攻めを行った時延暦寺にはそれほど建物が建っていなかったのではないかと考えられている。
【探索のヒント】平安時代最澄は比叡山に一乗止観院という草庵を建てたのが寺の始まりです。初め「比叡山寺」とも呼ばれ、「延暦寺」と号するのは最長の死から2年後です。延暦寺は横川・西塔・東塔の三塔からなっています。日本史の教科書に載っている僧の多くがここ出身です。延暦寺で有名なのが回峰行です。特に千日回峰行は記録に残る限り47人しか達成していません。玉泉坊流(東塔無動寺谷)、石泉坊流(西塔正教坊)、恵光坊流(横川飯室谷)の三流があり、玉泉坊流は信長の焼き討ち後も続いています。石泉坊流は1864年に途絶え、恵光坊流は1590年に途絶えていましたが坂井雄哉大僧正が1987年に復活させました。
比叡山は観光地化され車でも電車でも徒歩でも登る事ができます。各塔には駐車場が完備、また各塔を結ぶバスも運行、健脚の方には東海自然歩道が整備されています。車の場合、比叡山ドライブウェイ、奥比叡ドライブウェイを利用するのですがこれが高い!
比叡山ドライブウェイのHPで割引券が手に入るので是非利用しましょう。
【車で】県道30号下賀茂大津線から比叡山ドライブウェイ「田の谷峠料金所」
     県道47号伊香立浜大津線から奥比叡ドライブウェイ「仰木料金所」
【電車で】延暦寺へは比叡山坂本ケーブル「ケーブル坂本駅」
【比叡山内は】比叡山内シャトルバス
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東塔は一乗止観院がのちに根本中堂@となり寺の活動の中心です。信長の焼き討ちのあと1642年徳川家光により再建されました。ここにある「不滅の法灯」は焼き討ちの時に途絶えましたが山形県立石寺に分灯されていたものを持って来たそうです。この他信長焼き討ちの時に存在したと考えられるのは大講堂Aと言われています。文殊楼B大書院Cも残っていたと言うことも聞きました。文殊楼は無料で中を見る事ができます。中の階段は非常に急で正直下りるのが怖かった。大書院は延暦寺の迎賓館と言うべき建物で立ち入り禁止となっています。【MAP】
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東塔の北が西塔です。最澄の弟子円澄らによって整備されました。1596年秀吉によって園城寺弥勒堂から移された延暦寺で最も古い建物である釈迦堂@があります。この建物の後ろ―香炉ヶ岡には焼き討ちで焼失した弥勒堂のそばにあったと伝わる弥勒石仏Aがあります。光背の破損は焼き討ちの時のものと言われます。西塔の駐車場からドライブウェイを挟んで少し北に焼き討ちを免れた唯一の建物と言われる瑠璃堂Bへ行く小道があります。未舗装の細い道なので車では行かない方が良いでしょう。なお東塔と西塔の間には延暦寺で最も神聖な最澄の廟・浄土院Cがあります。【MAP】
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3代座主慈覚大師円仁が草庵を結び法華経書写を納める小堂を建立、848年に根本観音堂(横川中堂@)を創建して発展した横川は西塔から2.8キロ北にあります。ここは最澄の延暦寺構想には入っていませんでした。昼間でも薄暗い深山幽谷を最も感じることができます。またあちこちに山城を彷彿とさせる野面積みAが見れます。鐘楼の前の道を南へ向かうと飯室谷または八王子山へ向かう道へ行きますがその手前に元三大師の御灯明Bがあります。延暦寺中興の祖元三大師が修行中、女人禁制のため大師に会いに来れない坂本の町に居る母親に達者である証としてここで松明を焚いたのですがこの火は生まれ故郷虎姫からも眺められたと言われます。松明でさえ見えたと言う事は浅井長政は小谷城から比叡山が火に包まれる様子をつぶさに見ていたはずです。どんな気持ちだったのでしょうか。【MAP】
 
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A日吉大社―大津市坂本5−1−1【MAP】
平安遷都により京都が日本の中心となるとその鬼門に位置する比叡山は王城鎮護の山とされた。その比叡山の山の神大山咋神を祀る日吉大社は魔除けの祈願所とされ身分の貴賎を問わず信仰された。788年最澄が延暦寺を開くと天台宗と延暦寺の守護神として日吉大社を崇敬、山王権現と呼んだ。やがて比叡山の地主神・大山咋神信仰と天台宗が結びつき山王神道が生まれた。背景には本地垂迹説(神は仏の化身であるとする説)がある。山王神道の隆盛により平安時代以降、社殿は大規模となり室町時代には境内内外それぞれ108の摂末社の他仏教施設が林立した。信長の焼き討ちによって灰燼に帰した日吉大社だったが秀吉により復興されほぼ焼き討ち前の姿に戻った。しかし明治時代の廃仏毀釈運動により境内の仏教施設は破壊され現在に至る。
織田軍は夜明と共に坂本の町へ攻め込んだ。琵琶湖側から攻め込まれたため坂本に住する僧侶・住民は山側―日吉大社へ逃げ込むしかなかった。それを追って境内に攻め込んだ織田軍は
西本宮A東本宮F宇佐宮B・牛尾宮・白山宮・樹下宮D・三宮宮の上七社とその周辺の中・下社それぞれ七社合わせて二十一社、境内にある108の社頭鐘楼、お堂、七重塔婆などの建物に次々火を放ち破壊の限りを尽くした。延暦寺の僧が強訴の度に担ぎ出した神輿もこの時全て焼けてしまった。
この焼き討ちでは人々は無差別に殺されたように思われているが神官は見逃されたと言われる。日吉大社内陣参籠衆で禰宜の大蔵卿行丸と長男縫殿助行広、神主治部少輔資継、常陸介成前が避難していた社殿に織田軍の永原重興の兵が乗り込んできた。身に付けていたものを剥ぎ取られて丸裸にされたが必死の受命に奪ってきた帷子を与えられ永原軍に加わり翌朝山中越えで逃げ延びた。
信長がまだ黒煙が立ち込める境内に馬で乗りいれた時、どこからか一本の矢が飛んできて馬に命中した。馬は絶命したので替えの馬を待つ信長の周りを馬廻り衆が守った。すると信長はそばの石に腰掛け「売僧の射掛けた矢などワシに当たるものか。下がれ下がれ」と言いった。すると二の矢が信長の腰をかすめ近くの石を砕いた。周りを見渡すと3百メートルほど離れた崖に一人の人間を見つけた。「あそこにいるぞ!」信長の声に鉄砲衆は一斉射撃を浴びせた。しかし玉は当たらず足軽が急いでその崖へ登ったがすでにその姿はなかった。「もしワシが罰当たりなことをしているならあの矢は命中しているはずだ。そうならないのは神仏があやつらを見放した証拠。焼き討ちは神仏が望んだ事じゃ」と言い放った。信長を狙った人物は金剛相模と言う。
【探索のヒント】八王子山を含む13万坪(関西らしく甲子園球場11個分)の境内@ですがゆっくりと回っても1時間あれば十分です。ただ三宮宮と牛尾宮Eへ行くと時間よりきつさでヘトヘトです。でも行く価値はあります。体力に自信のない方は東本宮の隣、山上へ上がる石段の両脇に両宮の遥拝所があります。ここから白山宮Cへ行く途中に神輿庫があります。焼失したものを桃山時代から江戸時代にかけて復元したもので昭和40年代まで使われていました。日吉大社西受付の外に元三大師が延暦寺へ登る前に決意を固めたことから求法寺と称された求法寺走井元三大師堂Gがあります。ここも戦火に遭いましたが江戸中期に再建されました。
【駐車場】日吉大社東受付付近 大宮川観光駐車場
【最寄りの駅】JR湖西線「比叡山坂本駅」 京阪電車石坂線「坂本駅」
【最寄りのバス停】江若交通「日吉大社前」
 
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【探索のヒント】坂本の里坊だけでなくその周辺にも火が放たれた。すでに他のページで紹介した酒井神社・両社神社・若宮神社の他に集落内に災いが入るのを防ぐように境界線の藤ノ木川の横にある天照大神を祀る幸神神社@、日吉大社社家の先祖の霊を祀っていた磯成神社A大崎神社B供所神社Cも焼き討ちのため焼失、再建されたものである。なお最後の三神社は日吉大社・比叡山が真後ろにあり遥拝できるようになっている。
日吉大社社家は下阪本6丁目から比叡辻1丁目に居を構えていた祝部氏でその子孫成仲は樹下家の、行言は生源寺家の祖となった。
ところで日吉大社の「日吉」と言えば思いつくのは秀吉。戦国時代傷ついた兵士が樹下家を訪ねてき。どのような縁で樹下家へ来たのか不明だが神官は娘に武士の介抱を任せた。やがて二人は懇ろとなり生まれた子供は「日吉丸」と名づけられた。この武士は尾張の人で怪我が悪化して帰国した。
また坂本には
霊府神社Dと言う小さい神社がある。1535年美濃で大洪水があり尾張から木下弥右衛門とその妻が坂本へ避難して来た。二人は日吉の神に子が授かることを祈願、「鎮宅霊符神」拝めば願いが叶うとお告げをもらい像を彫り、それを持って日吉大社に参拝したところ子供を授かり日吉と名付けたという。江戸時代偶然この地からその像が掘り出され、それを神体に霊府神社が建てられた。
【探索のヒント】全ての神社は旧西近江路に沿ってあります。この道は国道161号線の西側を平行に走り「下阪本5丁目交差点」で東側に変わります。交通量は少なくそれでいて道幅も広いので神社へ立ち寄るのに路駐も可能です。ただ霊府神社は狭い道に面しているので徒歩がいいでしょう。
●幸神神社【MAP】 ●磯成神社【MAP】 ●大崎神社【MAP】 ●供所神社【MAP】
●霊府神社
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B石山城―大津市 【MAP】
【探索のヒント】
 
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C坂本里坊―大津市坂本【MAP】
織田軍に包囲された坂本の町では何とかこの事態を納めようと日吉大社に相談して黄金5百枚を携えた使者を信長本陣に走らせた。しかし金品で事が解決する問題ではなかった。この前年延暦寺を訪れた多聞院英俊はその荒廃ぶりを日記に書きとめている。「ほとんどの僧が坂本の町へ下りて生活している。学業に励まず女・酒に溺れ、禁じられている魚・肉を食し、中には高利貸しまでしているものも居る。これでは山門が荒廃するのは当たり前だ」と。里坊とは山中での厳しい修行を終えた老僧の隠居のための住坊を指す。それが修行もせず俗人と同じ生活を
僧のほとんどが無防備な坂本で生活しているのだからこれほど攻めやすい事はなかった。坂本が戦火にかかるのはこれが初めてではない。6代足利将軍義教による永享の山門騒乱でも坂本は灰燼に帰している。信長もこれに倣ったように坂本に火を掛けた。その頃と違うのはほとんどの僧が坂本で寝起きしていた事である。まさに一網打尽の有様でとにかくそのとき坂本に居たというだけで人々は殺されていった。

この後1582年日吉大社、1584年延暦寺が再建されると坂本も門前町として復活するが往時の繁栄は戻ってこなかった。すでに琵琶湖の拠点は大津に移り延暦寺も日吉大社も昔の権威が失墜していたからである。
【探索のヒント】重要伝統的建造物群保存地区として坂本の里坊群・門前町は平成9年10月31日に選ばれました。南北は叡山学院寮の南側から大宮川まで東西は生源寺から求法寺までの地域約28.7haです。坂本と言えば「穴太積みの石垣」で有名ですが織田豊臣城郭研究家木戸雅寿氏は当時「穴太衆」と言う石工集団は居なかったと言います。大津市歴史博物館の学芸員の方も「穴太衆14代」と言う人はいるが果たして室町時代の石積み衆の流れを汲んでいるのかは不明だと言っておられました。「穴太頭」堀金一族は江戸幕府から与えられた地位で現在の坂本の石垣も江戸時代に作られたものです。
「坂本駅」近くの観光案内所でもらえるパンフレットにはモデルコースも載っているのでそれを参考にすれば効率的に回れます。
日吉馬場@の県道316号比叡山線から一筋外れると平日だったからかもしれませんが静かな空間に癒されます。雙厳院周辺の石積みAを楽しみ権現馬場へ向かいます。この坂がとにかくきつい。御殿馬場Bも坂ですがそれ以上です。権現馬場を上りきる手前に十三体石仏群Dがあります。南近江観音寺城主六角承禎が母の菩提を弔うために対岸の郷里の鵜川(現高島市)に四十八体の阿弥陀如来石像を作りました。そのうち十三体を天海大僧正がここへ移しました。このあと日吉大社などを回って西教寺Eへ向かいます。西教寺も焼き討ちで無くなりましたが坂本城主になった光秀が菩提寺と定めて復興に尽くしました。西教寺大本坊(庫裏)Fは坂本城の陣屋を移したものです。ガイドマップだと西教寺の前の道を戻るのですが大宮川駐車場を東へ向かい大宮川を渡ると戒光院Gなどのある石積みの町並みを楽しめます。最後に日吉馬場にある芙蓉園には穴太石垣の解説と穴太積みの洞窟があります。そしてJR湖西線「比叡山坂本駅」のすぐ東、県道316号の横の「坂本石積みの郷公園」には生源寺にあった鐘Jが安置されています。信長焼き討ちを知らせるために激しく叩かれた為、ヒビが入ってしまったと言われています。
【駐車場】日吉大社東受付付近 大宮川観光駐車場
【最寄りの駅】JR湖西線「比叡山坂本駅」 京阪電車石坂線「坂本駅」
【最寄りのバス停】江若交通「日吉大社前」
 
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D山道
日吉大社に避難した人々は唯一の避難ルートと言える八王子山へ向かった。日吉大社の神体山である八王子山は牛尾山とも呼ばれた。ここには朝日が反射して輝いたと言う金大巌(こがねのおおいわ)の磐座と男神・大山咋神を祀る牛尾宮と女神・鴨玉依姫神を祀る三宮宮が鎮座した。この二つが奥宮で東本宮と樹下宮が里宮である。

住民を八王子山へ逃がした僧兵たちは刀、薙刀、弓矢を携え織田軍の進路を阻もうとした。しかし完全武装の織田軍の前に30分ほどで防衛線は突破された。奥宮に避難していた人々は慌てて山道を通って延暦寺へ逃げ出した。織田軍はそれを追いかけ次々と討取って行った。やがて死骸が散乱する八王子山へ信長が現れ、奥宮を焼き払うように命じた。
主に坂本の人々が使った山道は三石岳を越えて横川へ向かう道だった。比叡山山麓から延暦寺へ向かう道はいくつかあり、織田軍はその全てを完全封鎖して山上から逃亡を図るものを捕らえては殺害していった。
【探索のヒント】現在延暦寺へ向かう山道はハイキングコースから千日回峰行のルートも含まれる過酷な山登りまであります。「信長公記」にもある「八王子山」は金大巌@と奥宮を総称してそう呼ぶので逃げ場のない本当の八王子山へ逃げたわけではありません。ただ金大巌の横から八王子山へ向かう道Aはありテープで迷わないようになっているそうです。奥宮の少し手前に三石岳を経由して横川へ行く横川行者道Bがあります。横川直前、飯室谷と通じる本坂と出会い「元三大師の御灯明」に出てきます。飯室谷から横川へ通じる本坂Cは途中まで舗装されているのですが「浄刹結界跡」を左へ向かうと山道となります。最もポピュラーな道は日吉大社の西受付側の本坂Dです。根本中堂への所要時間は2時間です。本坂は比叡山坂本ケーブル方面からでも合流できます。この本坂を登って南善坊で右のルートをとるのが大宮谷林道で3時間かけて横川へ。途中で本坂へ向かう道もあります。延暦寺の最も南の無動寺Eへは県道47号伊香立浜大津線「日吉東照宮」を南へ向かい「琵琶湖病院」直前の比叡山へ向かう道Fを使います。1時間半で明王堂Gに到着します。
横川行者道:【MAP】 飯室谷横川本坂:【MAP】 本坂:【MAP】 無動寺坂:【MAP】
 
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E犠牲者を弔う
焼き討ちの後、織田軍の生存者の探索が始まった。十六谷と言われる比叡山の深い森の隅々まで人海戦術で調べ上げてゆく。見つかって逃走を図るものは射殺されたり、洞窟に身を潜めていたものは引きずり出されて首を切られた。まだ焼け残った場所があれば再び火をかけられた。延暦寺攻めが完全に終わったのは15日だった。その犠牲者は数千にのぼり貴重な歴史的文化遺産も全て焼失したと言われるが実は火事場泥棒的に持ち出された貴重品もあったであろう。その一つが高野山に伝わる平安時代の逸品「阿弥陀二十五菩薩聖衆来迎図」である。これには秀吉が関わっていると言う話がある。秀吉は横川方面の守備をしていたが信長の凶行を憂える秀吉は自陣の警備を甘くしていたので逃げ果せた人たちがいてその中のものが件の逸品持っていたといわれる。その後「来迎図」は安楽谷に一時安置され幾人かの手を経て高野山へ辿り着いたと言う。ところで横川を守ったと言われる秀吉だが琵琶湖西教寺浦で逃亡者の捕縛にあたっていたともいわれている。
【探索のヒント】平成4年10月に東塔の第一駐車場横に遺品を納める元亀兵乱殉難者鎮魂塚@が建てられ回向法要が営まれました。その時攻めた側の織田軍の戦死者並びに本能寺で不慮の死を遂げた信長の霊も過去の遺恨を捨て一緒に供養したと言う事です。
大正末期の比叡山坂本ケーブルの敷設工事の時、多くの石仏が発掘されました。これは焼き討ちの犠牲者の霊を弔って地元の人がつくり山中に安置した地蔵尊です。ケーブル「坂本駅」の次の「ほうらい丘駅」を下りた所に石仏を集めた
石窟Aがあります。この石窟の左側にはさらに多くの石仏Bが斜面に沿って置かれています。
石仏としては
延暦寺西塔釈迦堂脇Cと日吉馬場沿いにある最澄の生誕地に建てられた生源寺Dにもあります。また2008年5月に盗難にあった40体もの地蔵群Eは焼き討ちで命を落した僧侶を弔ったものと言われています。湖西道路「坂本北IC」を西へ向い、二つ目の信号を左折した足洗川沿いにあります。ここだけ見るなら路駐できますし坂本を回るなら「大宮川観光駐車場」が近くにあります。
その姿は見れませんが正源寺の正面、「日吉そば」から南へ向かう「つくり道」沿いに
焼き討ちで残った地蔵Fを安置しているお堂があります。
●元亀兵乱殉難者鎮魂塚:【MAP】
【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】坂本ケーブル「延暦寺駅」
●蓬莱丘の石仏群:
【MAP】 【最寄りの駅】坂本ケーブル「ほうらい丘駅」
●延暦寺西塔釈迦堂:
【MAP】 【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】比叡山内シャトルバス「西塔」
●生源寺:
【MAP】 【駐車場】専用駐車場 大宮川観光駐車場
【最寄りの駅】JR湖西線「比叡山坂本駅」 京阪電車石坂線「坂本駅」
●足洗川沿いの石仏群:
【MAP】 【駐車場】路上駐車 大宮川観光駐車場
【最寄りの駅】JR湖西線「比叡山坂本駅」 京阪電車石坂線「坂本駅」
【最寄りのバス停】江若交通日吉台線「日吉台市民センター前」
●焼き討ちで残った地蔵:
【MAP】 【駐車場】大宮川観光駐車場
【最寄りの駅】JR湖西線「比叡山坂本駅」 京阪電車石坂線「坂本駅」
 
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F堅田の真宗勢力―大津市 【MAP】
【探索のヒント】
 
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G雄琴城―大津市雄琴2丁目【MAP】
森可成の戦死で宇佐山城主となった光秀は停戦したとはいえ気を許せない朝倉氏・浅井氏の他、堅田を中心にした一向宗徒とそれと共同歩調を取る近隣の土豪、さらに他の勢力の干渉をとことん拒む延暦寺を監視する役割を負った。その中で前年堅田を攻めた雄琴城主和田秀純が光秀の誘いに応じている。焼き討ちの10日前、光秀は書状を秀純に送っている。内容は織田方に付いてくれる事への感謝と雄琴城へ弾薬・兵の補給、焼き討ちの段取り、さらに昨年の出来事で秀純に対する織田方の不審もあるので人質を差し出した方が良かろうということである。
和田氏は佐々木六角氏の流れを汲みその祖は六角定秀といわれ神崎郡の和田山城主となった。定秀の曾孫が足利義昭の将軍擁立に尽くした和田惟政で惟政の叔父が秀純である。秀純は本来六角家嫡流と言われる六角義秀に仕え1566年雄琴城を賜った。光秀が坂本城主となるとその配下に組み込まれるが本能寺の変では光秀に組みしなかった。変後秀吉に従い1603年12月3日死去する。嫡男信盛は織田秀信に仕えたが関が原合戦で東軍の岐阜城攻めの際に戦死した。家督は弟正盛が継ぎ、徳川時代雄琴城が廃されると下野した。今も和田一族は雄琴に残っている。
【探索のヒント】城跡は場所がわかっても非常に行きにくい所でした。国道161号線「北雄琴交差点」から県道315号仰木雄琴線に入ってすぐの信号を左折、「福領寺→」の碑を見つけたら右折します。ここからが大変。急な坂の左に「福領寺」、右に専用駐車場。正面は雄琴神社。間の悪い事にここに工事用トラックが停めてあるから、こっそり駐車場に停めて一応お寺を拝見。その足で寺の前から裏山へ向かう舗装路を辿っていきます。すると右側に土塁@のようなものを発見。中は竹薮Aで遺構らしきものはありませんが雄琴の町を見下ろすには絶好の丘になります。
続いて秀純の墓ですがさっき寺へ来た道を右へ向かいます。国道161号へ出る手前、右の丘へ上がっていく坂があるので大きく右折して上ります。左に墓地があります。私は坂を上がったゴミ集配所の前に駐車しましたが墓地に沿って駐車できます。さっきの雄琴城もここへ車を停めて行った方が楽だったかもしれません。さてお墓ですが墓地から右へ向かう道があり「行き止まり」の表示があります。そこから正面に赤く変色した杉があります。そこに「さむらい墓(ばか)」と言う墓地があります。行き止まりの道を進み住宅街を抜けると左に山へ向かう道があるのでさっきの赤い杉を目指して進んで下さい。墓地の向かって左の奥に秀純の墓Bがあります。
雄琴城:【MAP】 【駐車場】なし
【最寄りの駅】JR湖西線「雄琴駅」 【最寄りのバス停】江若交通浜大津線「北雄琴」
和田秀純の墓:
【MAP】 【駐車場】なし
【最寄りの駅】JR湖西線「雄琴駅」 【最寄りのバス停】江若交通浜大津線「雄琴温泉」
 
H仰木城―大津市仰木4丁目【MAP】
延暦寺の焼き討ちに続いて織田軍は仰木から堅田に火を放った。延暦寺の北の出口を封鎖する目的もあったがやはり昨年の坂井政尚の戦死の弔い合戦のためでもあった。仰木は横川の北東に位置し平安時代前期から製鉄、土器製造、銅の鋳造技術を持った集落があり、伽藍建築などで延暦寺と深い関わりがあった。13世紀には仰木庄は延暦寺領になっている。
この集落の南東に光秀の誘いにも応じない仰木城高山氏がいた。天文14年六角義秀の家臣だった高山五郎兵衛尉と種村大蔵の家臣が争いとなり死者41人を出した上、さらに戦になりかねない状況になった。義秀は両者を呼び高山に仰木城を与え種村には甲賀の城を与えて争いを収めたという記録がある。光秀は高山氏の領地は切り取り勝手であると和田秀純に確約したので織田方に付いたとも考えられる。
【探索のヒント】2006年上仰木遺跡で製鉄炉が発掘されニュースになっていました。しかし仰木城の情報はありません。城郭マップ淡海の城によれば奥比叡ドライブウェイと県道47号伊香立浜大津線の合流点「郵便局前交差点」の北角です。路駐はちょっとしにくかったので郵便局の駐車場を拝借しました。
 
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I坂本城―大津市下阪本3丁目【MAP】
信長はすでに湖西は光秀に任せることを決めていたようで焼き討ち終了と同時に坂本へ城を構えるよう命じている。これによりこの年の2月磯野員昌が降伏して接収した丹羽長秀の守る佐和山城とともに京都の東にある街道を監視できる態勢が整った。以降光秀は坂本城を拠点に堅田衆を配下に置き大津から高島一帯の反信長勢力と戦う事となる。
元亀3年閏正月6日吉田兼見が坂本の光秀を訪ねた時、坂本城は普請の真っ最中だったが12月22日には天主造りに取り掛かっていた。翌年の6月28日再度光秀に会いに行った兼見は天主下の小座敷へ引越しの最中だったが上機嫌だったと日記に書き記している。この頃にようやく城の完成を見たのであろうか。天正6年1月11日坂本城での茶会の後、津田宗及は城内から御座船に乗り対岸の安土へ渡ったと記録されている事から坂本城は水城であったと推測されている。さらにルイス・フロイスによれば豪壮華麗な城であったと言う。安土城築城前と言うことを考えれば所謂象徴としての見せえる城の先駆けと言える。
そんな坂本城も本能寺の変後、堀秀政に包囲され明智秀満とともに滅んでいった。その後清洲会議で坂本領有を固辞した秀吉に代わり若狭から高島までを与えられた丹羽長秀が坂本城を再建、城主となった。長秀の後は杉原家次、浅野長吉が城主となるが天正15年大津城築城に伴い廃城となった。
【探索のヒント】坂本城の紹介でよく見かける碑@東南寺Aの西にあります。東南寺といえば天台宗僧の登竜門と言われる戸津説法の場です。江戸時代の記録から坂本城は東南寺周辺と考えられていました。「新修大津市史7巻」の坂本城復元図を見るとキーエンス(余談:日本で最も給料が高い会社)研修所Bが本丸跡となります。平成6年の琵琶湖の異常渇水で湖底に沈んでいた坂本城の石垣が見つかり話題になりました。車を停めるのなら国道161号線「石川町交差点」から約250メートル北の「都市公園湖岸緑地・北大津地区」の駐車場を利用してください。ここは城域ではありませんがでっかい坂本城の碑C光秀像D、琵琶湖のほとりには発掘された石垣Eが置かれています。共に焼き討ちで焼失した酒井神社F両社神社Gの間にあった両社川Hと東南寺横の東南寺川C旧西近江路Iに囲まれた部分が二の丸とされています。大道は坂本城の中堀でしたが坂本城廃城後埋立てられ街道となりました。二の丸の西に「[ 」字で囲むように三の丸が作られました。三の丸だった所に天台宗から真宗本願寺派に変わった順照寺Jがあります。こちらで聞くと三の丸は琵琶湖を埋立てて作られたのでこの辺りは地面を掘ると今でも水が涌いてくるそうです。そのためこのお寺の本堂前にある樹齢4百年の松に耳をくっつけると水を吸い上げる音がするそうです。
●元祖石碑:【MAP】●東南寺:【MAP】●キーエンス研修所:【MAP】
●北大津湖岸緑地:
【MAP】●酒井神社・両社神社:【MAP】●大道町:【MAP
【駐車場】都市公園湖岸緑地・北大津地区駐車場
【最寄りの駅】京阪電車石山坂本線「松ノ馬場駅」 JR湖西線「比叡山坂本駅」
【最寄りのバス停】江若交通浜大津線「下坂本」

 

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