経過 |
三好三人衆が阿波から摂津に戻ってきたとの知らせを受けた織田信長は、直ちに三好三人衆が立篭る野田城・福島城へ向かった。 元亀元(1570)年8月26日織田軍は三好勢を包囲した。このときすでに浅井久政・長政父子と本願寺顕如、三人衆の間に同盟が成立していた。 8月31日浅井長政の高島衆7千と山崎吉家の越前衆が今堅田@に進撃してきた。さらに越前からの朝倉景健軍がそれに加わり朝倉・浅井連合軍は3万に膨らんだ。 9月16日軍備を整えた連合軍は南下を開始した。湖西を監視する宇佐山城A城主森可成は敵の侵攻を食い止めるため出撃したが連合軍に包囲され、19日比叡辻Bで戦死した。勢いづいた連合軍はそのまま宇佐山城を包囲して猛攻を加えたが城方の頑強な抵抗に合い城攻めを断念、20日馬場・松本、21日山科・醍醐に放火、22日には京へ入る勢いだった。 しかし23日摂津から京都本能寺へ戻って来た信長が翌24日大津へ向け出陣してくると連合軍は比叡山系の壺笠城・青山城C・蜂峯城Dに篭った。25日信長は比叡山の京都側Eと滋賀側Fの麓に連合軍を包囲するために各将を配備すると宇佐山城へ本陣を移した。このまま両軍は睨み合うことになる。10月20日信長は朝倉の陣へ菅谷長頼を遣わし「こうしてても時間の無駄なので日時を決めて決着をつけよう」と申し入れた。しかし朝倉方から返答はなかった。この後朝倉方から休戦を持ちかけてきたが信長は一蹴している。 この結果、信長は湖西で朝倉浅井軍、摂津では本願寺・三好衆、南近江では浅井氏と和睦し再起した六角承禎と一向宗徒らに同時に対処しなければならなくなった。信長はこれを解消するため11月13日顕如と20日三好方の篠原長房と21日六角承禎と次々と和睦していった。なお21日は信長の弟信興が長島の一向一揆に攻め殺された日であり、本拠地尾張の足元にも不穏な動きが迫っていた。 11月25日堅田衆を代表して猪飼野昇貞、居初又次郎、馬場孫次郎が信長に通じてきた。これを受け信長は坂井政尚に兵1千を与え堅田Gへ派遣したが、26日これを察知した朝倉軍は一向宗徒の協力を得て堅田に攻撃を仕掛け、激戦の末政尚を討取りそのまま堅田を占領してた。 延暦寺の援助を受けた連合軍を織田軍が攻めあぐねている構図だが連合軍のほうも兵糧が乏しくなってきていた。さらに朝倉軍は雪が積もる前に越前へ帰国しておきたかった。 11月28日足利義昭が調停のため三井寺にやって来た。「信長公記」では朝倉方から義昭に仲介を頼んだとあるが、浅井氏に「公家・門跡方の政道の件は貴国より沙汰に及ぶべきの条、相違これあるまじき事」という朱印状を出したり、朝倉氏には「天下は朝倉殿持ち給え、我は二度と望みなし」(三河物語)との起請文を出していることから、信長が和議を申し出たものと考えられている。 義昭は関白二条晴良を動かし12月9日延暦寺に綸旨が出され、13日織田と朝倉・浅井の間に和議が成った。それに従い14日織田勢は瀬田まで軍を引いた。15日山を下りた連合軍は高島で織田方から預かった柴田勝家と氏家卜全の子供を解放してそれぞれの領地に戻っていった。 |
六角氏との戦いへ行く 長島一向一揆との戦いへ行く 延暦寺焼き討ちへ行く |
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