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@野田城―新城市豊島【MAP】
奥三河を本拠にする作手奥平氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏は信玄に従うが野田城の菅沼定盈は家康に従属したままだった。信玄は長篠城から東三河へ通じるルート上にあるこの城はどうしても確保する必要があった。城兵は4百ほど包囲する武田軍は2万5千、信玄でなくても簡単に降伏すると判断した。しかし小城ながら台地にあり城の南北は「龍淵」「桑淵」と呼ばれる断崖で守られていたので武田軍も力攻めではどうにもならなかった。そこで信玄はまず二の丸・三の丸を分断、本丸に城兵を押し込めて次ぎにお得意の金堀人夫による城の水源断ちにでた。ところが何日経っても城は降伏しなかったという。「菅沼家譜」よればお金を入れた瓶が城内から下ろされると武田軍の中に水を入れて返すものがいたというのであるが真偽は不明である。家康も対岸の八名井まで来たが引き返している。もはやこれ以上の籠城は無駄と判断した定盈は自分の切腹と引き換えに城兵の助命を願った。次に家康の元にいる山家三方衆の人質と自分との交換を申し出た。3月10日人質交換がなされ定盈は解放された。信玄はこの城を放棄したためのち再び定盈が城主に返り咲いた。
定盈の祖父定則(田峯菅沼定忠の三男)1516年8年の歳月をかけて野田城を築いた。定則は作手菅沼氏から嫁を娶り、八名に勢力を持つ西郷正勝に娘を嫁がせた。野田菅沼氏はこの間主を松平清康から今川義元と変えるが義元が死ぬと当主定盈は家康についた。これに怒った義元嫡男氏真は永禄4年7月吉田城小原鎮実に命じて野田城を攻撃させた。定盈は西郷正勝を頼って城を捨てるが9月正勝が宇津山城朝比奈泰長と戦い戦死してしまった。永禄5年家康が信長と同盟して三河で勢力を回復するのに伴い、6月定盈も野田城に夜襲をかけて奪還に成功した。
【散策のヒント】国道151号線「川田」から東へ向かうバス通りに「野田城」の案内板が出ています。信号から城跡の横へ続く道が大手道にあたります。左手の茂みが野田城跡で「三の丸」B「二の丸」Cの表示があります。案内板の横から本丸へいけます。本丸周囲に空堀があり土橋で繋がっています。野田城の碑@の向かい合わせに大きな空井戸Dがあります。三の丸から本丸へは平面で繋がっているAので無理して進めば行けそうです。本丸から南東へ道があり、石段を降りると民家の庭先へ出て行きます。この付近に家臣の屋敷があったのでしょう。南東からみると本丸は見上げる形になります。
【駐車場】なし
【最寄の駅】JR飯田線「野田城」駅 【最寄のバス停】豊橋鉄道バス新豊線「豊島口」
 
@A
A法性寺―新城市豊島字龍谷【MAP】
信玄の死亡原因として「結核」「胃癌」の他に「鉄砲狙撃による怪我」がある。毎夜野田城から聞こえる村松芳休の笛の音に誘われた信玄が何時も同じ場所で聞いているのに気づいた城兵の鳥居三左衛門が狙撃したという映画「影武者」や一部のTVドラマで採用された話である。その狙撃された場所が「法性寺」にある。ここには野田城戦死者を弔う碑もある。
【散策のヒント】野田城址の西に法性寺はあります。この付近を散策すると野田城が台地の端で周囲を見下ろす絶好の場所に築かれたことがわかります。山門をくぐって(くぐらなくても行けますが)すぐ左に「戦死者の弔碑」Aがあります。もう少し進んだ左の高台が狙撃された場所@です。木々が生い茂ってこの場所から野田城を確認できません。
【駐車場】専用駐車場
【最寄の駅】JR飯田線「野田城」駅 【最寄のバス停】豊橋鉄道バス新豊線「豊島口」
 
@A
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C信玄塚―長野県下伊那郡根羽村横旗【MAP】
「甲陽軍鑑」の記述によると信玄は5年以上前から体調の異変に気づいていたらしい。騙し騙し今日まで来たがいよいよ最期の時が来たと悟った信玄は、馬場信春・内藤昌豊・山県昌景を枕もとに呼んだ。そして万が一のことがあっても、信玄は病気療養中と敵に思わせるだけで、敵は自領を守る事だけしか考えないだろうから、その間に国力を豊かにしておくように。勝頼嫡男信勝が16歳になるまで勝頼に後見させ、武田信豊・穴山信君はそれに協力して欲しい。しかし信勝が16歳になったら家督を継がせ、勝頼には「孫子の旗」「将軍地蔵の旗」「八幡大菩薩の旗」を持たせず、今まで通り「大文字の小旗」を持たせ、差物、法華経の母衣は信豊に譲り、「諏訪法性兜」は勝頼が着用してから信勝に譲ること。自分の葬式は不要だが死んで3年後の4月12日に鎧を遺骸に着せて諏訪湖に沈めて欲しい。
更に外交として上杉謙信と和睦する事。礼を以って和睦すれば謙信は、武田家の強い後ろ盾になってくれる。信長が攻めてきた場合は決して領外で戦わず、武田領に引きずり込んで決戦を挑むべし。同じく家康も自分の死によって駿河へ攻め込んでくるだろうから駿河に誘い込んで滅ばすべし。北条氏政が人質を切り、武田家と断交すれば小田原へ攻め込んで一気に押しつぶせばよい。
自分が死んだら信廉を影武者にし御館様病気のため甲府へ戻ると家臣に伝えよ。くどいようだが勝頼が血気にはやって信長や家康に戦いを仕掛けないようにして欲しい。彼らが自ら滅びるのを待てばよい。最も怖い謙信とは和睦をしたらもう恐れる必要はないから寿命が尽きるのを待てばいい。こう遺言した。
信玄が最後を迎えたこの地は「風林火山の旗」を横にして宿営していたので「横旗(畑)」と言う地名になったと言う。信玄塚にある宝篋印塔は信玄の100年忌にあたり武田家に縁のある人たちが建立したと言われるが、塔の形式は室町時代末期の特徴がある。
【散策のヒント】国道153号線(三州街道)の根羽宿と平谷宿の中間地点に@信玄塚があります。根羽からだと「信玄橋」、平谷からだと右側の落石防護壁に「騎馬軍団の壁画」を目印に国道のすぐ横にあります。ここにあるA宝篋印塔が見つかった時、塔身(真中の四角い部分)がありませんでしたがのち郷土史家によって発見されました。信玄塚の由来にはB信玄の埋葬地はここから50メートル東の国道下にあるとのことでしたので捜してみました。国道の真下、民家の庭先のような所に供養塔、一石五輪塔が十数基ありました。よく見ると武田文字があります。最も背の高い墓石が信玄のものと言われています。
【駐車場】なし
【最寄のバス停】西部コミュニティバス「信玄塚」
 
@A
B
D長岳寺―長野県下伊那郡阿智村駒場【MAP】
信玄の主治医だった御宿監物が「信玄公、駒場で敢無く亡くなり・・・」と書き残している事から横畑・浪合(徳川実記・三河物語)の他に駒場も信玄終焉の地に挙げられる。武田時代、軍馬の駐屯基地であった駒場というのが阿智村の一部から浪合・平谷までを含んでいたためいろいろな候補地が挙がっている。
下伊那を支配するため信玄は土豪の下條信氏に妹を嫁がせた。その下條一族の裕教法印が住職だった長岳寺に信玄の遺骸が運び込まれた。武田軍が信玄が病気でこれ以上行軍できないという事で甲斐へ引き上げた後、残った馬場信春・高坂弾正・原備前守・下条伊豆守らの立会いで信玄の遺骸は火葬に付され、遺骨は密かに甲斐へ運ばれた。そして信玄公没後4百年を記念して、火葬塚から火葬灰が長岳寺へ移され十三重塔が建立された。このお寺には信玄の兜の前立てと兜仏が安置されているが、両方とも専門家のお墨付きで、信玄との縁の深さが垣間見れる。
長岳寺は比叡山へ向かう僧侶の無料の宿として最澄が恵那に創建した。当時はかなり大きなお寺であったが檀家を持たないことから徐々に衰退、移転を繰り返しながら現在の場所に落ち着いた。
【散策のヒント】長岳寺へ行くには国道153号線から側道に入らなければなりません。ローソンのある「駒場東」の信号から側道へ入り、昔風情の道をしばらく行くと左から来た道とT字に交差している所があります。角に個人経営のスーパーがあります。ここを左折して少し行くとこの道と分かれる狭い道があります。正面の高台に「長岳寺」の看板があるのですぐわかります。@長岳寺前に駐車場はあります。一段を登って右にA武田信玄公灰塚供養塔があります。その横には長篠合戦で殿軍として戦死したB馬場信春の五輪塔もあります。
【駐車場】専用駐車場
【最寄のバス停】信南交通バス「役場入口」
 
@A
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E信玄火葬塚―山梨県甲府市岩窪町
信玄は死に臨み三年の間自分の死を隠すように遺言した。実際信玄の死は足利義昭を除いてほとんどの大名の知るところとなっている。勝頼はこの遺言に従い三年後信玄の遺骸をここ土屋昌次邸で荼毘に付した。葬儀は天正4年4月16日恵林寺で執り行われ埋葬された。このあと土屋邸は信玄墓所となるが村人は「魔縁塚」と呼んで近づかなかった。2百年後の安永8年甲府の代官中井清太夫が石棺を発掘したところ「法性院機山信玄大居士」とあったので埋め戻し、幕府の許可を得て信玄の墓所と定めた。
【散策のヒント】武田神社から徒歩約20分「北部幼児教育センター」の前にあります。武田神社から「北山野道」という小冊子を見ながら歩いていきました。車で来たら「北部幼児教育センター」に駐車場にちょっと停めさせてもらってはどうでしょうか。県道119号線を南側に曲がると火葬塚@があるのですがそのまま道なりに行くと信玄正室三条夫人の墓所Bのある円光院(山梨県甲府市岩窪町)があります。どちらも道標がちゃんとあるのですぐわかります。火葬塚から南に大泉寺C(山梨県甲府市古府中町)があります。武田三代の霊廟と信玄の父武田信虎の墓があります。
信玄火葬塚:【駐車場】なし 【最寄のバス停】山梨交通「護国神社入口」【MAP】
円光寺:【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】山梨交通「護国神社前」【MAP】
大泉寺:【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】「山梨大北」【MAP】
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