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@加治田城―加茂郡富加町加治田【MAP】
佐藤紀伊守忠能は関城の長井隼人正道利、堂洞城の岸信周とともに信長の東美濃侵攻に備えていた。永禄8年7月に佐藤忠能・右近衛門忠康父子は丹羽長秀を通じて信長に寝返ることを申し出た。前年稲葉山城が竹中半兵衛らに乗っ取られるという事件が起こり、城を追い出された竜興が城を取り返すような軍事的な動きをしなかったことから斎藤氏を見限ったのかもしれない。しかしこの寝返りの代償は大きかった。堂洞城の岸信房に同盟の証として嫁いだ忠能の娘八重縁を殺害、その首を長尾丸山へ晒した。このような犠牲を払って佐藤氏が寝返ったことに信長は非常に喜んで使者である梅村良沢に黄金50名を与えた。この後の堂洞城の戦いで忠康が戦死、斎藤新五郎長竜が養子となって加治田城主となる。永禄10年忠能は龍福寺を建立、隠居して仏門に入った。新五郎が本能寺で戦死した後、斎藤玄蕃が城を守り織田信孝と対立した秀吉の命を受けた森長可が攻撃したが守りきった。しかし玄蕃の死後、結局長可の城となった。
佐藤氏は藤原秀郷を祖としているという。つまり斎藤氏とは同じ出になる。室町期に美濃武儀郡に所領を得て土着する。
【探索のヒント】清水寺Bの前に登山ルートの案内があります。舗装された道をひたすら上っていくとやがて山に入って生きます。数箇所に「加治田城」「梨割山」「清水寺」の案内表示があるので迷う事はありません。湿地帯が途中にありますが気分転換になって非常にいいと思います。途中近道「加治田城まで250メートル(近道)」の表示があるのですが足が痛かったので本道(あと650メートル)を通りました。近道は堀切を上ることになるのでしょうか。この道は「加治田城まで150メートル」の地点で本道と合流します。本丸@には看板があるだけです。その先に行くと二の丸になっていて礎石Aのような物があります。ところで私は専用駐車場に車を停めずにそのまま山道を進んでしまい左に大きく曲がる道の右に方向転換用らしきのスペースがあってここへ車を停めてしまいました。ゴメンナサイ。 
【駐車場】清水谷川公園駐車場
 
@A
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A鵜沼城―各務原市鵜沼南町城山
「美濃の虎」と渾名された大沢正秀の居城。宇留間城とも表記する。正秀は長良川の戦いでは義竜につき活躍、犬山城織田信清と信長の争いでは信清を支援するなど信長に敵対していた。しかし犬山城が信長の手に落ち、目と鼻の先の伊木山に織田軍の砦が築かれるとあっさりと降伏している。以上が「信長公記」の記述。
「武功夜話」では秀吉が信長から鉄砲・馬と130人の兵とを借り受け、川並衆を合わせた400余騎で木曽川を渡った羽場に陣を張った。秀吉方の坪内為定・利定は大沢正秀・基康父子とは昵懇の間柄で基康にすでに猿啄城が丹羽長秀の手に落ちたことを伝え、父子の命は助けるので降参するよう勧めた。基康がこれを受け入れると秀吉は自ら鵜沼城に入り、大沢父子の助命嘆願に坪内利定を信長の元へ行かせた。しかし信長は正秀と犬山城の信清に何度も煮え湯を飲まされていることから絶対に助命は認めなかった。そこで利定は生駒家長に相談、家長は信長にせっかく加治田城の佐藤紀伊守が降伏し東美濃の状況が好転しているのにここで大沢父子を殺害したら再び悪くなってしまうと説得した。これに一旦は激怒した信長だったがやがて大沢父子の助命を認め城は開城された。
【探策のヒント】鵜沼城は木曽川にかかる犬山ツインブリッジのすぐ東隣にある岩山@にありました。現在ここはフェンスで囲まれ立ち入り禁止Aになっています。そして犬山でも有名な「やばい」スポットでもあります。多数の監視カメラにぐじゃぐじゃの有刺鉄線B外周を回ってみましたが非常に怖かったです。以前は岩山(正式には「城山」)の天辺に「城山荘」という料理旅館があり廃墟と化していましたが現在(05.5月現在)は取り壊されています。城山自体は3年前に1億円で各務原市に買収されているのですが門から山の下までは持ち主が別なので山に近づくことはできません。市では城山の西側に遊歩道を作って城山公園にする予定だそうです。
秀吉が陣を張った羽場には
「三ツ塚」Cというものがあります。1521年に霧ヶ城(城山)城主大沢和泉守正吉とその妻子が土岐氏に攻められてここで自刃したそうです。「古城探訪」の鵜沼城のページにこの付近で大沢正信(正秀の父?)父子が秀吉軍と戦闘、戦死したとの伝承が載せられています。
●鵜沼城【MAP】:【駐車場】名鉄「新鵜沼駅」東側に有料駐車場
【電車】名鉄犬山線・各務原線「新鵜沼駅」 JR高山本線「鵜沼駅」
●三ツ塚
【MAP】:【駐車場】路駐【電車】名鉄各務原線「苧ヶ瀬駅」
 
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B伊木山城―各務原市鵜沼【MAP】
この地の土豪伊木清兵衛忠次の城とされるが「信長公記」には鵜沼城(約2.5キロ)・猿啄城(約5.8キロ)まで見通しが利く山ということで信長が目をつけここに要害を築いて織田軍が常駐したとだけ書かれている。「武功夜話」によると清兵衛と旧知の仲である蜂須賀小六・前野将右衛門が伊木山城に向かい、信長につくことを説得して寝返らせたとある。その後信長が伊木山城を訪れると清兵衛は山芋(とろろ芋)でもてなし、信長もたいそう喜んだらしい。
織田信長が伊木山攻めで功績のあった武馬尚遠に伊木氏を名乗らせたと言われる。また一説には江戸時代池田家の筆頭家老家だった伊木家が藩に提出した由緒書きには池田恒興に仕えた伊木家の祖は加々輪新右衛門という武士で詳細はわかっていない。その子の長兵衛は1543年に清洲城下に生まれ、幼少から恒興に仕え犬山に七十貫文を知行していた。その後伊木山で「御吉凶之様子御座候由、其子細之儀者聢不存候」という中、名字を「伊木」とするよう命ぜられ、伊木清兵衛を称したという。その後、「豊後守」の官途名を与えられて伊木豊後守を称したというものである。「武功夜話」では清兵衛は先祖代々この地に住んでいると言っているしよくわからない。しかしこの伊木氏は秀吉、秀頼、徳川家に仕え明治を迎えているので時代を読む目は確かなのであろう。
【探策のヒント】伊木山はオリエンテーリングに利用されるために山頂への上り口はいくつかあります。「少年自然の家」へ行くと地図がもらえます。西は「熊野神社跡」から東は「キューピーの鼻」までいくつもの道で繋がっています。山頂が主郭Aになっていて東西に曲輪が確認できます。キューピーの鼻に立てば犬山城・鵜沼城・猿啄城Bが見ることができます。しかし少し残念だったのは山の南側が採石場で山が削られていたこと@です。伊木山は県道95号線沿いにあるのですぐにわかります。愛知県側からだと木曽川を挟んで伊木山の全景が見ることができます。 
【駐車場】少年自然の家 市民プール
【電車】名鉄犬山線「新鵜沼駅」 JR高山本線「鵜沼駅」
【バス】各務原市ふれあいバス西部・鵜沼線「丸子団地」
 
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C猿啄城―加茂郡坂祝町勝山【MAP】
多治見修理が守っていた城。猿啄城は南は木曽川、北は岩がむき出しの絶壁の276メートルの山@に築れていたため難攻不落であった。織田軍がこの城を攻めるとなると木曽川を渡らねばならず「武功夜話」には栗栖まで川に沿って進み、そこから岩に縄を3本つないで約9メートルの木曽川を素っ裸で渡ったとある。しかし約200メートル先にある猿啄城から丸見えのため銃撃される前に急いで渡らねばならなかった。戦いは丹羽長秀が山上の水の手を占拠したことから城兵は降伏、多治見修理は堂洞城へ逃亡して続く織田軍との戦闘で死亡したとか、甲州へ逃げたとかいわれる。今回の東美濃攻めで初めての戦闘に勝利したことから縁起がいい山として「勝山」と名づけた。この戦いで大活躍したのが河尻鎮吉である。河尻秀隆といった方が馴染みがあるかもしれない。父重親が斎藤道三に追われて大桑で戦死、秀隆は織田信秀に仕え小豆坂でも奮戦している。今回の美濃攻めは秀隆にとって父の弔い合戦だった。秀隆の活躍に信長はこの城を与え、現在の坂祝町から美濃太田市の領地を与えている。
猿啄城は1407年ごろに西村善政によって築かれ、1503年から田原左衛門が城主となっていたが1547年同族の多治見修理が謀反を起こして城を乗っ取ったという歴史がある。
【探策のヒント】鵜沼から国道21号線を美濃賀茂へ向います。「勝山」の交差を左折すると左に「覚専寺」がありますその少し手前に「猿啄城展望台」の表示があるので左折してそのまま道なりにどんどん進んでいきます。やがて左右に車の停めることのできる駐車場につきます。大きな猿啄城の由来を書いた案内板あるのですぐわかります。そこから山へ入っていくと左手に「展望台」の表示があるのでそれに従って左へ入ると民家のような社(?)の横を抜けて山へ入ります。民家の裏手に「河尻鎮吉」の碑Bがあります。ここから約30分で山頂の展望台Aに到着します。50メートルごとに「あと○○メートル」の表示があるので「頑張らなあかん!」という気になります。山頂から南西に小牧山・伊木山C、北は平野になっているので加治田・関方面も望めます。尚、水を忘れた方は登山道入り口に飲み水があるので利用しましょう。でも「勝山」の交差点に来るまでに必ず水分を手に入れておいた方がいいと思います
【駐車場】専用駐車場 【最寄り駅】JR高山本線「坂祝駅」
 
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D堂洞砦―加茂郡富加町夕田【MAP】
信長は自軍の損害を出さないため、また城主岸信周の武勇を惜しんで金森長近を派遣して降伏を勧告した。岸氏が長近と同族の佐藤氏ということから選ばれた可能性もある。この交渉に当ったのが嫡男の信房でこの降伏勧告に対して自分の二人の幼い弟の首をはねて断固拒否したため、織田軍と加治田勢の総攻撃を受けることになる。午前8時ごろ攻城軍は夕田・蜂屋方面から攻めかかった。
堂洞城の東側は丘陵でつながっているが三方は深い谷Bになっているため力攻めするのは得策でないと判断した信長は兵際まで近づいて松明を城内に投げ込むことを指示した。この日は風が強くたちまち二の丸に火が広がった。攻城軍はこれに乗じて一気に城門を突破して城内に入り本丸へ迫った。夕方5時ごろ猿啄城で活躍した河尻秀隆が本丸に一番乗りした。続いて丹羽長秀軍も本丸に突入し、攻守乱戦となった。この戦いの中信房が戦死、城方の大将格も次々討ち取られた結果、信周は妻とともに自害してこの戦いが終わった。
堂洞城について「信長公記」には長井道利が加治田城を攻めるために作った砦で信周と多治見一党を入れたとある。別の説では城はもとからあり蜂屋頼隆が城主だったが信長の美濃侵攻に際し信長へ降ったので岸氏が代わって城主になったとしているが永禄2年信長が将軍義輝に謁見するため京へ向かったとき頼隆が同行しているのでこの説はおかしい。しかし岸氏がこの地に縁があるのは間違いない。尚、この戦いで「信長公記」の作者太田牛一は信長から知行を与えられるほどの活躍をしたと自らその中で記している。
【探策のヒント】富加町役場の直前の交差点を東へ曲がり田園地帯をひたすら道なりに進みます。分岐点の第一番目に壊れた案内板(右)があります。これを右へ進み山の中へ入っていきます。そして初めての十字路を左へ曲がります。十字路といっても車1台がやっと通る細い道ですが見つけたら迷わず左へ曲がってください。どんどん山へ入っていくと左右にゴルフ場のフェンスがいくつも見えてきます。「もし行き止まりで方向転換でけへんかったらどないしよう」と思わずにひたすら進むとゴルフ場のフェンスで行き止まりになります。その右側に貯水場がありますのでそこへ車を停めることはできます。もちろん方向転換も十分できます。行き止まりのゴルフ場のフェンスの手前の左のブッシュの中に本丸@へ通じる細い道があります。この途中の西側に大きな岩Cみたいなものがあり、期待して見に行きましたが何でもありませんでした。歩いて5分ぐらいで本丸に到着です。これ以外にも徒歩で来る道はありましたが今回は通りませんでした。本丸の解説板の前に石碑があるので「堂洞城跡」の碑と思いきや「南無阿弥陀仏」Aと彫られていました。信周とともに運命をともにした人たちの供養碑みたいです。 
【駐車場】駐車スペースあり
 
 
I兼山城―可児市兼山【MAP】
【探策のヒント】
【駐車場】なし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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