@匂坂城―磐田市匂坂中【MAP】
天竜川沿いに二俣城へ向かう信玄の次のターゲットになった匂坂城は平城で大軍の武田軍を前に簡単に落城した。信玄はここへ重臣の穴山梅雪を置いた。梅雪を配置したのはまだ落ちていない久野城や掛川城に備えてのことだった。
匂坂城主の匂坂氏は今川氏一族とされているが藤原氏の出であるからこの関係は成り立たない。ただ向坂氏が今川氏堀越氏を滅ぼしたの功績に堀越氏を名乗ったことがあることから一族として扱われた可能性がある。今川氏親の時に今川氏に仕えたらしい。1528年今川氏輝は匂坂長能に本領安堵し、中日向城の警備を命じるなどかなりの信頼を置いていた。長能の後を継いだ三男吉政は義元の死後、家康侵攻で離反者が相次ぐ中、今川に従い続けた。しかし永禄11年12月ついに今川家を離れた。吉政の兄政信の子政祐は武田氏の秋山信友の陣地を訪れ「自分が匂坂氏の嫡流だ」と接近を謀ったが、これを知った吉政に殺害された。この後吉政は家康の旗本となり、姉川の戦いでは真柄十郎佐衛門を討ち取る活躍を見せた。
【散策のヒント】県道44号磐田天竜線の東にある「岩田小学校」「岩田幼稚園」の南の田んぼの真中に碑が建っています。小学校の前に駐車場はありますが平日停められるのかはわかりません。別情報ですが平成5年まではこの碑はもう少し西側にあったそうで城と館とは違う場所にありました。
【駐車場】小学校前にあり 【最寄のバス停】自主運行バス「JA岩田支店前」「匂坂中」
 
@A
A亀井戸城―磐田市豊岡村合代島【MAP】
匂坂城を落とした信玄は二俣城を攻めるために合代島に本陣を移した。合代島は磐田原台地の北端に位置し周囲には城が点在するので大軍を収容するのと5`弱はなれた二俣城攻めの指揮を摂るのに便利な場所である。しかし信玄が合代島のどこに本陣を置いたかは不明である。高柳光寿氏は社山城と推定しているが二俣高校の教諭太田裕治氏が亀井戸城の遺構を発見したこと、信玄がこの付近の地名にある「野辺」に陣を張ったという記録があること、二俣城からの攻撃を想定した曲輪の配置などを挙げて小和田哲男氏はこここそが信玄が本陣を張った場所と断定している。
【散策のヒント】県道44号磐田天竜線と県道40号掛川天竜線の合流点より南東にあります。その手前の左に「磐田信金」がある交差点を東へ行くか合流点の東にあるガソリンスタンドのある交差点を南へ向かいます。橋から見てやや右正面にある山@が城跡です。駐車場はないので橋の手前の道幅の広い所に車を停めました。橋を渡って川沿いに右へ回り込んでいくと民家があります。丁度家の外へ出ていた人が居たので山へ入っていいか聞くと「子供のときはよく入っていたから大丈夫」と言ってくれたので登れそうな所から上がっていきました。道はありません。目標は「近江の城郭」で見た祠Aです。山頂に到達しても木々で視界が塞がれて二俣城や周囲を見渡せませんが眺望はよさそうです。 
【駐車場】なし 【最寄のバス停】自主運行バス「谷口橋」
 
@A
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A社山城―磐田市豊岡村社山【MAP】
標高130bの台地上にあるこの城は匂坂長能が築城したとされ天文元年菅沼重左衛門定平と城主を交代している。社山城から浜松城を見ることができ@また二俣城への見通しもよいため信玄が本陣を構えた場所と言われていた。では何時武田方の城になったかは不明で元亀2年説や元亀3年説がある。亀井戸城とともに「合代島」の中にあり大軍の武田軍を一ヵ所で収容することは無理があるのでこの城も利用されたことは間違いないと思う。ここに配備された軍は二俣城落城後は神増から天竜川を渡って信玄本体と合流したのかもしれない。
【散策のヒント】県道44号磐田天竜線の「富岡南小学校」の南から東へ向かう県道66号浜北袋井線へ入ります。山に沿ってうねうねと続く道を進みます。山を下ったあたりで左側に農園の看板があるのでそこを左折します。しばらく行くと再び左側に今度は城跡へ案内する看板があるのでそれに従って登り口まで進みます。そこまでは車で行くことができます。駐車場はありませんが2台ぐらいなら停めるスペースはあります。本丸Aまではそれほど時間はかかりません。途中には堀切B土塁Cなどの標柱があります。本丸の東側が二の丸Aです。地図には「社山公園」とありますがどこが公園なのかわかりません。本丸へ来るルートは3本あるEようですが今回は試していません。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】自主運行バス「広瀬」
 
A神田山砦【MAP】
 
A仲明城―磐田市敷地町仲明【MAP】
詳細は不明。亀井戸城、社山城と近い距離にあるので武田軍を収容するのに利用された可能性がある。
【散策のヒント】正月の午後3時ごろなのとこの直前に行った社山城から下っているときに捻挫をしてしまいとりあえず仲明公会堂まで行って写真だけ撮りました。標柱があるようなので再訪を目指します。
【駐車場】なし 
【最寄の駅】天竜浜名湖鉄道「敷路」 【最寄のバス停】自主運行バス「JA敷路」
 
B二俣城―天竜市二俣町【MAP】
二俣城は西を天竜川東と南を二俣川で守られた台地の南端に位置し、武田軍が攻めるとすれば北側からしかなかった。信玄も一月ぐらいで何とかなると踏んでいたらしく信長包囲網の一角朝倉義景に11月19日「現在二俣城を囲んでいるがまもなく片付くと思う。来年5月にはともに信長と戦おう」という手紙を送っている。しかし信玄の予想に反して城は落ちず12月に入ってしまった。12月3日信長が近江から岐阜へ引き上げると肝心の義景も越前へ兵を引いたという知らせが入った。信玄にとっては大誤算だった。何としても二俣城を片付けないでこのまま三河へ進むと背後を衝かれる恐れあった。そんな時山県、馬場によって城の水の手を断つ方法を提案された。
また落城直前、浜松城から家康が偵察に二俣城近くまで出てきたことがあった。これを見た信房は天竜川の渡河地点を知ったという逸話がある(甲陽軍鑑)。
二俣城は今川氏の重臣松井信薫が二俣昌長の後城主となり四代続いた。城主宗信が桶狭間の戦いで戦死すると家中は混乱した。永禄11年になって家康が二俣城を攻略、中根正照を城主にした。正照は武田軍を前に一歩も引かず抵抗したが水の手を切らてはもはや籠城は無理と城を明け渡した。これに対し勝頼は城兵の命を保障する証に人質を正照に預けた。正照は城兵の安全を確認してからその人質を貴船で解放して浜松城へ戻った。二俣城には依田信守・信蕃父子が入った。その3年後再び徳川の城になるが天正7年家康嫡男信康がここに幽閉され、自刃するという悲劇もあった。
【散策のヒント】国道152号線から迷わずにいけます。車で行っても大丈夫です。遺構は東西100b南北350bの縄張りに曲輪や本丸が直線状に配置されています。ここへ来たのは1990年でした。天方城同様記憶が曖昧になっているので再度来たいと思います。
【駐車場】専用駐車場
【最寄の駅】遠州浜名湖鉄道「二俣本町駅」【最寄のバス停】遠州鉄道バス「城下通」
 
C井楼【MAP】
 
 
@A
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D大菩薩山―浜松市有玉西町欠下【MAP】
二俣城を落とした信玄は秋葉街道を南下して馬込川@を渡り大菩薩山で一旦休息、追分に向かった。この大菩薩山を含む地域に欠下城があった。真冬にいくら見通しが良いとはいえ吹きさらしの丘の上に陣を張ったとは思えず、城の遺構を利用したのではないだろうか。
「宗長手記」に1514年朝比奈氏と大河内氏との戦いで「大菩薩」が登場しているが城としての歴史は不明。東名高速道路の工事がこの付近にかかるということで発掘調査をして北側に空堀と土塁が発見された。東側は崖になっていて馬込川が堀の役割をしている。
【散策のヒント】馬込川沿いの東名高速の高架を南へ下ったすぐ西に欠下城Aはありました。城跡に沿って舗装道路Bがあり台地の上まで登れます。しかし登りきるともう城域ではありません。東名高速沿いに未舗装の道Cがありここからも台地へ上がれます。ここは城域になりますが遺構はありません。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「有玉西」
 
@A
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E追分 小豆餅―浜松市小豆餅 銭取―浜松市幸
信玄は欠下城で小休止した後、西へ進んで追分まで軍を進めた。追分(浜松市葵東)は国道257号線@と県道261号線Aの交差点で浜松城から6`弱にある。257号線を南へ行けば浜松城へ向かう権現谷道(堀江道)でこの道沿いに夏目吉信や本多忠真の碑がある。北へ向かうのが本坂道で信玄が進んだ道である。本坂道は姫街道とも呼ばれたが現在の姫街道は県道261号線でここから西北へ進む道である。堅牢な浜松城を囲んだところですぐに落とせるわけでなく、家康と一気に決着をつけるには野戦へ引き出す以外になかった。そのために信玄は家康が背後を衝きたくなるような行動に出た。
【散策のヒント】自転車でせっせとやってきました。ここから南へ行くと「小豆餅(浜松市小豆餅)」B「銭取(浜松市幸)」Cという変わった地名の所があります。三方ヶ原から浜松城へ逃げ帰る途中で家康があまりの空腹に茶店で小豆入りの餅を食べたのでそこが「小豆餅」という地名になりまた。しかし持ち合わせがなく食い逃げをした家康に茶店の人が追いついてお金をもらった場所が「銭取」という名です。こんな逸話のほかに高階晴久という武士が三方ヶ原の古戦場を探っているとき茶店があってそこで餅を食べたが怪しいことが起こって翌日屈強な武士を連れて戻ると茶店はなく荒涼とした台地に白骨が散らばっていました。そこで小豆餅を供えて供養したことから「小豆餅」というなになったという話もあります。
追分:【駐車場】なし 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「追分」【MAP】
小豆餅:【駐車場】なし
     【最寄のバス停】遠州鉄道バス「泉町北」〜「北部公民館」
【MAP】
銭取:【駐車場】なし 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「銭取」
【MAP】
 
@A
B
F祝田坂―引佐郡細江町【MAP】
果たして家康は信玄を本気で仕留めようとしたのか。信長から援軍として派遣されてきた佐久間信盛らの手前、武田軍が自国を悠々と進んでいくのを手をこまねいてみていると思われては示しがつかないという理由で出撃したのではないだろうか。ただ闇雲に攻めかかっても損害が大きいだけだから唯一相手が不利になる地形の祝田坂で攻撃を仕掛け、そのまま引き上げる予定だったと思う。丁度桶狭間での信長の奇襲を思い起こさせる行動である。
【散策のヒント】「根洗い松」の前から旧祝田坂が始まります@。この道をひたすら進むとやがて鉄塔の下へ出ます。車はここへ停めることができます。道Aは目の前にあるのですぐに分かります。よく城巡りで歩く山道と比べると確かに広いですが、ここを大軍が通るとなると大変なことになると思います。この道を下っていくとやがて正面に井伊谷方面を一望Bできます。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「根洗い」
 
@A
G根洗い松―浜松市根洗町【MAP】
信玄が家康を挑発して野戦へ持ち込んだような記述が多いが、いくら圧倒的な兵力差があっても無傷で戦いを遂行できることは不可能である。そう考えると信玄としては信長との決戦前に戦力を温存したいはずだから出来れば家康に出てきてはもらいたくないはずである。そのために浜松城の抑えに二俣城を2ヶ月もかかって攻略したのだ。しかし戦うとなれば家康が攻撃を仕掛けたくなる、浜松城から離れた、地形的に対等になれる場所となると根洗い松の付近がぎりぎりの地点だった。
ところで今回の信玄の軍事行動の目的は上洛でなく遠江へ侵出することだったという意見がある。そうすると信玄の家康おびき出し作戦は成功しなければならず、家康を討ちもらした上、浜松城を囲むことをしなかったのはやはり上洛するのが目的だったと思われる。
【散策のヒント】国道257号線「根洗」交差点の1つ南の交差点の西に根洗い松の碑@があります。松はありますがこれは2代目Aです。この向いに「旧祝田坂」の碑が建っています。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「根洗い」
H三方ヶ原古戦場―浜松市根洗町【MAP】
12月22日午後5時ごろ武田軍からしかけた「石合戦」から戦いが始まった。大河ドラマ「武田信玄」で渡辺正行が石当ての名人として信玄に採用されたことでわかるとおり前哨戦として石は有効な武器であった。両軍の陣形は数に劣る徳川軍が鶴翼の陣で武田軍が魚麟の陣をとった。石合戦が終わると武田軍中央の小山田昌茂隊2千が後退を始めた。これを見た徳川軍石川数正隊1千2百が攻めかかり本格的な合戦が始まった。小山田隊の後退は敵をおびき寄せるためのものだったが数の上では少ない石川隊が有利に戦いを進めた。それを見た山県昌景隊が救援に駆け付けると今度は本多忠勝と大須賀康高が加勢した。山県隊に対して押し気味に戦う本多隊に今度は馬場信房隊が突っ込んできた。ここに武田信豊・内藤昌豊隊が加わり、大乱戦の中徳川の第一陣が崩された。一時は敗走した小山田隊も味方が優勢なのに乗じて再度参戦したが小笠原長忠・榊原康政・大久保忠世がその側面を突いたため再び小山田隊は退いた。一進一退の攻防が繰り返される中、勝頼隊が押し出してきた。勝頼の参戦がこの戦いの流れを決定した。一旦崩れた徳川軍は陣形を立てなおす事が出来ず敗走をはじめた。戦いが始まって2時間後のことである。
【散策のヒント】国道257号線沿いににある「三方ヶ原墓園」の駐車場の端に碑があります。と言ってここが戦いの中心になった場所と言うわけではありません。
【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「三方ヶ原墓地」
 
@A
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C
I夏目吉信の碑・本多忠真の碑・平手汎秀の墓(平手神社)
敗走をはじめた徳川軍がしなければならないことは家康を無事浜松城へ逃がすことだった。家康を中心に周囲を家臣が囲んでひたすら浜松城へ馬を走らせた。追撃する武田軍に一騎また一騎と討ち取られ家康を守る家臣は減って行き、さすがの家康も覚悟を決めた。その時留守居役の夏目次郎左衛門吉信が浜松城から駆けつけ、家康の馬の轡を取っていた畔柳助九郎武重に自分が敵を引きつけている間に家康と城へ戻るように言い、十文字の槍を携え25騎を従え「我こそ徳川家康」と叫んで敵を引きつけ、身代わりに死んでいった。本多忠勝の叔父本多肥後守忠真は家康退却にあたり殿を買って出た。街道の左右に旗指物を突き刺し「これより一歩も引かない」と言って武田勢に刀一本で切り込んで戦死した。子の菊丸は父の遺言に従って家康を護衛して浜松城へ連れ戻った。彼らの他に松井忠次は家康の鎧と自分のものを交換して家康の影武者になり敵を引きつけ逃げ切った。鈴木久三郎は家康の采配を奪って家康の身代わりに戦死した。
一方織田軍の援軍だった各部将だが平手汎秀は戦線離脱に成功したものの地理に不案内の上、夜になってしまったので浜松城の南でウロウロしているところを討ち取られた。汎秀は信長の傅役平手政秀の息子とか孫といわれる人である。佐久間信盛は最初からこの戦いに消極的だったようで自軍に損害が出ないよう態勢が決まる前に逃亡した。信盛とすれば勝ち目のない戦いで信長から預かった兵を失ったほうが叱責されると思ったのではないだろうか。また安藤守就、水野信元は本坂街道を進軍中家康の敗北を知って帰国している。
【散策のヒント】「夏目吉信の碑(浜松市布橋)」@は国道257号線を挟んで犀ヶ崖資料館の向かいにあります。「本多忠真の碑(浜松市鹿谷町)」Aは犀ヶ崖資料館の横にあります。車で行っても犀ヶ崖資料館が何時でも利用できるので安心です。「平手汎秀の墓(浜松市東伊場1丁目 平手神社)」Bは「グランドホテル浜松」の近通路を西へ抜けて右の方にあります。参考までに私は正月に平手神社が近いということでグランドホテル浜松に泊まったのですが一泊二食付税サ込みで\9500でした。部屋も広く快適でした。素泊まりは¥5500です。
浜松市役所の前に
「家康鎧掛け松」Cがあります。浜松城に逃げ込んだ家康が鎧を掛けた松ということで初代は城内の堀のそばにありました。現在のは3代目です。
夏目吉信の碑:
【駐車場】犀ヶ崖資料館駐車場 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「さいが崖」
【MAP】
本多忠真の碑:
【駐車場】犀ヶ崖資料館駐車場 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「さいが崖」
【MAP】
平手汎秀の墓:【駐車場】なし
【最寄のバス停】遠州鉄道バス「東伊場」 【最寄駅】JR「浜松」
【MAP】
鎧掛け松:【駐車場】なし 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「市役所前」
【MAP】
 
@A
B
J犀ヶ崖―浜松市鹿谷町【MAP】
命からがら浜松城に戻ってきた家康は城門をすべて開けさせ、篝火を赤々と焚いて敗残兵の収容を容易にした。そのうちに酒井忠次が城内の太鼓を威勢良くたたき出した。追撃してきた山県昌景や馬場信房らはこれは「空城の計」かと警戒しそれ以上深追いはしなかった、というのが一般的である。しかし現実は帰還する兵が多く一々城門を開閉していられなかったし、敵も勝ちに乗じて一気に城内に入ったところで城を落とせるわけがないと判断したのではないだろうか。
一方的な負戦にあって大久保忠世・天野康景は犀ヶ崖で夜陣を張る武田軍に一泡吹かせようと奇襲部隊を編成、16丁(100丁の説も)の鉄砲をもって
夜討ちをかけた@。地理に不案内の武田軍はあわてて崖から落ちて死者が多く出た。これには別の話があって逃げる家康を追ってきた武田軍だったがここに崖があるとは知らない上、辺りはすでに暗かったので次々に転落したというものである。
犀ヶ崖は水蝕によってできた
東西2キロ、幅50メートル、深さ20〜40メートルの崖Aである。したがってもし奇襲で落ちたのであれば崖の城寄りに武田軍がいたことになり、ここには橋でもかかっていた可能性もある。またこの付近を「布橋」というがこの崖に布で出来た橋を掛けて武田軍を崖下の落としたことに由来しているという話もある。
【散策のヒント】犀ヶ崖の横には犀ヶ崖資料館があります。ここには遠州大念仏団の本部として利用された宗円堂がありました。天正2年犀ヶ崖から使者のうめき声がしたりイナゴが異常発生して作物が壊滅したのはここに落ちた武田の死者の霊が成仏できないからだということになり、供養したのが遠州大念仏団の始まりです。資料館の前には駐車場があり何時でも停められるみたいです。資料館は月曜休館ですが三方ヶ原の戦いに関する資料はないようです。資料館の横に天明の五俳人大島蓼太の「岩角にかふとくたけて椿かな」と言う句碑Bが建っています。
【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「さいが崖」
 
@A
B
K刑部城【MAP】
三方ヶ原で家康を破った信玄は三河へ向かうために北上、祝田から刑部へ向かった。刑部には砦があってそこを利用した。12月23日から翌年の1月3日(1月7日との説もある)までここで過ごした信玄はその間諸方に手紙を出している。28日朝倉義景に「三方ヶ原で家康を破り、1千余人の首をあげた。ところで貴殿が越前へ引き上げたと聞いて非常に驚いている。信長を討つ絶好の機会なので絶対に軽率な行動をとらないようにしてもらいたい」という内容の手紙を出している。また29日には信長に反旗を翻した松永久秀と本願寺顕如にも戦勝報告を出している。
刑部城は家康が永禄11年12月14日に三河から遠江に侵攻したときに手に入れた。その後は菅沼氏が城主となっている。なお、信玄が陣を張った刑部城はこことは違うという説もある。
【散策のヒント】県道261号磐田細江線の「落合橋」南側のガソリンスタンド「エネオス」の裏にある金山神社@が「刑部城」です。今も井戸があるそうです。金山神社の横を流れる「刑部沢」にかかる橋は「城下橋」Aという名前でお城を意識した名前です。家康が刑部城を落とした時の昔話Bが金山神社の近くにあったので載せておきます。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】遠州鉄道バス「落合橋」 【最寄の駅】
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