@犬居城―周知郡春野町堀之内【MAP】
天野氏はもとは伊豆の武士だったが源頼朝に従って武功をあげ、犬居城付近の地頭に任じられて土着した。その後今川氏に従っていたが主家没落後は徳川家康についていた。しかし武田信玄が遠江に触手を伸ばしてくると信玄に寝返った。
【探索のヒント】ここへ行ったのは1990年10月です。すっかり記憶が薄れているのでかすかな記憶だけ書いておきます。詳しくお知りになりたい方はこちらをどうぞ。国道362号線沿いにあります。車で行きましたが停める所はありました。城山が城跡ですが山頂までハイキングコースになっているので大層なことはありません。山頂には展望台があって眺望は最高です。
【駐車場】駐車スペースあり 【最寄のバス停】「犬居交番前」
 
A只来城―天竜市只来【MAP】
只来城が文献で見られるのは「浜松御在城記」「甲陽軍鑑」だけであり、当時の記録には現れない。それによると犬居城を出た武田軍は信玄が本隊を率いて森方面に南下、二俣城を目指す別働隊が「多々羅江城」を攻めたとある。また只来城で軍を二手に分けたとの説もある。個人的には犬居城で二手に分かれたほうが森方面には行き易いと思う。この城は二俣城の支城としての性格が強く腰曲輪、堀切の遺構だけで人工的な建造物のあとはない。
 
B浜松城―浜松市元城町【MAP】
信長と同盟して以来三河より東へ勢力を伸ばしていた家康が元亀元年(1570)6月岡崎城から曳馬城に移って遠江支配の城を新たに作ろうとした。曵馬城を縄張りに取り込んだ東西450メートル、南北500メートルの平山城が浜松城である。完成は天正6年(1578)2月。三方が原台地の南東の端に位置し天竜川が作った谷が堀の代わりをする天然の要害に城は築かれた。作左曲輪・本丸・二の丸が一列に並んでいるのが特徴である。三の丸はこの時代にはまだ存在していなかった。天守台の石垣は「野面積み」で見た目より強固なものである。
【散策のヒント】観光地なので車で行っても大丈夫です。私は駅でレンタサイクルしましたがあまりお勧めできません。何しろこれ以降の各ポイントが離れすぎています。11月に行きましたが三方が原方面は木や建物が邪魔になって見えませんでした。でも少なくともすぐ目の前を武田軍が通過したのではないのは確かです。
【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「市役所前」「美術館」
 
C天方城―周智郡森町向天方【MAP】
天方城主天方通興は今川方の武将で家康に敵対していた。永禄12年(1569)6月19日家康は先陣榊原康政・天野康景・大久保忠□に天方城攻略を命じ、激しい攻防戦の末、通興は降伏した。しかし翌元亀元年(1570)10月軍兵を集めて立て篭もったため、家康は再び大須賀康高・榊原康政らに命じて城を攻めさせた。通興の抵抗むなしく攻め落とされ徳川の支配下に入った。通興は信玄の侵攻にすぐに降伏、武田軍の久野弾正忠宗と一緒に通興は天方城を守った。
天正元年(1573)3月家康は「信玄へ降伏し間導(先達)となりし徒(なかま)を捨て置くべきにあらず」と平岩信吉に天方城攻めさせた。久野弾正は城兵を指揮して大手の門を切って出て戦い、寄せ手の大久保忠隣・渡辺政綱・渡辺守綱らは烈しく攻め、ついに城主久野弾正は降伏し甲斐へ逃げ帰ってしまった。なお通興の子の通綱は家康の長男・信康自刃のとき介錯役を務めている。
【散策のヒント】県道58号線「天森橋」交差点を東へ入ります。橋を渡って二つ目の道を左折しばらく走って右へ曲がりまた直進します。川を渡る手前に山へ登る道があります。山頂に碑が立っています。私が行ったのは1990年ですから、その後どのように変化しているかわりませんが、車は空き地に停めて徒歩で山頂に向かいました。山頂は公園として整備されています。
【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】しずてつジャストライン「城下下」
 
C一宮城【MAP】
 
C飯田城―周知郡森町飯田【MAP】
崇信寺の裏手が城跡。築城の年代は明らかでないが、応永の初め頃、天方城主の山内対馬守が武力を持って飯田の荘をとり、この地に城を築いて、ここに移り天方城は弟の山城守に譲った。永禄年代、対馬守の子孫、道泰の代に徳川家康に攻められ主従ことごとく討死して廃城となった。この城は落城まで170年間遠江武威を振るった対馬守は道美と号して文武両道を極め、ことに如仲禅師について禅を修め、応永8年(1401)飯田山崇信寺を建立した。森町教育委員会 森町文化財保存会(現地案内板より)
【散策のヒント】県道58号線「下飯田橋」の北にある郵便局を過ぎて右に入る道があります。細いですが少々の車は入れます。そのまま進んでいくと崇信寺に出ます。
【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「飯田」
 
@A
B
C各和城―掛川市各和
各和城の候補地が2箇所あり場所は特定されていない。古墳を城として使うのはよくあることで一つの候補の各和金塚古墳Aは全長66.4mの前方後円墳で和田岡古墳群のひとつで5世紀代に原野谷川流域を治めていた首長の墓、古墳であると考えられている。永源寺@は曹洞宗のお寺で古文書が市指定の文化財になっている。各和氏住居があったとされるは八幡宮付近B。天正元年になると久野宗能と石川家成に命じて各和城を攻略して再び徳川のものとなった。
【散策のヒント】永源寺は国道1号線「国本」交差点を北へ上がり、東名高速をくぐってそのまま行くと細い道と交差しています。それを左に曲がって少し行くと右手にお寺があります。古墳はお寺に行った道をそのまま直進して右に入る道があります。私が教えられたのは各和橋を渡って左に折れ、その道を山に入って行く行き方でした。細い山道を行くと古墳のそばまで車で行けます。ほとんど車も来ないですが端へ車を停めて高圧電線の鉄塔目指して山道を歩いていくとすぐに古墳の碑があります。
永源寺:【駐車場】なし 【MAP】  各和金塚古墳:【駐車場】なし 【MAP】
 

D久野城―袋井市鷲巣【MAP】
徳川の支城が次々と落城する中で久野城はもちこたえた。それはこの城の構造にあった。周囲は湿地で囲まれていて大軍が一度に攻めることができなかった。大手門から二の丸、本丸までは道が幾度も直角に曲げられており、塀や柵なども設けられていてで大手門を突破しても容易に先へ進めなかった。可睡宇刈丘陵の支陵の南端にあるこの城の弱点は尾根が続く北側だった。そこで幅の広い堀切や巨大な土塁を設けて北からの攻撃に備えた。
久野城は座(蔵)王城、鷲之巣城とも呼ばれ1494年今川氏の遠江侵攻によって築かれたものと考えられている。初代城主は久野宗隆。久野氏は藤原南家を祖とする工藤氏の末裔で鎌倉時代和田義盛の乱の鎮圧に功績があって遠江国久野庄を拝領後、久野氏を名乗った。その後今川氏の旗本として活躍するが、二代目(異説あり)城主元宗は桶狭間の戦いで千秋四郎の首をあげ、義元の本陣に首実検のために来ていた折、信長の奇襲を受けて戦死した。そのため油山寺の僧だった伯瑞を還俗、宗能と名乗らせ城主とした。その3年後から信玄と家康による遠江争奪が始まり、宗能は家中の今川派を排除して家康に忠義を尽くした。
【散策のヒント】駐車場完備です。県道413号線「東新屋」の交差点を北へ向かうと道が二股に分かれます。左の道を進み東名高速の下をくぐり直進すると右手に小高い丘が見えます。そこが城跡です。袋井市役所でパンフレットをもらえるので地図とにらめっこしながら散策してください。私ももう一度行きたいと思っています。
【駐車場】専用駐車場
 
@A
B
 
E木原畷―袋井市木原
信玄の今回の軍事行動で徳川軍と武田軍が初めて戦闘になったのがここ木原である。実際の戦闘は古戦場となっている
許弥神社@より北の村はずれであったといわれる。
【散策のヒント】国道1号線「木原交差点」で左の道を斜めに進むと古戦場跡と言われる「許弥神社」の前に到着します。駐車場はわからなかったのですがありそうです。木原では武田軍が陣を張っていました。でも木原畷の石碑のとなりになぜか「家康の腰掛石」Aがあります。神社の前の道をさらに東へ行くと右手に復原された「一里塚」があります。その十字路を北へひたすら進んでいくと田んぼの真中に木原畷古戦場Bの碑があります。そこから南西に見える山のようなものが磐田原台地です。
許弥神社: 【MAP】 【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「木原」
木原畷古戦場:
【MAP】 【駐車場】なし
 
@A
B
F大日堂―磐田市三ヶ野【MAP】
久野城を囲み木原・西島に陣を張る武田軍の偵察に家康が選んだのが磐田原台地の東の端のここである。さらに敵状探索を内藤信成に命じたがその後武田軍と合戦となった。武田軍は家康の退路を断つために側面に回り込んだ。この動きを察した本多忠勝は今は本格的な戦闘をするときではないので浜松へ引き上げた方が良い、と家康を説得した。忠勝は25歳。桶狭間合戦を初陣として家康の合戦には悉く参加した。しかしその生涯で受けた傷は皆無といわれるとおり、攻め時・引き際を読み取る能力はずば抜けていた。武田軍は三ヶ野坂を登り攻めかかってきたが忠勝が巧みに馬を操り、武田軍を翻弄、その間に家康は見附方面へ撤退を開始した。

忠勝が武田軍と戦った三ヶ野坂は南北朝時代から主要な街道だった。その後江戸時代、明治時代、大正時代と街道の道筋は変わっていったが必ず大日堂を通過Aした。
【散策のヒント】車では入っていけないので大日堂@前の車止め前に停めるか、「三ヶ野公会堂」前に1台ぐらいなら停めれそうなスペースがあります。大日堂の碑が建っている場所に「本多忠勝物見松」があったそうです。標高30bの台地の端なので周囲を見下ろせる物見には最適の場所です。写真に西島・木原方面を収めようとしたのですが木が邪魔になって三ヶ野橋の写真Bしか撮れませんでした。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「三ヶ野」
 
@A
G見附
信玄が掛川城と浜松城を分断すべく徳川方の城を次々に落とし久野城を囲んだのをうけて家康は内藤信成に武田軍の偵察を命じた。そして三箇野川で最初の軍事衝突があり、浜松城へ引き上げる徳川軍を追う武田軍の行手を遮るように見附の町に火が放たれた。これは見附の町衆が武田軍の追撃を邪魔しようと自ら火を放ったものとの記録がある。
家康は浜松城を築く前見附に
城(城之崎城)Aを建てようとした。しかし水の便が悪いこと天竜川があるために岡崎、岐阜との連携が取りにくいことから断念した。見附は古代遠江の国府のあったところである。場所は特定されていないが磐田北小学校の校庭が有力で御殿・二之宮遺跡から木簡や墨書土器が出土されてここが跡ではないかとの説もある。戦国期今川義元が遠江を支配すると見附を町衆による自治都市とした。支配者が今川から家康へ移ると町衆も家康に従い、三方が原合戦でも家康を助けることで恩を売って見返りを期待している。
【散策のヒント】見附は古代から遠江の中心地であったのが理由なのか磐田市役所などの行政機関が集まっています。磐田市役所の北側には広々とした国分寺跡@があります。
国分寺跡:【駐車場】市役所駐車場 【最寄の駅】東海道本線「磐田」 【MAP】
城之崎城:【駐車場】専用駐車場
【MAP】
 
@A
H一言坂―磐田市一言【MAP】
三箇野川から逃げる徳川軍を追った武田軍は見附の西にある一言坂で追いついた。ここで再び本多忠勝が馬を自在に操り自慢の蜻蛉切をふるって追いすがる武田軍を撹乱して、味方が天竜川を渡るのを助けた。二度の忠勝の獅子奮迅の働きに武田軍も「家康に過ぎたるもの、ヤクの頭に本多平八」と忠勝を褒め称えた。
【探索のヒント】国道1号線「一言交差点」の東へ400b言った所に碑@が建っています。碑の横の道を北へ行くと右手に坂道があります。ここ当時の一言坂Aです。一言坂は姫街道にありました。国道1号線で車を停めるのは難儀なのでこの細い道に一時駐車しました。
(ここからは案内板に記載)この道は、古くより「池田近道」とも呼ばれ多くの旅人に利用されました。それは、東海道が見附宿から中泉代官所の方へ南下し、さらに豊田町森下付近から池田の渡船まで北上する遠回りな道であったため、見附宿からまっすぐ西に出て一言坂を通り、池田渡船場まで斜めに直線に行けるこの道が好まれたのは当然かもしれません。しかし、この道は「かち」(徒歩)の人しか通ることのできない細い道で、馬や荷物は東海道を行くしかありませんでした。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「一言」
 
@A
H智恩齋―磐田市一言【MAP】
見附から天竜川の池田の渡しへ繋がる姫街道を逃げる家康は途中にあった智恩齋で無事天竜川を渡れるようにと祈願した。「一言」の地名の由来はここにある「一言観音」@だと言われている。またこの観音は一生に一度だけ「一言だけ」願いを叶えてくれるということでこの名前がついたとも言われる。智恩齋の山門Aはこの付近の旗本皆川歌之助の陣屋門を移築したものである。
【探索のヒント】国道1号線「一言交差点」の1つ西にある交差点を北へ向います。東西へ走る比較的広い道を越えはじめの道を左へ行きます。すぐ右に道があり、それが智恩齋へ繋がっています。
【駐車場】あり 【最寄のバス停】磐田市バス「一言北」
 
H挑燈野―磐田市上万能【MAP】
一言坂の西に土地の人が挑燈野(ちょうちんの)と呼んだ場所がある。逃げる徳川軍はこの辺りの湿地帯に布橋を掛けたり、武者人形や旗差物をたて付近の松林には火を燈した提灯を掛け自軍が陣取っているように見せかけた。そこへ武田軍は攻めかかったが湿地に人も馬も足をとられ身動きできなくなり、徳川軍に矢や鉄砲を打ち込まれ多くの武田の兵が戦死した。村人が戦死した武田の兵を懇ろに弔ったのが挑燈野である。夏になると挑燈野には「万能蛍」と呼ばれる蛍が沢山飛び交った。それは戦死した武田軍の兵たちが古里恋しさから蛍に姿を変えて飛び交っているのだと言われた。
【探索のヒント】国道1号線「上万能」交差点横にある「パチンコ ツインドーム」の駐車場にあります。
【駐車場】パチンコ店駐車場 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「上万能」
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