@杖突峠―茅野市宮川と伊那市高遠町【MAP】
甲州街道茅野宿から高遠を経由して三州街道へ通じる杖突街道の標高1245メートルの最高点。諏訪側からここまで直線距離で3キロにも関わらず標高差450メートルもある難所である。しかし遠江へ向かう秋葉街道に繋がっていたので文化面でも商業面でも軍事面でも非常に利用された街道である。
【探索のヒント】国道152号線が杖突街道とほぼ同じコースをたどっています。本当の峠より北に展望台を兼ねた「峠の茶屋」があります。
【駐車場】無料専用駐車場 【最寄のバス停】JRバス関東「守屋登山口」
 
@A
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A高遠城―伊那市高遠町東高遠【MAP】
中央構造線は地形的に人の往来がしやすく街道が発達した。高遠はその中央構造線にあり北は諏訪、南は遠江、西は伊那から飯田へ向かう街道が集まる交通の要衝であった。諏訪上社大祝の諏訪氏はその要衝を押さえるべく惣領家諏訪頼継の嫡男信員(貞信)を派遣した。これが高遠氏の祖となる。やがて諏訪氏は大祝になる大祝家と実権を握る惣領家が対立し、惣領家が大祝家に勝利した。高遠氏は大祝家をを助けたため今度は諏訪家と高遠家の争いになった。
その後両家の争いは沈静化していたが高遠頼継の時、惣領家の正当な血筋は高遠家であるということで武田晴信の誘いに応じ諏訪頼重を攻めた。戦いの結果頼継は諏訪半国にあたる宮川の西側を領有する事になった。しかし本来諏訪の地は高遠家のものだと考える頼継は諏訪の拠点である上原城を攻撃、諏訪全土を手に入れた。これに対し晴信は甲府にいた諏訪頼重の嫡男虎王丸を擁して諏訪に攻め込み、高遠勢を駆逐した。武田の信濃統治を望まない信濃の諸勢力の動向もありこの後3年間頼継は武田に反抗しつづけた。結局武田軍によって高遠を奪われた頼継だったが、晴信と小笠原長時、村上義清との戦いで頼継は伊那一帯の勢力を味方につけるため高遠に戻された。小笠原氏が滅ぶと晴信は伊那での頼継の台頭を嫌い自刃に追い込んだ。その後武田家の猛将秋山信友が城主となり山本勘助と共に大改修にあたった。
【探索のヒント】桜で有名な高遠城@なので観光地として駐車場はここかしこにあります。私は4月24日に行ったので交通制限も厳しくなく「高遠町歴史資料館」の駐車場に車を停め城跡まで行きました。北・南・西・グランドゲートがあり、歴史資料館からは南ゲートになります。むかし本丸へは南曲輪と二の丸から入れました。有名な桜雲橋Aは二の丸からの入り口です。本丸の北西の駐車場が勘助曲輪Bです。晴信の参謀山本勘助の手によるものといわれていますが、武田時代高遠城の大手は城の東にありそこを守る勘助曲輪の虎口も東にありました。江戸時代になり大手が西へ変わると虎口も西へ移動しています。直現在残っている大手門は江戸時代のものを移築したものですが昔のものより小さくなっています。
【駐車場】有料駐車場 歴史資料館駐車場は無料
【最寄のバス停】JRバス関東伊那里線「高砂橋」高遠線「高遠駅」
 
B南下
一般に信玄が通ったコースは天竜川沿いの国道153号線の三州街道で大島城から飯田城そして青崩峠を越えたとなっているが実はこれはかなり遠回りなコースである。信玄が重病を抱えている上、京から遠い場所から行くのだからとにかく早くたどり着きたいはずだ。
そこで信玄が軍用道路として使った棒道の存在がクローズアップされる。信濃侵攻で有名な棒道が遠江侵攻用にもあるというのだ。それは高遠城からすぐに南下する現在の国道256号線である。途中分杭峠、地蔵峠を越える高地を通る(最高度1428m)ルートだが急な上り坂は少ない。さらに南北朝時代には一般的に使われていたという。
 
C柿本城
 
@A
B
D国境
通常信玄が通ったとされるのが青崩峠@Aである。しかし2万にも及ぶ軍勢がこの狭い峠を越えるとなるとかなり時間がかかる。そこで国道256号線から分かれて同じく静岡県へ入るヒョー(兵)越峠Bも利用したと考えられる。標高は青崩峠より高いが勾配は緩やかなので小荷田隊などはこちらを通ったほうが楽かもしれない。
 
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